10.G線上のアリア



          †


「ただいま」


 アパートの玄関から中に踏み込むと、人のにおいや気配なんかからは、完璧に断絶された、私の家独特の空間になる。


 かちゃん、と扉がしまる。


 確かに私が住んでいるのに、ここには生活臭というものがない。シンクの中で、ぴちょりと蛇口からしずくが垂れる。目蓋を閉じ、しばらくその音に耳を澄ませた。


 ――なんて静かで、残酷な音色だろう。


 冷たすぎて、肌が粟立あわだつほど細胞に染み渡る。

 一つ頭をふるってから、サムターンキーを回した。かちゃんと金属質な音が落ちる。どうして、こんなに重く感じる音なのだろう。滅入るほどではないけれど、心の温度が下がる。


 台所をすり抜け、自分の部屋へと直行する。

 かちゃり、とドアを開けた。


 月の光が、開け放ったままの窓から差し込み、部屋全体の空気を冷え冷えとさせている。異空間に見捨てられるよりも、ずっと哀しい手触りがそこに満ちている。

 室内で待ち受けていた小さな頭が、ゆっくりと振りかえった。


 〈姫〉だ。


 なんて白いのだろう。彼女の白さは、夜の空気にも溶けるのだろうか。月の光に化学反応して、燐紛りんぷんを散らすように、いっそうのこと、その輝きを増してゆく。


 〈姫〉は、私の姿を認めると、にこりと微笑んだ。


「おかえりなさい」


 〈姫〉の声からは、しもが降った森のような冷たさを感じる。だのに、その声が醸す空気はひどく居心地が良い。ゆるやかで静謐。真実、独特な声だ。

 私は、にこりと笑った。


「お腹空いてない?」


 問い掛けると、彼女は微笑みながら、こくりとうなずいた。


 〈姫〉は、アオザイによく似たデザインの服を着ている。色は純白で、よくきぬたを打った上等の布のように、とろりとした質感をもっている。


 私はカバンを投げ出すと、〈姫〉のかたわらに腰を落として、その膝の上にゆっくりと頭をあずけた。そうすると、何時ものように、〈姫〉の冷たい手が私の首筋をなでてくれる。そのことをわかっているから、私は今日もこの膝に甘えてしまう。〈姫〉の手は、少しずつ肩から背中をなで下ろし、また、何度も私の身体をなでつけた。


 その衣擦きぬずれの音が、今日も私を追いつめ始める。



 音楽がほしい。

 音楽をかなでたい。

 コントラバスで。



 でも、今の私を最も追いつめるものも、またコントラバスなのだった。


 弾きたい。でも弾けない。弾きたくない。コントラバスに触れたくない。――でもコントラバスの音にくるまれたい。


 月光がふりそそぐ。狂った未熟な音楽が、肺を、呼吸器官の全てを、命を破壊してゆく。鼓膜を破って、海馬を引きずり出して、抱きしめたいような衝動に駆られる。鼓動ですら聞こえないようになればいいのに。そうすれば、もう音に惑うこともなくなるのに――。


 きゅっと目蓋を閉じた。


 私は少し前に、河川敷で〈姫〉と出会った。そして、何も言わず、ただ困ったように微笑む彼女をつれて帰った。


 そうして、今に至る。


 〈姫〉は何時も、自分自身の奥底を見つめるような目で私を見る。私も〈姫〉の目の奥に自分の影をさがす。そうして、私達の境界は、とても曖昧になってゆくのだ。


 あたたかな膝の上で、私がかたく縮こまっていると、あたたかな手が、ゆっくりと背中を何度もなでていった。


 それから、ふわりと、静かなメロディが、上からふってきた。〈姫〉だ。〈姫〉が歌を紡いでいる。少し高くて儚いその声は、「G線上のアリア」を口ずさんでいた。


 こんなもの、長くは続かない関係なのだとわかっている。だけれど今〈姫〉を手放すことはできない。この膝で甘え、この冴え冴えとした肌に触れ、新陳代謝を拒絶したような世界でしか癒されない傷もあるから。


 冷たいオーガンジーが首筋をなでるように、〈姫〉は私をなでる。


 生々しい現実から切り離された幻想世界の底に横たわって、私は、すこしずつ意識を手放していった。


 窓の向こう側では、教会の尖塔に赤い十字架がともっていた。






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