2.冷えた月

7.「遺言」




 突然の抱擁ほうようから、一体どれぐらいの時間が経過しただろうか。


 唖然として口をぽかんとあけている観客かんきゃくは、私ととおるさんの二人。突発でストリート演劇の舞台上に引き上げられたのは、ついさっき舞台ステージを終えたばかりの音希おとき


 硬直した音希がようやくはっとしたのは、彼女の手から愛用のバンブーバングルが、するりと抜け落ちたからだった。かりん、と硬質な音が、騒がしいはずのハウス内で、なぜかはっきりと響いた。


「ちっ……ちがっ、なっ、ちょっ、まっ、離してはなれてえっ!」


 正気に戻った音希は、必死に人違いであることを叫んだ。叫びながら両腕を振り回して暴れた。


 私の脳裏に「音希を救出しよう」という発想が一切湧いて出なかったことは、認める。だって、あんまりにも突然のことだったんだもん。びっくりしたって仕方ないじゃない? 決して友人の身を襲った、ラブストーリーは突然に生まれるさまを高みの見物していたわけではないのよ? うん。仕方なかったで済ませておこう。ごめん。


 やっとのことで音希が男の腕から逃れると、男は、ぽかんと喪失の表情を浮かべた。そして、飽くほど音希をまじまじと見てから、ようやく彼の目の前の少女が自分の思う人物とは別人であることを見極めたらしい。


 彼は情けない顔で、その手のひらにわずかに残った温もりが、徐々に失われてゆくのを惜しむように見つめていた。寒々とした心持ちなのがあらわで、見ているこっちのほうが寒くなる。しばらく何やら空中と自分の手のひらとを視線で往復していた彼は、「はっ」と短く息を吐いた。


「いや、あの。……す、済まんかった、ビックリさしてしもて。ほんまに、めっちゃ似てて……」


(うわぁっ)


 こてこての関西弁だった。思わず動揺して何故かむせた。実際にナマで聞くと、こんな感じがするものなんだ関西弁って。


 私の動揺なんぞ眼中にないといった様子で、彼は力なく項垂うなだれると深い溜息をついた。すると、その溜息を追いかけてきたかのような足音が、彼の背後からパタパタと近寄ってくる。


片岡かたおか! 何、急にどうしたってのよ?」


 見やると、音希に負けず劣らずの高長身の女性が、その足音の主だった。髪はプラチナプロンドのロングウェーブで、顔立ちには少女らしさがわずかに残っている。


「タタラ」


 振り向いた彼の隙間からこちらを垣間見かいまみた彼女は、音希を見るなり絶句した。


「さいっ――じゃ、ない、の……?」

「みたいやねん」


 茫然自失といった風体で、その女性も硬直して立ち尽くした。

 何がどうなっているのか、さっぱりわからん……。

 事態の脈絡のなさにたまりかねたのは私だけではなかったようで、澄さんは前に一歩出ると、妹の肩を抱いた。


「あの、お取り込み中申し訳ありませんが、これはウチの妹で、宮川みやがわ おとと言います。そちらの言われている「サイ」という人物とは、恐らく別人だと思われますよ?」


 できるだけ無礼にならないよう、この不審人物達(この場合、どれほど丁寧に婉曲やわらかに表現したとしても、それ以外に言いようがないだろう)から、妹をかばう体勢に入っている。さすがです、お兄さま。


 しかし、タタラ、と呼ばれた女性は、そんな我々の眼差しなど物ともしなかった。彼女、多分心臓に毛が生えている。なぜなら彼女は、居心地悪そうに眉をよせた音希の間近にまで、ぐいっと近寄り、まじまじと顔を凝視してきたのである。さすがの音希もドン引きだ。きゅっと眉根を険しくして見せてはいるものの、大した覇気はない。そりゃそうだろう。事態にあまりにも脈絡がなさ過ぎる。


 そして、やっぱりそんなことはお構いなしといった調子のタタラさんは、しばらく思案顔でうつむいていたのだけれど、ふと何事かを思いついたらしく、その目を再び真っ直ぐ音希に向けた。


 その眼差しの鋭さは、ステージ上の音希並みに、他人の心臓をダイレクトかつ無遠慮に射抜くものだった。


「ちょっとあんた、頼みたいことがあるんだけど」

「タタラ?」


 関西弁男が怪訝けげんそうに女性を見た。


「代理のボーカル。やってもらえませんか?」

「タタラ!?」

「一度だけでいいんです」

「ちょっ、おまっ、何考えてんねん!」


 怒鳴る関西弁男に、タタラさんは冷静な目を向ける。その横で、音希が私以外には聞こえないくらいの小さな声で、呆然とその言葉をもらした。


「――ウェスト・ゴーの……カタオカと、タタラ……?」


 タタラさんの次のセリフは、私達の予想をはるかに超えるものだった。


「よく考えてみてよ。よりにもよってラストのテレビ出演蹴んの? それで納得すると思うの? 幸い、シングルのレコーディングはとっくの昔に終了してるんだ。活動終了する時は、電波にして日本中に一気に伝えるんだって、アイツ断言してたじゃない」


 タタラさんは目蓋まぶたをぎゅっと閉ざした。



「――それが、サイの、あたし等への「遺言」なんでしょ?」





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