13.【5月15日の支配】
†
指定されたマンションは、ごく洒落た造りで、外壁を
エントランスのセキュリティで、
ぽーんと軽い音と共に、入ったのとは反対側の扉が開いた。エレベーターを降りて、まっすぐにその廊下を進んでゆくと、廊下の右手中央あたりに、一部壁の中に引き込む形で玄関らしく設えられた部屋の扉があった。303号室。インターホンを押してしばらく待つと、かちゃりと乾いた音がした。
私を出迎えてくれたのは、
「よう来てくれたな」
片岡さんが着ていたのは、黒い半袖のTシャツだった。その
通されたテレビドラマで見るような豪華なリビングに呆気に取られていると、片岡さんは、右手の壁に埋め込まれていた扉に向かった。それが防音だということは見てすぐにわかった。そして、片岡さんが片手でいとも軽々それを開けたとたん、そこから、ギターの
「うっわ……」
思わず私は身を引いた。それに気付いた片岡さんが、苦笑を浮かべつつ私のほうに手を差し伸べる。これもやはり大人の手だ。
「大丈夫やで。
大きくて皮の厚い手が、すっぽりと私の手を包み込んだ。片岡さんの手のひらは、実にドラムスらしい、ごつごつとした感触を持っている。なのに扱い方はひどくやわらかくて、それが私を予想以上に動揺させた。
無骨で整った男の人の手は、私の心を総毛立たせる。思い出したくないものを、思い出させる。
ねぇ。
――ねぇ、あなたは、だ。
唐突に、ギターの合間に音希の声が絡み出した。どこかで聴いた憶えのある歌だ。どうやらそれが《WEST‐GO》の曲らしい。そしてそれは、今まで聞いたこともないような音希の歌声によって紡がれていた。
「なんや、結局合わせるんか華月のヤツ……」
轟音の隙間で、片岡さんが
私の手は、まだ片岡さんの手のひらの中にある。
『腕がふれる
肩にまわされるぬくもり
暖かいあなたの腕が背中にふれて
さらさら髪流れて
花がちぎれ
春雷がいじった体を
暖かいあなたの胸が癒してくれて
さらさら涙流れて
黄色い足跡が肌に刻まれた日
空は異常なくらい青かった
神様がいた気がした 春の日アブラナが
この体を満たしていた
現実全て 息がとまりそうなほど
くちびるから
あふれだしてくる微笑み
春の色 あなたは「ぬくもりだよ」と言った
ゆれてた痛みと空
黄色い足跡が肌に刻まれた日
空は異常なくらい青かった
神様がいた気がした 春の日
アブラナが この体を満たしていた
現実全て 見えるだけ全て
黄色い足跡が肌に刻まれた日
空は異常なくらい青かった
神様がいた気がした 春の日
アブラナが この体を満たしていた
現実全て 息がとまりそうなほど――』
「これ……なんて歌?」
思わず、口から言葉がもれていた。
「【アブラナ】や」
背後で、片岡さんが防音扉を閉ざしながら答えてくれた。いつの間にか、私の手は片岡さんから自由になっている。一体いつ放されたんだろう。気付かなかった。
扉が閉ざされたとたん、閉塞感で圧迫されそうになる。ひどい圧縮感。それは一秒ごとに淡雪の如く降り積もり、脳内の気圧まで変わってしまったんじゃないかしらと疑わせる。――だけど音楽ブースに
「アブラナ?」
「そう【アブラナ】。俺等の……っていうか、《WEST‐GO》のメジャーデビューファーストシングルの曲な。俺とタタラが加入する前の、Psyと華月二人だけでやってたころの曲や」
「……そうなんだ」
「なんや俺、原曲に参加してへんの、悔しなるくらい、めっちゃ好きなんよなぁ、この曲」
横から答えてくれた片岡さんは、じっと音希を見つめていた。……とても、嬉しそうに。
バーンアウト寸前の、私が知らない種類の音楽を、その身の内に飼っている。
ここにいる人達は、皆そうなんだ。
なんだか、自分だけが、ものすごく部外者に思える。だって私は根っこがクラシックだから。
ふと見やると、部屋の中にはメンバーと音希の他に、スーツ姿の青年が一人と
ああ、そうだ。澄さんは私と同じ種類の音楽の人だ。「部外者でーす」と屈託のない笑い方をしながら、床の上に無造作に脚を投げ出している。おかげで何だかすごくほっとして、私は口許を
「私も基本的にはそのはずだったんですけどもねぇ……」
「でもね、僕もなんか参加することになっちゃった」
「え、は?」
「今回やる歌ね、イントロのところ、「ストリングベースかチェロで」って指示書きがあったんだって。Psyさんって人、すごい人だったらしいね。さっき聞いたんだけど、オケ楽器も
「――引き受けたんですか?」
「僕は、チェロが弾ければ環境はどこでもいいもん」
――確かに澄さん有名だろうから、Psyが知っていても何も不思議はないのだろうけど。
「そう言えばねぇ、昨日
「はあ」
「あのすぐ後にマネージャーさんも来てね、ハウス内に引き返して、正式に話し合いしたんだよ」
私の耳元に口をよせて、澄さんはひそひそと説く。スーツの青年は、どうやらマネージャーだったらしい。その存在だけで事の現実味が増す。
「なんて言ってました? マネージャーさん」
「最初はやっぱり絶句してたよ。とんでもないって。確かにとんでもないよねぇ。事務所に話も通さないでほとんど本決まりしてたんだもん。いやー、ここのバンドさん、メンバー全員我が強いっていうのは
「面白かった……ですか」
「この発言はやっぱり
「流血はちょっと……」
「結局先にマネージャーさんが折れたよ。折れざるを得ないって感じだったのも事実だけど、
ああ、なるほど。
【アブラナ】が
「この子怖いね。Psyよりも音域広いんじゃないかな?」
華月さんの言葉に、「僕もそう思いますよ!」とマネージャーさんはブンブンと首を縦にふった。
「声の質や、ファルセットの掛かり方なんか、目の前でPsyが歌ってるのと全く同じに聞こえますよ!」
そうか。マネージャーさんがエキサイトするくらいなんだから、まぁ、良かったんだろうな。それが音希にとって良いことなのかどうかは、わかんないけど。
「Psyの歌で歌わなきゃいけないんでしょ? だったら合わせるわよ」
汗をかいて額に張り付く髪を、いかにも
でも、ファーストシングルの歌が歌えるってことは、全然詳しくないとか言ってたけど、やっぱり《WEST‐GO》のこと知ってたんだな、音希。気になってたんだろうなぁ……本人素直じゃあないからなぁ。入れたくなくてもチェック入れてたんだろうな。
と、マネージャー青年が目を輝かせながら言った。
「華月さん! この娘でPsyさんの変わりに《WEST‐GO》続けられないですかねぇ?」
「
突然の怒声にびくりとして振り返ると、何時の間にかドラムセットの前にスタンバイしてた片岡さんが、椅子を倒して立ち上がっていた。マネージャーを蹴り捨てずにはいられないような勢いだった。音希も目を見張っている。不快感で満ちているのが私にも見て取れた。
「おまっ……なんちゅーこと言うねん! アホも休み休み
「っ……」
タタラさんも信じられないといった調子で続けた。
「ここだけは、あたし達が死守しなきゃいけないんだよ。あんた一体どれだけPsyのマネージャーやってきたの? 一体、あいつの何見てきたつもりなの?」
二人の怒気に気圧されしていると、やがて後ろで、かたんと音がした。何かと思って見やると、それはどうやら華月さんがギターをスタンドに立て掛けた音だったらしい。
長い髪が微かに彼の顔を
「――私達は、全員、ただ彼女という存在を全力で護ったんですよ」
――彼女。
「Psyの魂がこの世から消えてしまっても、《WEST‐GO》と、《WEST‐GO》の音楽だけは消えない。消させない。これはね、彼女が
ゆっくりと、華月さんが背筋を伸ばしてゆく。
「彼女の居場所は、音楽の中にしかなかった。それはあなただってよく知っているはずです。……彼女の遺した音楽は、彼女そのものなんです。私は、例え誰であっても、これに手を加えて変質させることを
その言葉が、最後のダメ
何となくわかってしまった。
華月さんは、片岡さんやタタラさんみたいな怒り方は絶対しない人だと――いや、できない人なんだと気付いてしまった。
まあ、どのみちあのマネージャーさんは、三人の堪忍袋のしっぽを自分でちょんぎってしまったということだ。で、もうこれ以上ここに留まるのは、不可能というより無謀だろう。このままムリに、ここに居続けようとしたら、一体どうなるか知れたもんじゃない。うん、私は、華月さんが一番恐いな。うん。
で、マネージャーさんは、大人しく扉を開けて出ていった。
やがて、沈黙が底から立ち込めてきた。どうしよう、またいたたまれないタイムがやってきてしまった。どうやってさり気なく逃げ出したものか私が思案していると、ふと、音希の表情が目についた。音希は、それからもしばらく難しい顔で黙っていたんだけど、やがて不服そうにその場にしゃがみこむと、ゆらゆら身体を揺らし出した。
「それさあ、本当に……Psyはそんな風に望んでたのかな」
ぼそりと
「――あたしは、《WEST‐GO》について、すごい詳しいワケじゃないわよ。それはPsyに関しても一緒。確かにね、自分から意図的に目を逸らし続けてきたのは事実だよ。でもPsyって、人に伝えよう伝えよう、残そう遺そうとしてたように思うよ? それくらいはわかってたよ。変わってゆくことを達観してたように……あたしは思うよ。だってPsy、「最後はこの【5月15日の支配】で終わらせる」って《WEST‐GO》をはじめた時から決めてたんでしょ? 【支配】のインストヴァージョンの【Reincarnation】が、ファーストシングルの3曲目に入ってるのなんて、ファンの間じゃ常識だって言うじゃない。それだけで明白じゃん。
これって転生の歌じゃない」
「――え?」
声をもらしたのは、華月さんだった。
「転生。再生の歌だよ、【5月15日の支配】って。それ以外の意味考えられないよ。5月15日の誕生花って知ってる? 歌詞にもあるでしょ? カーネーションだよ。それから支配ってreinっていうの。Reincarnationってrebirth(再生・転生)のことじゃない」
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