39 お守りの更新
そして酷暑になりますと、お天気キャスターが無慈悲な宣告をした7月。
「白井、夏休み補習
奥山はスーツケースを、オーロラ寮の玄関まで転がして行った。
他にも色とりどりのスーツケースを携えた寮生たちが、保護者の車かタクシー待ちをしては、やってきた車に乗り込んでいった。長期休み前の寮風景だ。
まだ家に帰らない亜紀は、奥山の見送りに玄関まで出ていた。
「ぎりぎり、首の皮一枚で、つながった感じですか」
「夏休み、作品に全力、注げるじゃん」
「奥山先輩も受験、うまくいきますように」
海外の大学受験準備をかねて、奥山はスイスの両親の元に帰るのだ。
じゃりじゃりじゃり。
タクシーが駐車スペースの小石を散らして、寮の玄関前に入ってきた。
「白井部長、『母子像』お気張りやす!」
右手を額に当てて敬礼し、奥山は寮仲間とタクシーに乗り込んでいった。
そのタクシーが坂道を下って行くのを、亜紀はずっと見送った。
坂道の下で右手に曲がったタクシーと入れ替わりに、約束したように人影が現れた。
坂道を裏門のところまでのぼると、小日向は立ち止まった。そして、右手を挙げて亜紀に手を振って来た。
亜紀は思わず辺りを見渡す。が、自分以外、誰もいない。
それで実に、ぎこちなく亜紀は坂を降りて行った。
「……おはようございます。受験対策の夏期講習ですか?」
体育祭のあとはクラスがちがうこともあって、廊下ですれちがうぐらいだった。
(たぶん、あのときは、わたしだけ意識し過ぎちゃっただけだ)
亜紀は自分に言い聞かせた。
「それもあるけど」
坂道をのぼってきた小日向は、少し汗をかいていた。
「
情報源は青木である。
小日向はスーパーのレジ袋を亜紀に差し出した。
「これ」
「?」
「差し入れ。下界行くの大変だろうから」
「あ、ありがとうございます」
「いつぞやのチュロスとか、諸々のお礼」
暁の星祭のときのことだ。
「そんな。いいのに」
とは言え、差し入れは素直にうれしい。レジ袋の中には四角いビスケットの箱と、キャンディ包みされた果物寒天ゼリーの一袋やらが見えた。
「それとさ」
小日向は、開襟シャツの胸ポケットから生徒手帳を出した。
「お守りの更新をしに来た」
「更新?」
取り出した生徒手帳を、小日向は亜紀に差し出す。
「生徒手帳、新しくなったから」
「お守りの有効期限は無期限でよくない?」
「いや、神社仏閣でも1年だ」
「ここ、カトリックの学校」
「
「ううぅん」
うんと言いかけて、亜紀はごまかした。
「じゃ、日陰に行っていいですか」
亜紀は校舎裏手を指した。白いマリア像を
「貸してください」
ベンチに座ると、亜紀は小日向から生徒手帳と3色ボールペンを受け取り、ちょっと考えてから、ひざの上で描きはじめた。小日向は亜紀の右側に座って、待った。
「はい」
罫線の引かれたメモ欄には、無限大記号の花冠を頭上に掲げた聖母が描かれていた。
数字の8を倒したような無限大記号が、野の花であしらってある。
「これなら、もう有効期限無限」
(来年はともかく、その先なんてわからないもの)
ふたりは、そのまま並んで円形のベンチに座っていた。
夏の日差しが、くっきりと地面に木陰を映し出している。
「さ来年は、どこにいるんだろうね」
亜紀は、自分の靴の先を見ながら話した。
小日向は、どこの大学を志望しているんだろう。気になったが、自分が聞いてどうするというのだ。
「予備校生って可能性もある」
「〈特進〉の小日向が何、弱気なことを」
「自分の」
小日向は一拍置いて話し出す。
そんなクセを、なんとなく、亜紀は知っている気がした。
「自分の家から予備校通いってことだけは避けたいんだよね。継母と父と弟、彼らの生活を邪魔したくない」
その本心を、やわらかく包んでしまうところも。
「――寮生は」
亜紀は、まとまらないまま自分の言葉を紡ぐ。
「寮生は、オーロラ寮に帰るって言うんだよ。家に帰るって言うように。そういうふうに、心を寄せる場所を
亜紀の視界の端に小日向の左肩がある。
開襟シャツの白がまぶしい。
「小日向くんがいるところが、きっと、
その夏。
亜紀は大手の美術研究所の夏期講習に申し込んでいた。部外生でも行ける短期コースだ。
「学科コース、赤本(過去問本)で自分でカバーできるなら、とらなくていい」
「夏休み期間、講座みっちりとったら、金が、いくらあっても足らない」
「さすが既卒生。アドバイスが的確」
「……ほめられてもうれしくない」
「
夏期講習初日、在来線の駅で亜紀は
美術研究所の最寄り駅は、新幹線も停まる隣りの駅だった。
「……いや、自然発生的に同じ日、同じ時間になってるだけ」
「
「……どんだけの自転車好きだと思ってんの。この暑さの中、
「おかげさまで道に迷うこともなく、塾にたどり着けました」
ふたりの目の前に、白亜の殿堂がそびえていた。
大手の美術研究所である。亜紀は武者ぶるいした。
「こんなんで、びびっていたら本番、どうすんだよ……」
二家本にどやされた。
「あら、二家本君」
自動ドアをくぐると、かるい髪色の女の人が寄ってきた。
「夏期講習、来たの」
「はい。気合い入れに……」
「がんばってね」
女の人は、それだけ言って去って行った。
「先生ですか?」
「助手さん」
「覚えていてくれるなんて、いい方ですね」
「うん……」
一回だけ、二家本は女の人が去ったあとをふりかえった。
そして、あっという間に講習を終え夕方だ。
電車に揺られて帰る。
「……白井さん、疲れてるね」
ぼうっとしている亜紀に、二家本は話しかけてきた。
ロングシートに座り込んだ、ふたりの背中に車窓の風景が流れていく。
「――情報過多で、頭、バグってます。美大志望者が、これでもか~って集まってて。皆、
「まー、オレも、高2で、ふらっと講習に来ちまった時は、そんなだったな……。高校、美術科あるところに行きたいって考えたこともあったのに、無難に公立高校に進学しちゃって……」
駅から亜紀は、〈
「帰らないんですか?」
「ニケに行く」
「まさか、まだ描く、とか」
亜紀は、ちょっと青ざめる。
「絵画教室の後始末さ~。助手の仕事」
そうだった。
二家本は、それで受験費用を稼いでいるんだった。
「今日は、よく眠ったら。……明日も今日のくり返しだよ」
バスに乗って、ちょっとうたた寝して、亜紀は降りそこねるところだった。
こんな調子で高2の夏前半は終わっていった。
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