12.「あなた」



        †


 真っ赤なカーネーションを、一抱えも胸に抱いて進む廊下は白々しかった。


 私の、黒いソックスと焦げ茶色のローファーをいた足からは、少しずつ、生身の感触が薄れてゆく。踏みしめているはずの味気ないリノリウム製タイルが、ゆったりと笑いかけてくるかのようだ。とろりとして、嘘くさい。


 なぜ、ここに来るといつもそんなふうに感じるのだろう。


 見慣れたルームナンバーの前まで来ると、いつも私は立ち止まって、ドアに映る私の影をながめる。木製の枠に嵌め込まれた擦りガラスは、懐かしいイメージを呼び起こし、そこを通る淡い日の光は、哀しいほど眠気を誘う。影の輪郭全てを心の中でなぞり終えてから、深くふかい深呼吸をひとつ、する。


 自覚したくないけど、覚悟が必要なの。強くあるために。でなければ、私こそが、くずれおちてしまうから。


 こんこん、とノックをして、ドアノブに手を掛けた。木製のドアと金属製の丸ノブが擦れて、きゅるきゅると鳴く音に耐えながら、その光の幻想の中へとすべりこむ。


(ああ……)


 ゆれるカーテン。そして、あふれる光。


 こちらに背中を向けて、首筋をなでる冷たい感触のオーガンジーのカーテンに、全てをゆだねきった、美しい影。


 心のどこかを壊すことで、幼児よりも無邪気な平安を手に入れたヒトだ。


「母さん」


 呼び掛けると、彼女はゆったりと振り返り、やはりゆったりと時間をかけて「誰だろうか?」と思案の表情を浮かべた。そして、やがて何かに思い至ったように満面の笑みを浮かべた。この瞬間、いつも私は期待をしてしまう。


 そして期待は破られる。





 私は、彼女の見る幻覚の面影に合わせて、少し皮肉げに、照れたような笑いを、した。口の両端だけを、まるで犬のように吊り上げるやり方だ。


「来てくれたのね? うれしいわ。もうずっと、ひとりぼっちのままなのかな? って思ってたの」


 私は彼女の側までゆくと、その胸に赤過ぎる花束を贈った。


「プレゼントだよ」

「ありがとう。綺麗な花ね。……なんの花だったかしら」


 ――カーネーションだよ。

 母の日の、花だよ。


が花になんか詳しくないって、君が一番良く知ってるだろ?」

「そうね。そうだったわね」


 彼女は、花弁の一枚、一枚のギザギザを、愛しそうに見つめ続けた。そんな彼女を前に、私は目を閉ざし、闇の向こうの光を見通そうとした。そうすることで、必死で耐えきろうとしたんだ。


 残像に過ぎない過去を、私はしずかに見つめる。



 ねぇ。

 ねぇ、あなたは、一体誰なの?

 そして、――は、一体だれ?

 だれ? 




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