17.ジレンマ
†
翌日はさすがに学校へ行ったけれど、部活には顔を出さなかった。そして、そのまま例のマンションに向かうつもりで、何時もとは反対向きのバス停に向かった。
結果、バス停の
ヨシヒト先輩だった。
何でまたいるんですか貴方は。何なんですか。
私が彼に気付く前に、彼はすでに私に気付いていた。
「こんにちは」
「――こんにちは」
「
いやだな。名前なんか呼ばれたくないのに。あとほっといてくれよ。
ヨシヒト先輩は、ぼんやりと脚を投げ出して、じっとこっちを見ていた。今日の先輩は半端丈のズボンではなく、色が薄くなった細身のブラックジーンズを
無言で立ち尽くしていると、先輩はくっと
「ここ、座ったら」
「――……。」
脚が動かなかった。
この人は、仕草で判断してはいけない人だ。目が違う。目が、実際のこの人を語っている。この目の人間は、他人の心の内側を見抜く。
先輩はひとつ溜息を落とし、姿勢を正した。そして、再び真っ直ぐに私の顔を見た。
「俺のこと、もしかして避けてない?」
図星に、胸を
心臓の、
心臓の奥底で、炎が揺れる。じりりと、音を立てて
「そんなこと、ないですよ」
「じゃあ、何で何時もそんなに逃げ腰なんだよ。こないだだって逃げたじゃん」
「……それは」
立ち上がったヨシヒト先輩に、私は思わず、びくりと後ずさった。それに、彼の動きも止まる。
「――ほら。逃げてる」
静かな眼差しが、私の心の底を見透かす。私を無理やりこじ開けようとしてくる。
いやだ。
こんなのは、嫌だ。
炎が、ゆれる。
「もう、止めて下さい。私に関わらないで下さい」
「どうして?」
「私っ、あなたみたいな人苦手なんです」
「……なんで?」
「キライなんです。嫌なこと思い出すんです。嫌な人のこと思い出すんです。お願いですから関わらないで! こっち来ないで下さい!」
叫んでから、丸々一小節分くらい間があいた。
「――わかったよ」
先輩は溜息をついて、しばらく名残惜しそうな気配を漂わせていたけれど、やがて
立ち去る彼の後れ毛が風に揺れる。
停留所の横に立ち尽くした一本の木もまた、ざわざわと風に揺らされ、木の葉を落とす。
私自身の心もまた、そんな頼りなさに途方にくれていた。
†
私は、体中に糸を巻きつけた繰り人形のようになって、結局マンションには向かわず、家に帰った。
相変わらず窓辺で座り込んだまま動かない〈姫〉を見て、私はもう何もかもが嫌になってしまった。〈姫〉の膝の上に頭を投げ出して、身も心も投げ出して、その感触に甘えた。子供みたいに、〈姫〉の懐にもぐりこんでいたかった。
と、その時、ぴるるるるるるるんっ、とスマホが鳴った。
本当に突然だったし、〈姫〉の膝の上でまどろみ掛けていたものだから相当驚いた。それでも何とか気を取り直して起き上がり、カバンの中からスマホをひっぱり出した。表示された名前に、一瞬固まる。ちょっとだけ迷ってから、一息深呼吸して通話ボタンをスワイプした。
まぶしいと、今更に気付く。見れば、室内には橙色が満ちていた。すでに西日が差し込む時刻なのだ。
「はい」
『妙先輩ですか?』
宮澤君だった。
「――どうしたの」
『そりゃこっちのセリフですよ! もう三日も部活に来てないし、先輩のクラスに行ったら、二日間学校にも来てなかったって聞いて……今日は学校には、来てたんですよね?』
「ごめん。つっつぁんには言ってあるんだけど」
『先輩。――また何かあったんですか?』
心配げな声だった。
「……何が?」
『ほら。半年前の時だって、……大分長く、学校にも来れなかったじゃないっすか。……あの、そりゃ当然だとは思うんですけど』
宮澤君が
「――ね、宮澤君。オケの中、まだ、あの噂回ってる? 私がパパ活やってるっていう、アレ」
『先輩が言わないで下さい』
怒ったような宮澤君の声に、思わず「ふふ」と笑いがもれた。
「制服姿で自宅じゃないマンションに入って、そこから親戚でもないおじさんと二人きりで出てくるのなんか見られたらねぇ、そりゃ、言い逃れもできないよね」
『妙先輩』
「あれ、ほんと誰だったんだろうね、写真とった犯人」
スマホのむこうで、宮澤君が歯ぎしりさせた音がした。
「まあ、向こうの顔にだけはスタンプ入れてくれただけマシだけどさ」
『先輩、ほんとに、なんで本当のことみんなに言わないんですか』
「――これ以上、相手に迷惑かけられないからだよ」
宮澤君が、受話器の向こうで溜息をつく。
『でも、ナコちゃん先輩も、ずっと気にしてますよ』
「……ナコが?」
『妙先輩って、黙って笑って、人の文句も視線も流してるように見えるけど、溜め込んでしまってから、突然ふらりと爾志オケも捨てて行ってしまいそうだって。自分の限界まで我慢してから、ある日突然いなくなってしまうんじゃないかって……』
「――……。」
ナコ、というのはコントラバスパートのもう一人の三年で、パート・リーダーである
まちがいなく、扱いにくい世代だ、私達は。しかもオケ。お友達ではない、互いに少ない席を実力で奪い合うライバルだ。そんな連中をまとめるのは大変に決まっている。時に困惑した表情を浮かべる彼女の顔を思い出す。
不愉快だった。
私のことを、わかったように表現されたくない。彼女には特に。私が立ち直っていないことは事実だろうし、オケの皆には何の説明もしていないのだから、何時までたっても噂が消えないのは当然だろう。……でも、どの道、誰にも
あんたら、お友達じゃないだろうが。
ぐっと唇を噛んで、耐えた。耐えきって、笑う音を、宮澤君に聞かせた。
「あのね、自分の中でさ、もっとちゃんと整理が付いたら、ナコとはちゃんと話しするよ」
『妙先輩……』
「確かに、突然一ヶ月も学校休んで、それに対して何の説明もなしっていうのは――ね」
受話器の向こうで、息がつまる気配がした。
「宮澤君にも、甘えてて申し訳ない」
『そんな、こと。妙先輩が気にすることじゃないですよ。僕は、先輩のベースすごい好きなんですから。いつまでも待ちますから。絶対帰ってきてください』
「――ありがとう」
ボタンを押して通話を終了する。
辛かった。
宮澤君が、私を受け入れてくれている実感と、その誠意に対して何一つ信頼を委ね切れないジレンマが、歯痒さが、また彼の言葉が私に対するものだと心が納得しない違和感が、――受話器をおいた後も、私を責め続けた。
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