6.音希



         †


 そのライブハウスは地下にある。

 階段をくだった先の壁には、ジョン・レノンの写真が待ち受けている。それを突きあたりに、左へ階段を折れ曲がって、さらに下りると、入口が姿を現した。地下へと下っているからか、周囲には少しばかりすなぼこりが舞っている。どっしりと重たいドアを、からだごと押し開けた先に待っていたのは、息がつまるほどの熱気と大音量だった。


「あっちゃ。もう始まってたか」


 一人ごちながら、上下左右、縦横無尽にうねるオーディエンスをながめる。


 そこにあったのは、眩暈めまいをおこしそうなほどの暗い色彩でできた、人間のうずだった。その渦中かちゅうに、自分自身もまぎれこむ。何となくだけど、街の片隅の商店街に取り残された、コインランドリーみたいだなと思った。ごごん、ごごん、うーんごごん、と一人で勝手に作動するコインランドリー。あの奇妙な感じに飛び込むような、そんな無謀むぼうをするのだ。


 この空間は、すでに意思によって支配されている。ある種の統合的な意思に。


 爆音。熱情。振動。恍惚。絶望。無力。崇拝。そして憧憬。または共感。呪術的な、支配。


 その中心点は明らかだった。私の真正面に、その人間はいる。ステージ上のセンタースタンドの前で、その黒尽くめの肢体をさらし、首からサックスフォンを吊り下げた女が、それだ。いやに慣れた舌で、流暢なまどるっこしい異国の言葉を紡ぐ。異国の言葉で、歌を熱く甘く、ささやく。


 おとだ。


「いたね!」


 横から大音量に負けないよう、大声で確認してきた澄さんに、こくこくと、うなずいて見せた。


「――……。」


 壮絶な光景だった。

 初めて出会った時の音希も、やっぱり黒尽くめだった。あの時もこのライブハウスで対バンがあって、音希はその出場組みの一人だったのだ。


 そういえば、昨年はやけに事件が多い一年だった。


 春には連続通り魔が現れ、夏には、渇水したダムの底から五体の白骨化死体が出てきた。秋には、児童売買春が絡んだ殺人事件がおきて、それぞれが新聞各紙面や、テレビ画面、webをにぎわせた。そして、彼女と出会った冬には、精神錯乱を装った犯人による発作的な殺傷事件が、越年でメディアを席捲せっけんし続けた。


 最後のそれは、特に大々的な事件だった。……その裏側で、果たして、どれほどの数の事件が時代の底に葬り去られたのだろう。紙面に記載されることもなく、人に知られることもなく、ただ何となく日常から消失していった人間は、果たしてどれぐらいいたのだろう。


 あの時の私は、何も考えたくなくて、何も考えないですむ場所を探していて、結果、このライブハウスにたどり着いたんだった。何も考えなくてすむ音楽を聴いて、そして何も考えないですむ状態を継続させるために店に居座って、ライブが終了したあとも、オレンジジュースひとつで時間を潰していた。


 ほんとうなら、未成年がこんなところに一人でいていいわけがないし、どう考えても目立って仕方なかったはずなのだけど、あの時は、みんな音楽に酔っていた。そしてあの時の私は、そこに、いてもいなくても、どうでもいいものだった。こんな楽しい時間に、一人片隅で小さくなっているような小娘に頓着とんちゃくするような物好きはいない。なんて都合の良い空間だったろう。あの時の私に、ここ以上の場所は存在しなかった。世間に黙殺されることも、必要な時は、絶対に、ある。


 だけど、中にはもちろん例外もいる。何というか、おせっかい焼き、なんだろうなぁ。あの時の私みたいな人間を、放っておけないんだ。そうして、さりげない風を装って、その目の前に立つんだ。


 空になったグラスを見つめていた私が、いい加減、潮時かと、ふっと顔を上げた瞬間、ひとりの女の子と視線があった。


 それが、おとだった。


 音希は、ライブ中も、ステージ上から、ずっと私を見ていたらしい。私と視線が合うや否や、手にしていたミネラルウォーターのペットボトルを持ったまま、私のところまで、ずかずかと歩いてきた。


 無造作にボトルをつかんだ腕のしなやかさが、いやでも目に留まる。私は少しばかり感心しながら、近付いてくる彼女を見ていた。ボーカリストの自覚がある子なんだな、とわかったからだ。結露していないペットボトルは常温のあかしだった。ボーカリストは、何時だって喉を100%の状態にしておかなきゃならない。本気で歌を歌っていくつもりならば。そして、彼女は「本気側」の人だった。


 舞台の上でも、人一倍目立っていたけれど、ステージを降りた彼女は、さらに目立っていた。なんというか、その呆れるほど見事なスタイルが一般人の中に入ることによって、よけいに際立ってしまうのだ。まず、歩を進める脚の長さが半端じゃなく長い。眼差しは鋭くて、視線を投げかけるだけで周囲を圧倒する。多分彼女は、ステージ上にいて、初めてこの世界で一般人と共存し得るのだ。並みの人間が同じ位置に立っていては、彼女に存在感の全てを喰われてしまう。一線をかくしておいて、初めて共に生きることを認められる。多分、そういう種類の人間なんだ。その良し悪しや禍福かふくは、別にして。


 というわけで、私が抱いた音希への第一印象は、そういうものだった。実はその思いは今だって大して変わっていない。だけど、あの時彼女は、私の前に屈託のない子供のような顔をにゅっと突き出して、にこっと笑ったんだった。


 冷たい面立ちに張り付いていた印象が、懐っこい笑顔で化けた。確かに澄さんの近親者だとわかる、似たような笑い方と、印象の変化だった。


 音希はセントミゲール女学院のジャズ部員で、サックスプレイヤーだ。学外では、アマチュアロックバンドのゲストボーカルとして一躍名をせている。

 音希は、男にも女にも等しくモテる。どちらかといえば三割増くらいで女ファンの比率が高い。ざくざくに切った、腰にまでとどく長い髪。身長タッパも高く肩幅もしっかりある。要するに大柄なのだ。化粧っ気もないのに顔の印象が派手なのは、顔を構成するパーツの全てがはっきりしていて、まつげも瞳も眉毛も、何もかもが黒々とした色を誇っているからだろう。



 彼女の歌を聴くと、いつも胸の奥でうずくものがある。



 あらゆることに対して淡白で、無関心な私が、たった一つだけ、胸の奥に抱えたもの。

 ただ、心の奥底に、一点だけともった炎がある。


 それは深く、激しく、しかし小さく、私の心臓の、最も強く血流を押し出す部分に巣食すくっている。その炎の正体が一体なんなのか、私は、いまだに、わからずにいた。

 音希の歌には、それを、ほんの少しだけ、表に呼び出そうとする力がある気がする。小さな小さな炎が、彼女の歌を聴くことで、かすかに揺れる。私が音希と友人でいるのは、そのためなのかも知れない。この炎にさざなみをたてることができる、数少ない存在だからなのかも知れない。



 演奏終了後。


 ハウス内の一席を陣取って、私と澄さんがソフトドリンクで喉をうるおしていると、音希は目聡めさとく私達を発見して近付いてこようとした。が、ところどころで観客に捕まえられては談笑をはじめるので、中々我々のところまで到達できない。二人してその一部始終をまったり観察した。


「モテモテですね」

「モテモテだよねぇ」

「しっかし、相変わらずの格好ですね」


 ずずり、とストローからすすり込みながら私は感想を述べた。


「え? 誰の格好が相変わらずって?」

「だから、音希ですよ」


 再びずずり、と吸い込む。今度は澄さんと動作が一致してしまった。二重にずぞぞ、という音が重なる。間抜けで、見ようによっては不気味な光景かも知れない。音希が身にまとっていたのは、ブラックジーンズと、裾を切った迷彩柄のTシャツだった。


「着がえてもステージ衣装と大差ないのが、彼女らしいっちゃー彼女らしいんですが」

「確かに」


 澄さんは「あはは」と笑いながら自分の妹を密かに指差して続けた。


「たまにブリブリの乙女趣味のリボンとかフリルがバンバンついてるような服、着せてみたくならない? 俺着せてみたいんだけど」

「それはそれでパンクに着こなしそうで恐いです」

「ヘタしたら、女装してるみたいになるかな?」

「私はそこまで言ってませんからね!」

「あはは。しかし、シルバー製品はともかく、ヴィヴィアンを貢がれるのはそろそろどうかと思うんだけど。あいつももう十八なんだし」

「音希ってどこのメゾンが好きなんでしたっけ?」

「ゴルチェだよ。俺と音希は昔からゴルチェ。リュック・ベッソンの【フィフス・エレメント】観た? あれのデザインとか垂涎物で観てたよ、あいつ」

「ああ、ミラ・ジョボヴィッチの衣装とか」

「うん。すごく着たがってた」


 私と澄さんは顔を見合わせて笑った。そのころになって、音希はようやっと我々のテーブルにたどり着いた。彼女がこちらを発見してから優に十分は経過している。


「おー! ミョウ来てくれたんだー!」


 通りのいい音希の声はもちろん相当の声量を誇っており、店内の喧騒にも掻き消されることがない。こんなところで改めて私は感心した。すごい腹筋だね。シックスパックだね。


「来ないわけないっしょ? 今日もフェロモン全開だったねー」

「いやらしい言い方するなよ!」


 眉を力一杯しかめて、鼻の頭に皺を寄せるのですら華やかなんだから、もうどうしようもない。笑って済ませよう。


 でも実際の話、音希の音は抜群にセクシュアルなんだから仕方ない。「あのサックスフォンの音と声はヒトを腰砕けにするんだ」と、以前、誰かが評していたのを小耳にはさんだことがある。あの時は、あまりに的確すぎるその評価に思わず吹きだした。


 それを音希本人に聞かせてやったところ、すごい顔をしながら「あんたの音だって相当いやらしいよ?」と唇を曲げて言った。解せぬので、どこがいやらしいのかと問い詰めてやると、「確かに、あんたの弦は、あたしとはちょっと種類が違ってるんだけどさ」と言いながら、彼女の所感について語ってくれた。いわく、私の弦は、直接的に何らかのエモーショナルを引き出す類のサウンドではないらしい。どちらかといえば「両脇腹から這い上がる振動の快感が、首筋を辿って行くような心地好さ」なのであるらしい。「神経が繋がっている部位に伝播する刺激のようなもの」とも言われた。それでその時は納得したのだけれど、思い出していて気付いた。どのみちいやらしいと評されるのか。我々の音は。


「俺も来てるんだけどな」

「あっ! 兄貴じゃん! めっずらしー。こんな轟音ごうおんのライブなんて絶対来ないと思ってたのに」


 今頃身内の存在に気付いた音希は、満面の笑みを浮かべた。


「――気付いてなかったの?」

「うん。だってあたしミョウしか見てなかったもん」


 音希はぬけぬけとうなずいた。私は本日二度目のをする。もしや黒子衣装とハウス内の暗さとの相乗効果で同化して見えていなかったとでも言うつもりだろうか? 


 と、音希は「ん?」と眉をよせた。


「そういえばさ、今更だけど、なんで兄貴とミョウが一緒にいんの?」

「なんでって?」

「二人って、面識あったっけか? あたし紹介したことないだろ?」


 どうやら、我々が並んでいることにようやく疑問を持ったらしい。やはりどこかしらボケている。


「今日から面識のある人になったのよ」

「正確にいうと、ここ四・五時間程の付き合いだな」


 私達も充分にボケているかもしれないが。


「――ああそう。まあいいや」


 音希は、脱力感もあらわに溜息をついてから、くるりと振り返り、ボーイを呼んで注文を取ろうとした――のだが、彼女は腕を持ち上げたまま動きを止めた。声を発する気配もない。何事かと、私もちょっとだけ腰を浮かし、背中を向けたままの彼女の顔を覗き込んだ。それから、半ば茫とした彼女の視線の先を追った。



 その先に、――いやにガタイのでかい男がいた。



 呆然としていたのは、その男のほうだった。一瞬オールバックなのかと感じた髪は、どうやら根元でくくられているらしい。長さ10㎝程度の黒くて細い尻尾が、ちょろりと垂れていた。


 男は目を見張っている。音希も目を開けたままでいた。二人のひとみの間に、何か管みたいなものがあって、それが直接目と目に突き刺さっているみたいだった。


 男は、かっちりとしたレザージャケットを着ている。それがふいと上下に揺れた。いや、それは正しくない。実際上下したのは襟で、それは彼が人波を掻き分けようと両腕を振り上げているからで、そしてひとみはそのまま音希のひとみと繋がっている。猛スピードで近付いてくる。決して走ってなどいない。でも、がっちりと視線で獲物を捕獲したまま、全力の早歩きでこちらに向かってきている。そして、私の鼻先を疾風が駆け抜けたのは、多分このいやにガタイのでかい男の存在に気付いてから、5秒たっていない内のことだったと思う。


「サイ!」


 がばり、と。


「サイっ、サイ! サイ‼」


 一言一言がそのいやにガタイのでかい男の唇によって紡がれるたび、彼は捕獲した獲物と共に、ぐいぐいとこちらに押し寄せてくるのだ。必死な目は、すでに捕らえていたはずの獲物から通り過ぎてしまっている。だけれど、相変わらず必死だった。ぼうと見開かれたまま、腕の中に捉えた獲物の感触を必死で確認している。



 そして、彼の両目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちたのを、私は確かに見た。



 風の感触がぎった瞬間には、何が起きたのか理解できていなかった。そして彼が、のしのしのしっと勢い余って歩き過ぎたせいで、テーブルからグラスが落ちて、がちゃん、という音がした瞬間もまだ、何が起きたのか全く理解できていなかった。でも、やがてその事実を確認せざるをえなくなった。


 呆気に取られた私と澄さんをヨソに、音希もまた硬直していた。


 音希は、その、いやにガタイのでかい男の腕の中に、がっちりと抱きすくめられていたんだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る