3.肉色の花
11.ただ、逢いたかっただけなの
次の日の朝、私は少しだけ早起きをした。マンションへ行く前に、寄らなければならないところがある。
朝食にヨーグルトをかきこむ。気のせいか、乳製品を食べると、口のなかに膜が張ったようになる。わたしだけか? とにかく、その気配を追い出すためには、常より念入りに歯と舌とを磨かなくてはならない。ガラガラという、うがいの音を聴くと、何だか「生きることは決して格好よくは行かないのだ」と教え諭されているような気になる。そして同時にホーミーの
それから髪を
外出の支度をする私を、〈姫〉は静かに見護っている。彼女は今日も白いアオザイのような服を着ている。手持ち無沙汰に壁に手のひらを
だけれど。
思わず後ろ髪をひかれたような気になる。
今日の彼女からは、何となく不安定なものを感じるのだ。そんな不安定な表情で見護られると、私も、少なからず心が不安定になる。
今日みたいな日に、こういうのは少し困る。いや、大いに困る。
「じゃあ、行って来るからね。バイバイ」
ローファーに足を突っ込んで、それでもまだ背中に
「大丈夫だよ。ひとりになんてしない。おいてったりしないし、すぐ帰ってくるから」
笑いかけて、今度こそ扉を開けようとした時。
「――サイ」
どきりとして、風が巻き上がるほどの高速で振り返った。
〈姫〉が、泣いていた。
「ゴメンナサイ。……ごめんなさい」
しずかに〈姫〉はうつむくと、アオザイの裾を両手で握りしめた。
「どうして謝るの? 〈姫〉は何にも悪いことなんて、してないじゃない」
ううん、ううんと、〈姫〉は首を横に振り続ける。私は靴を脱いで側に戻った。震える彼女の右手をつかむと、耐えかねたように、〈姫〉はそのまま床にくずれおちた。首を横に振りながら、小さく
「したの。したのよ。私が今ここで生きていることこそが、その証拠なの。だから――」
遠くで鳴る、間延びしたトラックのクラクションが、軌跡を残して時間を通り過ぎてゆく。
「――だから、」
時間が、間延びして。
「――だから、私は、おいていかれた」
小さく、
はたはたと、涙が白い衣の上に落ちる。
「私が心から吐き出すものは、全て人を殺してしまう……言葉でも、文字でも、そして存在そのものでも、人を殺してしまう……」
私と〈姫〉をつないでいるのは、〈姫〉の右手と私の左手だけだった。どうすることもできないまま、私は立ち尽くすしかない。
「――ねぇ。〈姫〉は私を救ってくれたよ。私が失ったものを取り戻させてくれたよ。誰かに心をあずけるってことを思い出させてくれたのは、あなたなんだよ?」
〈姫〉は、力なく首を横に振った。
「私は、ただ、逢いたかっただけなの……どうしても、逢いたかった」
「逢いたかったって、誰に?」
見下ろしても世界は変わらない。
いやだ、と思った。
泣く人の頭を見下ろすのは、いやだ。
「――母さんに」
「――……。」
私の手から、〈姫〉の白い右手がずるりと抜け落ちる。その刹那、〈姫〉の人差し指と中指の先端にできた固いしこりが、私の親指に引っ掛かった。それは、まるで慣れた感触のように思われて、心に引っ掛かる。抜け落ち、だらりと投げ出された右腕は、空しく作り物のように〈姫〉の足元で死んでいた。
〈姫〉は、ただ静かに泣き続けた。
「私、行くよ。花、買わなきゃいけないから。――待っててよ。絶対に、ここで待っててよ」
今度こそローファーに突っ込んだ足で玄関を飛び出た。背中にべったりと〈姫〉の気配が張り付いている気がしてならなかった。
きっと私は逃げたのだろう。逃げられるわけなどないと知りながら、それでも私は逃げていた。階段を駆け下りて、必死でその影を振り落とそうと足掻いた。
これからまた、泣く人の頭を見下ろして、途方にくれに行くのだけれど。
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