4. Pie jesu(ピエ・イエス)




 その後、やはりというかなんというか、宮川氏はチェロパートの練習を見には行かなかった。宮澤君を見送ったあと、彼は当初の目的――つまり「顧問への挨拶」をしに行くというので、私はその後について行くことにした。


 なんとなく、ヨシヒト先輩に近付きたくなくて、便乗させてもらったのだ。


 顧問は大抵音楽準備室にいる。宮川氏は音楽準備室へ行くのに「最短ルート」を使った。というのは、廊下には出ずに、音楽室から直接隣室の音楽準備室に繋がる扉から出入りするというものだ。宮川さんが扉を叩くと、中から「おう」とこたえがあった。私は宮川さんの後に続き、盆栽を乗せた棚と、グランドピアノの隙間を縫って、準備室の内に入った。


 中にいるのはもちろん顧問――つまり、だ。私達二人が並んでいるのを見るなり、つっつあんは皮肉気に片頬を歪めた。


「おお。やっと解放されたか。あいつらどうした」

「ヨシヒトがエサで釣って行きましたよ。シュークリーム。先生も好きだったでしょ。早くしないと売り切れますよ」

「大丈夫だ。もう食った」


 テーブルを盗み見ると、確かにシュークリームの抜けがらが、マグカップの横に放置されていた。しかも二つ分。宮川氏は「ははは」と晴れ晴れしく笑った。笑いながら、宮川氏は、すでにスプリングがバカになりかけているソファに腰を下ろす。動作がゆっくり過ぎて「どっこいしょ」なんて聞こえてきそうな風情だった。――いや? 今実際に小声で言ったな?


「いやー、しかしまあ、元気ですねぇ、高校生って」


 ……発言でさらに拍車を掛けていくスタイルかな? もったいない。よく見れば、ルックスは若き日のカラヤンかって感じなのに。


「年食ったって実感するか? ん?」

「まあ、先生には負けますけどねー」

「どういう意味だお前」

「だって、どうがんばったって、先生の歳には追いつけないでしょう?」

「相変わらず口の減らねェ……」

「チェロの実力も増量中です」


 つっつぁんの口調も教師らしからぬものだけれど、宮川氏も負けず劣らずぬけぬけという。中々いいコンビネーションだ。三年前までは毎日こんな様子が見られたのだろう。目に浮かぶようだ。


 つっつぁんは爾志にしオケの筆頭顧問だ。年配なんだか年配じゃないんだかわからない、ひどく中途半端な外見をしている。爆発した白髪混じり頭で、きちんとプレスされたスラックスに、よれよれの上着を引っ掛けて着るのがつっつぁん流だ。ちなみにその上着の袖には、大昔に煙草の灰を落として焼いたという穴が開いている。愛用の品らしいが、穴を大目に見たとしても、そろそろ寿命が切れるころあいだ。買いかえたほうが良い。


 やおら、つっつぁんは私の方へと首をかたむけた。そして、にやり笑う。


「なんだ。宮川お前、よりによって坂井さかい引っ掛けてくるか」


 引っ掛けてって。


「自主的に引っ掛かられました」

「――宮川さん……」


 思わずふたたびジト目の溜息交じりになってしまう。わかった。この人、もしかしなくても、物凄くひねくれてるな?


(チェロの音は、あんなに素直で澄んでるのになぁ……)


 思わず、つっつぁんの机の側にある、ライブラリケースに目を向けた。

 ライブラリケースの中には、全国大会出場時の演奏を撮影した動画のDVD、録音されたCDなんかが並べられている。その中には、在学中の宮川氏の演奏を録音したものもあって、以前、それを聞いたことがあるのだ。……それがまあ、他とはレベルの違うこと。そして、あの音を出せる人間が、どうやったらこんなボケたトークをくり広げられるのだろうか? そう真剣に考えてしまうくらい、彼の音と言語表現には激しいギャップがあった。


 で、その激しいギャップの持ち主は、私が失礼なことを考えながら、彼のことを観察しているなどとはつゆ知らず、「相変わらず得体の知れないものが多い部屋ですねぇ」と、室内をなめるように見回していた。


「そうか? あれからそう大して何も増えてないぞ?」

「マトリョーシカ」


 と言いながら、ロシアの木製入れ子式人形を指す。


「四セットだったのが五セットに増えてますね」


 目聡めさといやつだなぁと、つっつぁんは笑った。


「娘からの土産だ。新潟に行った土産だってんだから笑える話だがな。それ、そこの絵付けの木製スプーンもそうだぞ」


 黒地に赤や金で花や木の実を描いたそのスプーンもまた、代表的なロシアの伝統工芸品の一つだ。私はマトリョーシカよりもこっちのほうが気に入っている。


「みっつ、ありますね」

「カスタネット代わりに使えるんだ。なかなか良い音してるぞ」

「メシ喰うのに使うんじゃないんですか? 本来の用途はどこ行ったんですか」

「使わんほうがいいと、ロシア人の知り合いに止められたんだそうだ」

「誰がですか」

「娘がに決まってんだろ」

「だって新潟に行った時の土産なんでしょう? 新潟に行ってなんでロシア人に教えてもらえるんですか」

「だから、新潟在住のロシア人の知り合いに案内されて、新潟にあるロシア博物館に行ったんだろうが」

「ああ、なるほど」


 ――いや。ああ、なるほどとなる流れだったか? 今の会話。何が「だから」なのかも「なるほど」なのかも私にはわからなかったが?


「僕が卒業したころには、確かバラライカもなかったはずですが」


 さくさく話が飛ぶなぁ。


「バラライカはあれだ。チェルノブイリ原発を中心に核実験関係の研究をしてる大学の同期のヤツが持ってきた土産。そう聞いてから見ると、なかなかありがたい物のような気がするだろ」

「また本も増えましたね」

「お勧めはそのハードカバーの白いヤツだ。宮川、【小説・アゲハ】って映画、見たか?」

「ええ。結構好きですよ」

「その映画の原作者、まあ脚本もそいつが書いてんだけど、そいつが書いた舞台裏話エッセイだ。自宅には小説のほうもあるぞ」

「本当に活字馬鹿なんだから……」

「なんだとう」


 笑えるけど、これが県下随一の高校オーケストラ部の顧問と優秀なOBがかます会話か? そうじゃないだろうに。


「おまえだって楽器一辺倒すぎて女子から引かれる非モテじゃねぇか、やーい童貞」

「はいはい。非モテの童貞ですよ、僕は」

「すまん、マジか……」

「信じるか信じないかは先生次第かなー」


 つっつぁんの軽口を受け流してから、宮川氏は、「相変わらずのバッハびいきですねぇ」と、虚空に向けて目を細めた。まるで、流れている音楽そのものを視界にとらえているかのような仕草だ。


 流れているのはチェンバロ集だった。つっつぁん所蔵品だということは、名前は忘れたけれど、確か盲目の演奏家が弾いたものだ。私もチェンバロの音は結構好きだったりする。


「当たり前だ。全ての基本はバッハとスケール練習に繋がるのだと『オルフェウスの窓』でヴィルヘルム・バックハウスも言っているだろうが」

「そんなマニアックな筋に話を流さないで下さいよ。僕にはわからないんですから」

「名作だろうが」

「少女漫画でしょう」

「読め」

「僕はベルバラ派なんです」

「読んでるんじゃん」

「じゃんとか言わない。いい歳こいて」

「おお思い出した。そういえばそこの戸棚にも新ネタが増えてるぞ」

「なんですか」

「フランス土産のオードトワレだ」

「――会話の流れから察するに、バラ・ベルサイユなんでしょうね」

「なかなか香りも悪くないぞ」

「それを先生に贈る人間の気が知れないです」

「うちのカミさんだが」

「――……。」


 やっぱり何か間違っている。面白いからあえて口ははさまないけれど。


「そういえば坂井。お前練習行かんのか?」


 おっと、ついに御鉢おはちが回って来たぞ。

 そして、つっつぁんたら嫌なことを思い出させてくれちゃってまー。不可抗力で眉間に皺がよるわよん。


「楽器、ないんですよ」

「あ? なんでだ?」


 ああ、と宮川氏が気付いてくれた。


「今、ヨシヒトが持ってっちゃってるんですよ」


 横から助け舟を出してくれたんだけど、それでも私の不快感を和らげる役には立たなかった。全然だった。でもいつまでもこうしているわけにはいかない。


「――ちょっと、行ってきます」


 私は、「相棒」を返してもらうために重い腰を上げた。返してもらったところで、もう今日は弾く気なんざなかったけど。


 ベースの連中は第三練習室にいるはずだから、音楽室の反対側の突き当たりまで行かなきゃならない。ぱたぱたと上履きをならして(再三いうが、本当に色気のないスリッパなんだ、これが)廊下を過ぎる。


 右手から差し込んでくる太陽の光は、相変わらず鮮やかなオレンジ色だった。そのせいで、目の前にせまっているはずの第三練習室は影に包まれ、やけに薄暗く感じられる。


 と。


「――え?」


 練習室に到達するその一歩手前で、私は足を止められた。今は左手に並ぶ、個人レッスンルーム。その内の一室から、音がしたんだ。


 音もれの原因は、扉が角に引っ掛かって、きっちりとは閉まりきっていないせいだった。もれ聞こえていたのは、重い、重い、深く沈んでゆく音。だけど、それは決して不愉快な沈み方ではなかった。人の心を震わせて、優しく包み込んでくれるような、暖かな優しい振動。


 ――「Pieピエ jesuイエス」だ。


 扉には、窓がめ殺しになっている。その隙間から覗いたそこには、すっきりとした男の人の背中があった。


 ――ヨシヒト先輩だった。


 少しだけうな垂れて、うなじを寒々しくさらしながら、彼はていねいに私の「相棒」をいていた。


 そでまくり上げられたことであらわになった、存外に筋肉質な左腕。そしてその先に伸びている長い指は、骨張って大きくて、充分な余裕を持ってネックに回されている。それは、批判材料をさがすことが難しいほど、美しい指だった。



 ああ。

 ほんと、嫌になるくらい、よく似ている。



 気付いてしまった。どうしてヨシヒト先輩のことが気に食わないのか。

 気付いてしまったら、もう耐えられなかった。無意識のうちに、ぎゅっと、胸のあたりをつかんだ。心臓の奥で、揺れるものがある。小さく、しかし強いものが。


 彼の背後から、「あと、それちゃんと片付けといて下さいね!」と叫ぶように声を掛けると、彼が振り返る前に、逃げるようにその場を後にした。


 胸にいた泥のような感触と、目に焼きつきかけた先輩の指先とを、記憶から振り切りたかったんだ。


 ぱたぱたと羽ばたくように鳴るスリッパだけが、私の背中を追いかけるものだ。それ以外のものなんか絶対に受け付けない。先輩の視線なんて、絶対だ。






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