16.電話



         †


 自宅に帰り着いた後、〈姫〉が私の部屋で眠っているのを確認してから、キッチンのシンク前に立ち尽くして、スマホから電話をかけた。


 ぷるるる、ぷるるる、という、やたら甘ったるい音が何秒か続いてから、ようやく「もしもし」と、少しだけ低くかすれた男の人の声が私の耳をくすぐった。


佐久間さくまさん」

『――どうした、みょう


 名前を呼ばれて、やっと安心の溜息が出る。それと同時に、眠っているはずの〈姫〉の気配がやけに気になって仕方なくなる。

 今の私の姿は、彼女には見られたくない。


「うん」

『ほんとどうした。今日はずいぶん疲れた声してるな』


 やわらかで、どこかしら甘さがある佐久間さんの声は、私を安心させてくれる。シンクから離れて壁に背中を預けると、そのまま、ずるずると床まで伝い落ちた。目を閉ざし、一音だって聞きもらさないつもりで佐久間さんの声に意識を集中する。


「佐久間さん、電話出るの遅かったねぇ」

『スマン。風呂、入ってた』


 あれ、気のせいかな。受話器の向こうで、かしっ、ぶしゅ、という音がしたぞ。


「ちょっと、まさかビール?」


 まともな返事のかわりに、ぐびりと水分が飲みこまれてゆく音がする。


「佐久間さん? だめでしょ」

『だいじょうぶ。ノンアルだから』

「お風呂上りって、またガウン一枚でウロウロしてるんじゃないでしょうね」

『セクシーだろ』


 似合いもしないのに、かっこつけて言うから、「風邪なんかひかないでよ」と返すと、「大丈夫だよ」と溜息のように笑った。


 時計を見ると、時刻はまだ7時を回ったところ。こんな時間にビールの缶を空けているなんて、どこか佐久間さんらしくない。


 でも、今の私には、受話器越しに気配を探るだけで精一杯だった。とても心が鈍く、そして弱くなっていた。


「佐久間さん。私、宮川みやがわ とおると会ったよ」


 受話器の向こう側で、「へぇ」と感嘆したのが聞こえた。


『で? どうだった?』

「不可思議な人だった」


 言うなり、佐久間さんは「ぶはっ」と吹き出した。


『なるほどな。適切な表現だ』

「どうして?」

『妙は、宮川の凱旋コンサート聴きに行かなかったろ』

「行ったの?」

『行ったさ』


 初耳だった。


『宮川 澄は、高校生時分はパブロ・カザルスの再来だなんだって言われていたけど、俺は、帰国してから、ちょっと感想変わったよ』

「ああ、そうなの? 演奏スタイルとか変わってたんだ?」

『音は聴かせてもらわなかったのか?』

「そんなタイミングじゃなかった」


 佐久間さんは「もったいない」と笑った。そういえば今更気付いた。私は楽器を持っている澄さんを見たことがない。


「そうだ。佐久間さん、お金のことだけど」


 それが今日の本題だった。


『ああ。振り込んでおいた』

「――ありがとうございます」

『どういたしまして』


 ぐびり、と向こうで喉が鳴る。物悲しくなって、ちょっとだけ笑った。


「楽団員って、お金あまるほどもらってんの?」

『だったらいいけどな。ま、真面目に働いてれば、溜まるものは溜まるんです』

「で、累進課税の法則のもと、相続税がっぽり国に持ってかれるのね」


 受話器の向こう側で、不自然な間が開いた。


『――妙』


 私は「ふふっ」と笑った。


「この法律に従ってると、三代で財産なくなるって言うよね。私、日本人が先祖供養とかしなくなったり次世代のこと考えなくなったのって、コレもそーとーに原因してると思うんだけども」

『違いない』


 佐久間さんもくすくすと笑った。この人の笑い声は、とても耳に心地好い。落ち着いていて、気安くて、それに、どこか誘われたような気になる。


「――ねぇ。そっち行こうか?」

『いや、今はいい』

「なんで」

『客がいる』


 あ、


「ごめんなさい、じゃました」

『いいよ』


 受話器の向こうで、うん、とひとつ咳払いの音がした。


『――なぁ、妙』

「ん?」

『お前、ベースは弾けてるか?』

「ベース? ……ああ、エレキの話?」

『ああ』

「――うん。弾いてるよ。今日弾いたよ」


 嘘はついていない。本当に今日、Psyのベースを弾かせてもらったからね。


『それなら、いいんだ。宝の持ち腐れにだけは、するなよ』

「わかってる。ありがとう」


 乾いた溜息がもれる。電波の隙間に紛れて誤魔化せてればいいけど。


『何弾いたんだ?』

「佐久間さん知ってるかな。【アブラナ】って曲なんだけど。それと【5月15日の支配】って曲」


 佐久間さんが、ひゅうっと息を吸い込んだ。


『――《WESTウェストGOゴー》か』


 驚いたのはこっちだ。


「佐久間さん、《WEST‐GO》知ってるの?」

『……知ってるよ。俺、一緒に仕事したことあるからな』

「うそ⁉」

『嘘なもんかよ。なんでお前知らないの? それとも? ――まぁいい。妙、何年か前に【小説・アゲハ】って映画が公開されたの憶えてるか?』

「ああ……そういえば見そびれてるけど、確か、何かすごいプロジェクト組んでたよね」

『ああ』


 最近、どこかでこの話、聞いたな。どこだっけ? ――あ、そうだ、つっつぁんだ。つっつぁんととおるさんが、準備室にその【小説・アゲハ】の舞台裏エッセイ本があるって話してた。ハードカバーの白い本って言いながら視線を向けてたから、あれだろうな。背表紙のタイトルも見たわ、そういえば。


 スマホのむこうで、佐久間さんが、ゆっくりと、どこか思いつめたように息を吸い込んだ。


『――その映画で楽曲を担当したのが、《WEST‐GO》のボーカルだよ』


 そんな仕事までしてたんだ、Psy。


『で、その主題曲の主旋律を弾いたのが、俺』

「完全に初耳だよ」

『まあ、ああいうものはプレイヤーをメインに押し出したりしないからな。その主題曲が【Reincarnation】だ』

「――【支配】のインストヴァージョンのだ」


 あれに、そんなつながりが……。


『そう。で、それをレコーディングした時に、インストヴァージョン弾いたメンバーで、歌ヴァージョンの【支配】も録音したんだよ』

「初耳が多すぎて、私、馬鹿の気分だよ」

『そりゃあね、お前が不勉強なだけ。でも――あれ、ちょっと待てよ。【支配】って確かまだ流通してないんじゃなかったか?』

「うん」


 と、確か音希があの時言っていた記憶がある。


『じゃあ、何でお前が【支配】のこと知ってるんだ?』


 おおっと、しまった薮蛇だ。


「ファンの間では常識らしいよ。歌ヴァージョンは【支配】って言うんだって」

『お前が《WEST-GO》ファンなんて初耳だぞ』


 私だってそんなの初耳だ。


「友達がファンなんだよ」

『妙』

「はい」

『――何か、かくしてないか?』

「何かって?」


 やだな、鋭いなぁ。ちょっと食い気味に返しすぎたかも知れない。


『何かは何かだ。変わったことがあったら、すぐに言うんだぞ』

「わかってる」

『妙』

「なに」

『あの……』

「うん」

『サイのことでなにか――』


 え?


 今、なにか変な違和感が……。


「Psyが、どうしたの」

『いや、何でもない。もし、Psyのことでおかしな話か何か聞いたら、教えてほしいんだ』

「……わかった」

『すまん、頼む。じゃあな』


 通話を切って、私は腕の間に顔をうずめた。


 不可解な疑いと違和感が、薄霧のように立ち込める。

 でも、その薄霧をはらおうとすればするほど、それは濃くなってゆく。――そしてまた、私の中の虚ろな空洞が、その果てしない許容量を、私に見せ付けてくるのだ。

 どうしようもない沈黙が、重石のように私を沈める。

 溜息をついて、うつむいていた顔を上げた。


「……いつから、聞いてたの」


 ――私の視線の先には、無言でたたずむ〈姫〉がいた。

 白いその肌から、月に誘われて、光の粉があふれて。

 夜が、静かにけていった。




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