54  坂道のふたり 1

 U字ボックス席の広いテーブル席が、亜紀と小日向こひなたの間に横たわっていた。テーブルの幅よりも、ずっと向こうに小日向がいる気がした。


 『小日向君にはわからないから』、言ってしまってから、亜紀は悔やんだ。

 

 今までは口が重くて、失言すらなかった自分が、何てことを言ってしまったんだろう。最悪な意味に取られたら、本当に最悪な言葉じゃないか。


(お母さんがいない小日向君には、わからないから言いたくないって、そんな意味じゃない)

 言い訳しても、むなしい。言い訳だ。

 息が止まりそうになった。小日向の目を見ることができない。きっと、彼を悲しませた。


 だけれど、小日向は、いたって普通の様子だった。

 海老ピラフの皿をスプーンで、きれいに、さらえていた。

「あ、この刻印、白鳥なんだ」

 持っているスプーンを見ていた小日向が、つぶやいた。

「ほら」

 亜紀にスプーンを見せる。


 ぷっくりとしたスプーンの柄尻のところに、3羽の白鳥がいた。

 真ん中の白鳥が小さい。刻印は雑な感じで、それでもファミレスのスプーンにしては、凝ったものだった。

 亜紀も、グラタンを食べた自分のスプーンを見た。まだ、さげられていなくてよかった。

 

 真ん中の小さい白鳥を囲んだ2羽の白鳥。それは親子なのだろうか。ファミレスだから、そのとおりの意図なのか。それでも、真ん中の白鳥が小さいのは、柄尻に3羽を等分には配置できなかったとも見て取れた。

 それなら、3羽は近しいものたちなのかもしれない。

 きょうだいかもしれない。

 そして、やっぱり親子なのかもしれない。


 ただのスプーンをしげしげと見て、亜紀は小日向が食べ終わるのを待った。


「海、見たいな」

 少したって、ホットカフェオレを飲みながら小日向が言った。


「夏に海水浴とかできるんだっけ」

 ここは海辺の街だ。そこそこ大きな都市だけど、駅から離れると、ずんずんローカル地方になっていく。亜紀は、まだ、学校と駅の周辺しか知らなかった。


「いや、そういう海じゃない。オーロラ寮に行くまでの坂道で見る海だよ」

 潮風に、さらされたいわけではないらしい。

白亜紀はくあき、歩いて、帰るつもりだったよね」


「ん」

 うなずく。行きもオーロラ寮から歩いてきた。


「帰るついで」

 言いながら小日向は、素早く青木にラインを送った。


 ♪白亜紀はくあきを送って帰る


 そのうち既読になるだろう。


「いやぁ」

 ありがとう、と、キラキラの瞳で言うかと思った亜紀から出たのは、気乗りしない声だった。

「小日向君と、ご一緒すると、また、ひと悶着おきますよね……」


「……言うねぇ。人を、厄介事のように」

 そうか。は、白井亜紀しらいあきにとって相当、迷惑だったのか。まぁ、そうだな。小日向は苦笑いになる。


「小日向君、親衛隊、多いから」

「そりゃ、認めるけど」


(否定しないんかい)

 亜紀は、心の中でツッこんだ。


「それに今だって、もうふたりじゃん」

「あ」

 亜紀は気がついた。まずい。

「今からでも、由良ゆらたちに合流します!」

 あわてて立ち上がろうとする亜紀を、小日向が制する。

「待って。ドリンク、まだ2杯しか飲んでないのに」

 たしかに。

「せめて3杯」


「い、意外と」

「意外と?」

「しまり屋さんなんですね」

「だから、つきあってよ」

「ひゃっ!」

 亜紀は、声ともつかぬ声をあげてしまった。


白亜紀はくあきも、なんか飲んでよ」

 小日向は、亜紀の前にある空のコップを指さした。

「そそそそうですね」

 あわてて、亜紀はボックス席から体を横すべりさせ、離席する。


(あわわわわ。「おつきあいしてください」って、言われたかと! わたしのバカバカバカ)

 めちゃくちゃ動揺した亜紀は、コーヒーマシンの湯が出るところにカップをセットし、お湯を注いだ。

 小日向は、自分がカンちがいさせるようなことを言ったのを、まったく気がついていないだろう。いや、彼は状況的に適切な言葉を使っている。


(こういうことになるから、小日向君と、ふたりきりはイヤなんだ!)




 外へ出る前に亜紀は、レストルームお手洗いの洗面の鏡の前で、背負ったリュックの下になった、うす黄色のダッフルコートのフードを引っ張り出した。

 そのレストルームには、女子向けのアメニティまで置いてあった。

 その中から、あぶらとり紙を手に取った。今までは、山崎由良やまさきゆらが、「亜紀ちゃんもさー」と、あきれたように、おすそわけしてくれるのを使ったことがあるだけだった。

(おぉ)

 思わず、2枚めの、あぶらとり紙に手を伸ばしてしまった。




 

 天気は、うららかだった。


城址公園じょうしこうえんの桜、五分咲きってところかな」

 公園の桜は、この街の名物のひとつだ。その一角に図書館がある。気の早い花見客が、そちらのほうへ流れているようだ。歩きながら小日向は、さしさわりのない話を続けている。亜紀には、そう思えた。

 

 小日向が話したのは、同級生の面々の亜紀の知らない中等部の頃のエピソードとか、数学の田辺先生が、駅前の商店街の歳末大売り出しのくじ引きで特賞にあたったことがあるとか、そういう話だったから。

 そこから坂道に入ったらオーロラ寮は、もうすぐそこだ。


 小日向は彼の歩幅で、亜紀の前を歩いていた。舗装された坂道は、大型車でも通行できる幅ではある。坂道の頂点にあるのがオーロラ寮だ。ここまで来る車がいるなら、寮の職員か寮生の保護者か、とにかく寮に用事のある者でまちがいない。

 車の通行量は少ないが、その幅の道路を、ふたり並んで歩くわけにいかないと小日向は判断したのだろう。

 

 亜紀との距離が、ちょっと空いた。


(わたしより背が高いから。足も確実に長いから)

 おいてけぼり気味になる。

 小日向が背中に回し気味の、メッセンジャーバックを追う。


(まぁ、いいや)

 そのくらいの距離で、ジャージ編みもくブラウンのブルゾンの、うしろ姿を見ているのは眼福がんぷくだ。


 どちらかと言えば、くったりした服を小日向は着ている。兄2人が、お古をよこすのだと言っていた。

 それが、かえって彼の素地を輝かせているのだから、役得な人だ。


(あの、ウールの質感は)

 練り消しで入れたハイライトを、布で、やさしくボカしたら出せそうだ。



 ふたりの歩く坂道の片方は、あかつきほし学院の塀が続いていて、もう片方は民家が途切れて、休耕田が続いている。

 オーロラ寮が見えてきた辺りから、ふり返れば海も見える。この辺りで、サヨナラだろう。


「その、さっきは」

 小日向の背中に、亜紀は話しかけた。

 『小日向君にはわからないよ』と言ってしまったことを、言い訳したかった。今でないと、今日でないと、いけないと思った。あさましくとも、みっともなくとも。


「小日向くんに話したくないって言ったのは」

 追いつこうと、亜紀は速足になった。


「小日向くんの顔をくもらせるようなことを言いたくなかった。現実ゲンジツに、わたしは打ちのめされてるなんて、聞かせたくっ」

 勢い余って、つんのめった。

「——っ」


 亜紀の細い悲鳴に、小日向の背中が立ち止まった。

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