3.肉色の花

11.ただ、逢いたかっただけなの




 次の日の朝、私は少しだけ早起きをした。マンションへ行く前に、寄らなければならないところがある。


 朝食にヨーグルトをかきこむ。気のせいか、乳製品を食べると、口のなかに膜が張ったようになる。わたしだけか? とにかく、その気配を追い出すためには、常より念入りに歯と舌とを磨かなくてはならない。ガラガラという、うがいの音を聴くと、何だか「生きることは決して格好よくは行かないのだ」と教え諭されているような気になる。そして同時にホーミーの真似事まねごとが成功するのじゃないかと、全く関係のないことを考えてしまう。にごった水を吐き出して、ホーミーにトライした上で、結局それも成功しないことを悟る。洗面鏡の中で、果てしなく滑稽こっけいな私が、髪からしずくをしたたらせているだけだ。


 それから髪をかして、灰緑色したノースリーブの膝丈ワンピースをまとい、その上に白い七部丈のカーディガンを羽織った。そうしてようやく、滑稽なだけの私から、世間に出ても差し障りのない私になる。


 外出の支度をする私を、〈姫〉は静かに見護っている。彼女は今日も白いアオザイのような服を着ている。手持ち無沙汰に壁に手のひらをわせながら、ぼんやりと私の形だけを網膜に映している。でも、〈姫〉は私を明確はっきり見ているわけではない。ただ、私という存在の形があることを、ぼんやり認識しているだけの眼差し。いつも、そうだった。


 だけれど。

 思わず後ろ髪をひかれたような気になる。


 今日の彼女からは、何となく不安定なものを感じるのだ。そんな不安定な表情で見護られると、私も、少なからず心が不安定になる。


 今日みたいな日に、こういうのは少し困る。いや、大いに困る。


「じゃあ、行って来るからね。バイバイ」


 ローファーに足を突っ込んで、それでもまだ背中に心許こころもとないものを感じた私は、もう一度だけと振り返った。


「大丈夫だよ。ひとりになんてしない。おいてったりしないし、すぐ帰ってくるから」


 笑いかけて、今度こそ扉を開けようとした時。


「――サイ」


 どきりとして、風が巻き上がるほどの高速で振り返った。

 〈姫〉が、泣いていた。


「ゴメンナサイ。……ごめんなさい」


 しずかに〈姫〉はうつむくと、アオザイの裾を両手で握りしめた。


「どうして謝るの? 〈姫〉は何にも悪いことなんて、してないじゃない」


 ううん、ううんと、〈姫〉は首を横に振り続ける。私は靴を脱いで側に戻った。震える彼女の右手をつかむと、耐えかねたように、〈姫〉はそのまま床にくずれおちた。首を横に振りながら、小さく嗚咽おえつをもらす。


「したの。したのよ。私が今ここで生きていることこそが、その証拠なの。だから――」


 遠くで鳴る、間延びしたトラックのクラクションが、軌跡を残して時間を通り過ぎてゆく。


「――だから、」


 時間が、間延びして。



「――だから、私は、おいていかれた」



 小さく、ささやくように、しかし確かにそう言った。

 はたはたと、涙が白い衣の上に落ちる。


「私が心から吐き出すものは、全て人を殺してしまう……言葉でも、文字でも、そして存在そのものでも、人を殺してしまう……」


 私と〈姫〉をつないでいるのは、〈姫〉の右手と私の左手だけだった。どうすることもできないまま、私は立ち尽くすしかない。


「――ねぇ。〈姫〉は私を救ってくれたよ。私が失ったものを取り戻させてくれたよ。誰かに心をあずけるってことを思い出させてくれたのは、あなたなんだよ?」


 〈姫〉は、力なく首を横に振った。


「私は、ただ、逢いたかっただけなの……どうしても、逢いたかった」

「逢いたかったって、誰に?」


 見下ろしても世界は変わらない。

 いやだ、と思った。

 泣く人の頭を見下ろすのは、いやだ。



「――母さんに」



「――……。」


 私の手から、〈姫〉の白い右手がずるりと抜け落ちる。その刹那、〈姫〉の人差し指と中指の先端にできた固いしこりが、私の親指に引っ掛かった。それは、まるでのように思われて、心に引っ掛かる。抜け落ち、だらりと投げ出された右腕は、空しく作り物のように〈姫〉の足元で死んでいた。


 〈姫〉は、ただ静かに泣き続けた。


「私、行くよ。花、買わなきゃいけないから。――待っててよ。絶対に、ここで待っててよ」


 今度こそローファーに突っ込んだ足で玄関を飛び出た。背中にべったりと〈姫〉の気配が張り付いている気がしてならなかった。


 きっと私は逃げたのだろう。逃げられるわけなどないと知りながら、それでも私は逃げていた。階段を駆け下りて、必死でその影を振り落とそうと足掻いた。



 これからまた、泣く人の頭を見下ろして、途方にくれに行くのだけれど。





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