55 〈最終話〉 坂道のふたり 2
「あぁっ」
亜紀は
ゆるやかな坂道だ。
小日向が低いほうにいて、亜紀の背を支える形になった。
「聞かせたくなかった?」
亜紀のうしろ頭に、ふんわりと小日向の息がかかる。
小日向は、リュックごと亜紀を自分へ引き寄せていた。
「それでも聞きたいんだけど」
「
じたばたしている亜紀のリュックの肩掛けベルトを、小日向は、がっちり両手で握っている。
茶道部男子で茶せんしか持ったことがなくとも。男子である。
「事故だから。そっちが、ぶつかってきた」
無慈悲ともいえる声と目だ。
どっちかといえば、こっちが小日向の
「じ、自分を律するって、小日向くんのモットーはどうしたっ」
「あぁ、そうだった。長いなー。あと1年」
ふぅと、ため息をつくと、慈悲の
小日向の『在学中は特定の女子と付き合わない』という指針は、知らぬ者がいない。
ロック解除された亜紀は勢いよく、小日向に向かい直る。
「大学生になればっ。
「え? 今だって、それぐらいの女子、集められるよ?」
小日向は、いたって平常心だ。
「お見それしました……。とんだ失礼を」
亜紀は、どっと疲れた。
「だけどさ。
「な!」
亜紀の心臓が跳ねあがる。
(何と言った。彼は何と言った)
ドリンクバーのお代わりのときと同じ⁉ でも、ここに空のコップはない。
(『だけで』って言った? 『持て余してる』? 『集めなくていい』?)
「……」
「何? 百面相してるのさ」
赤くなったり青くなったりしている亜紀に、小日向は、にやにや笑った。
「ほんとに
亜紀の反応を楽しんでいる顔だ。
(かかかか、からかってんのか?)
亜紀は、噴火した。ただし、イメージ映像を添付するなら焼き網の上であぶられた餅がふくらんで、ぷしゅうと水蒸気がぬける感じだ。
(おにょれ~)
殺傷能力はない。
「
オーロラ寮の最上階で、アグネス先生は窓辺にいる桐野先生に声をかけた。
「さっきから。野鳥観察ですか?」
桐野先生が、双眼鏡で窓の外を見ていたからだ。
オーロラ寮は見晴らしがよい。晴れた日の最上階の窓からは海が見える。
「我が校の〈歩く規範男子〉が、〈編入生女子〉をくどき落とそうとしている現場観察ですかね」
桐野先生は、双眼鏡をのぞいたまま答えた。
「まぁ、止めなくてよろしいのですか?」
「馬に
「それでは、神とともに見守ることにいたしましょう」
アグネス先生は、十字を切った。
3月の海の水平線と空の境目は、かすんでいる。
「いくら〈小日向の乱〉の小日向君でもっ。人をからかうのは、よくないですっ」
おとなしくて何を考えているかわからない白井さんは、ここに来て、〈
「そんなに、ぴょんぴょんしなくても。うっ」小日向は笑いかけている。「そのコート着て、ぴょんぴょんされると。うっ」
亜紀のダッフルコートは、うす黄色だ。
「ヒヨコだっつーんでしょ」
「光を束ねたみたいだと思った」
「え?」
亜紀の動きがピタリと鎮まった。
そこへ、割って入ったのは、ラインの着信音だ。
小日向の上着のポケットの中だ。さっと、小日向が携帯を確認すると、青木からの返信だった。
♪おめでとさん
一言だ。
「前に
小日向は言葉を続けた。
亜紀は、また赤くなった。
「そうでした。なんか、照れる……。わたし、何、口走ったんだ」
「そうだよ。そんなふうに見えるのか。どんなふうに? って思ってたけど、ぼくにも今日、そう見えた」
「それは。この、うす黄色のコートのせいかと」
亜紀は、うす黄色のダッフルコートの袖を自分でなぜた。なめらかな生地は、昼の光をやわらかく含んで、反射している。
「だとしてもね。
小日向は、くくくと口元を押さえて笑いはじめた。彼が、こうなってしまうと、しばし放っておくしかない。
「あ~」
亜紀は、急速に自分が光の束からヒヨコになっていくのを感じた。
(自滅……)
だが、そのとき、ひらんと思い出した。
今日、ずっと頭に引っかかっていたことだ。
「あ! 誕生日おめでとう!」
「……えっ?」
小日向が驚いて顔をあげた。
みるみる、眉が下がって困ったような、小さな男の子に戻ったような顔になった。
「ん? 今日、誕生日、だよね?」
亜紀は、まちがえたかと。
「なんで、知ってるの?」
小日向は亜紀に自分の誕生日を言っていない。他の人に聞いた?
「——生徒手帳。学生証、いっしょに入っているよね。それに生年月日、書いてあるよね。あれだけ、生徒手帳、こっちに押しつけといて」
亜紀のほうが、なんで? である。
生徒手帳はビニールカバー付きで、学生証入れも兼ねる。ビニールカバーの透明窓枠のところに学生証が入っているから、いやでも目に入る。
いや、小日向の誕生日を確認したかもしれないけど!
「そう、だった。い、意図しない内に、誕生日アピールを。失態だ。とんでもない、失態」
小日向は、かっと顔が熱くなった。
自分の誕生日はアピールしない。
それでなくとも、2月のバレンタインデー辺りで、1回、うっとおしいのだ。女子たちの暗黙の
「今日、小日向くんが来たとき、何か、引っかかってて。でも、思い出せなくて。あー、すっきりした」
頭の片隅に引っかかっていたのは、小日向の誕生日だったのだ。
「うわぁ」
一方の小日向は、顔を両手で覆ってしまった。
「あ、もう、お誕生日おめでとうなんて年じゃなかった? そういえば、青木君も、新田君も触れてなかったし」
新田だったら、スリースワンに小日向が来たとたん、「おめでとう」とか言いそうなのに。
「いや、彼らには、表立ったことはしないでって言ってあるから。女子への
「それじゃ、わたし、またルール破りした?」
亜紀は青ざめた。
「いや、『付き合って』とか、『自分の思いを受け止めて』とかじゃなければいいんだ」
小日向も、亜紀の心配を察してフォローしたつもりだった。
「そうなんだ。じゃ、セーフだね」
亜紀は心底、ほっとした。
(わたしは! 『つきあって!』とか、『自分の思いを受け止めて!』なんて思ってないし!)
「セーフ……」
小日向は、微妙な心境に陥った。
「付き合ってほしいとか思わないんだ……。そんなに顔、真っ赤でも。そんなに」
そんなに、きらきらした瞳でみつめていても。
「うん!」
亜紀は断言できた。自分の気持ちは自分で
「……まぁ、誕生日は、お祝いしてもらえるうちが、
小日向は一瞬、めまいに近いものを感じつつ、気持ちを収めにかかった。
「誰かに言って、ほしいよね。自分が生まれたことは、かけねなしで幸福なことだってさ。いや、誰かれでも、いいってわけではなく——」
「うん、うん」
亜紀は、うなずきながら、オーロラ寮のほうへ歩きはじめた。
一日、今日は遊んでいたので、寮で、やることがたまっている。
(明日はニケにも行かないと)
「——たとえば」
今度は、小日向が亜紀の背を追っていた。
何か一言、伝えたかった。
「たとえば、
直径18センチほどのホールケーキの画像が頭に浮かんだ亜紀は、「ケーキ、
「……そういうことじゃない」
小日向は半笑いで説明をあきらめ、立ち止まった。
亜紀は寮に入る前、小日向をふり返って1回、手をふった。
小日向も大きく、その手をふり返した。
〈
デッサン!〈改稿版〉 ミコト楚良 @mm_sora_mm
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