40 家庭内嵐
8月に入って、亜紀は父の盆休みに合わせて家に帰った。
「お
母が、ソファに座って
今日、父は東京から帰って来た。東京土産のプリンを、亜紀は冷蔵庫から出しているところだ。
「テレビ、音を消して」
母は音のある中で父と会話するのが、きらいだ。
父が、そっちに気を取られて上の空になるから。
「お正月までに振袖、仕上がりますって」
祖母つながりの呉服屋さんに、振袖は洗いと修復と直しに出された。
「どのくらい金額かかったのかしら。お
「
お正月の休みは何日から? どうかな。例年通りだと思うよ。そんな話だ。
母が、「それで、お正月休みに振袖を取りに行ったら、色留袖も、もらえないかしら」と言うまでは。
「なんだって?」
この時ばかりは、父も上の空ではなかった。
「お
「そう言ってたね」
父は困ったような顔をした。いや、これは困った顔だ。
「亜紀が着物を着たとき、母親の私が着物じゃなかったら、おかしいわ」
「お前が成人式に出るわけじゃないだろ?」
「写真よ、写真。家族写真を撮るでしょ!」
母が父のボケに、ちょっとイラっとしたのがわかる。
「そうか」
父は
「亜紀の卒業式だって、
母は、もう1年後のことまで考えたいるのか。
「お母さん、着物なんて興味あったのか? 亜紀の七五三の着物だって写真館のレンタルだったろ——」
7歳の記憶が、亜紀によみがえってきた。
(あのときは、ドレス、とっかえひっかえ着せられたな~。それなりに楽しかったんだけど。出来上がった写真見て、『亜紀、今イチね……』って、お母さんが言うまでは)
プリン用の小さな透明プラスチックのスプーンで、亜紀は惜しむようにプリンケースの底をまさぐった。
「あのときはね。でも、考えたら入用だなって」
「色留袖や黒留袖は
「お
「同居で、ずっと、父さんと母さんの世話をしてくれたのは
「後々は亜紀に譲るって、お
突然、母の
「血筋から言ったら、おばあちゃんの着物は亜紀のよ。亜紀、伯父さんと伯母さんに、色留袖もくださいって言いなさい。私が、まず着るわ。それがいいわ!」
母は、よいことを思いついたと言わんばかりだ。
「いや、なぁ。着物が欲しいなら、こっちでそろえれば? そんなに高いものじゃなければ、夏と冬のボーナスで——」
父も、その申し出は、ずうずうしいと思ったにちがいない。
「価値がちがうでしょ。作家物で代々譲られた着物なのよ——」
言い張る母に父は、あきらかにめんどうくさそうだった。
「それじゃ、おまえのお母さんの着物とかはないわけ?」
それが地雷だったとは。
父は己の結婚生活の中で、最大の母の地雷を踏んだ。
「そんなもの、あるわけないじゃないっ!」
いきなり、母が叫んだ。
「成人式の振袖だって、姉のを着せられたのよっ。袖だって短かったのにっ!」
突然、母が、あふれかえった。
「指輪だって、真珠のネックレスだって、母は全部、姉にっ」
予期せぬ嵐だった。
父も亜紀も固まった。
「進路だって姉は国立だからって! 私は私立だから短大しかダメって!」
母は10代の頃のことまで絶叫した。
こんなにヒステリックな母を、今まで亜紀は見たことがなかった。
母の親や、きょうだいのことは聞いた記憶がない。母の親族を亜紀は覚えていない。今まで、特に話題にのぼることもなかったのだ。
なんとはなしに、母方の祖父母が亡くなっていることは、わかっていたが。
ごうごうと、嵐は亜紀たちを捉えて、ふりまわした。
父は動揺し過ぎたか、ふるえる手でテレビのリモコンスイッチを押してしまったらしい。
映し出されたテレビ画面は再放送で、『押すなよ? 押すなよ?』と懐かしのギャグを芸人が言った。
あまりのタイミングのよさに、亜紀はテレビを二度見してしまった。
父は、あわててテレビのリモコンをソファに放り出した。
(なかったことになる?)
亜紀は、どこか遠くから、この3LDKをみつめているような気持ちだった。
おーん、おーん。
母が泣きだした。
「ご近所に聞こえるよ」
おろおろと父が言うと、母の泣き声のボリュームが下がっていった。
(お母さん劇場……)
心が、うすら寒く冷えていく。どうしようもなく。
やっとわかった。
母のコップにも何も入っていなかった。
今、いい年をした女の中で、小さな女の子が空のコップを握りしめて、泣きわめいている。
母の母という人は、どんな人だったのだろう。
母には、姉がいたのか。
亜紀に、きょうだいはいない。だから、比べられるということは知らない。
きょうだいに与えられるものが、自分には与えられないという苦しみや
そして、
(母は自分がされていたことを、わたしにした?)
多少は形を変えたかもしれない。
(でも、わたしのこと、少しでも大切だという気持ちがあったら、そういうこと、できる?)
母が荒れ狂うさまは、子供返りのようだった。
それを目の当たりにして、亜紀は
(そんなに毛嫌いしてもさぁ)
どす黒い何かが、亜紀の中でつぶやく。
(おまえの根ッコは、どぉしたって、その母親だ。その母親なんだよ)
(いやだ、いやだ、いやだ!)
息の仕方を忘れそうだった。
(あき! アキ! 亜紀! ――お守りを思い出して!)
それは、亜紀の中の小さな女の子の声だったかもしれない。
(大丈夫。大丈夫だよ。亜紀は、亜紀だよ)
休みが終わって、父は東京に戻って行った。
帰る前の日、亜紀と父は母が風呂に入った隙に話した。
「お母さんは病気だから、そっとしとこう」
父に連れられて母は婦人科に行ったら、更年期障害と言われたそうだ。
「性格は更年期のせいじゃないと思う」
ぼそっと、亜紀は意見した。
「亜紀も言うようになったねぇ」
父は感慨深げだった。
(いや、お父さんのせいでもあるよね)
思うより、両親の夫婦仲は冷めていたのかもしれない。
少なくとも、父は母をほっといた。
映画ばかり観ている映画好きの父だと思っていたが、それは母との接点を減らす手段ではなかったか。
そのあと、
今度は甘えたような口調で、亜紀の顔色をうかがうようになった。
けれど、亜紀もされたことを忘れない
このまま母に同調していたら、いつか、亜紀の中の小さな女の子も叫び出しそうだった。
そうならないために、自分のコップは自分で満たそう。
(私のいるところを
あの日、
「
亜紀は、ふり切るように学校へ戻った。
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