41 図書館のだし巻き卵サンド
「白井さん、帰寮最短記録です」
オーロラ寮では、アグネス先生があきれ顔で亜紀を出迎えてくれた。
「厨房は、もう動いていますからいいですけどね」
「すいません。
昨年の奥山部長のように、亜紀も寮の空き部屋にイーゼルを持ち込ませてもらった。
高美展に出す作品は、
美術部部長として描く母子像は——。迷っていた。納得できないでいた。下絵まで描いては、筆が止まった。
(明日は図書館に行って、いろんな本見て、イメージ固めよう。ミツバベーカリーに寄ってパン買っていこう)
次の日。
日が高くなってから大通りを歩くのは避けたいから、朝食をすませて、すぐに外に出た。図書館が開くまでは、アトリエニケにいればいい。図書館とアトリエニケとミツバベーカリーは、うまい具合に徒歩圏内におさまっていた。
アトリエニケに行けば
(一度くらいは先に来ていて、辰巳先輩のように、「おはよう……」と、もう一仕事してました感で言ってみたいもんだけど)
なんのかんの言って、亜紀は二家本を尊敬している。
ミツバベーカリーの前を通ったら、その辰巳先輩の見覚えのある自転車が停まっていた。
二家本が、紙袋を抱えて出てきた。
「あっ。おはよう、ございます」
(しまった。こっちに来ずにアトリエに行けば、わたしの方が早かった)
「おはよう……。白井さん、しまったって顔に見えるけど、何」
二家本は、けっこう鋭い。
「してません。辰巳先輩は朝ごはんですか」
「ここで古い食パン、もらってる」
「もらってる?」いぶかしんだ亜紀に「木炭デッサン用に」と、二家本は、めんどうがらずに教えた。木炭デッサンの消しゴムは食パンだ。そのあと、「たまに腹におさめてるけどね」と言ったのは、亜紀を笑わせようとしたのだ。
「消しゴムにしたパンを! そこまでしないと合格できませんか!」
まさか、そう来るとは思っていなかった。
二家本は、よろよろと自転車をついた。
亜紀は、そのあとをついていく。
「えーと。今、文化祭の絵で煮詰まってしまいまして」
無言も何なので相談してみた。
「テーマ、何……」
「母子像です」
「暁の星ってカトリック系の学校だったね……」
「宗教的なイメージでなくてもいいんです。去年の部長の作品を見る限り」
奥山の描いた、〈お
「自由な発想でいいんです」
「ふーん。母子像と聞いて、白井さんが思うイメージは」
「あ、愛ですかね」
言って、亜紀は照れた。
「……まぁ、愛だろうね」
二家本は自転車に乗らずに、亜紀の前へ行った。歩道は横並びで歩くのには、せまい。
「通常、大多数は——」
亜紀は二家本の背中をながめた。長袖を少し、まくったチェックのカッターシャツ。絵を描くときにも着ているから、ひじのところには絵の具がついていた。
身なりにかまわないところは、奥山に似ている。
(というか、美術系あるあるだなぁ)
「一回、頭、空っぽにして、考えてみたら。自分を手放してみたら。白井さんの中の願いのようなもんをみつければ……」
「頭、空っぽって、どうやるんですか」
「あー、白井さんの、いつもの調子でいいんじゃないか」
「……真面目に答えてくださいよ」
お互い、感覚でものを言うので、結局、アドバイスになったような、ならないような感じだ。
アトリエニケでの昼からのデッサンの下準備をすませ、亜紀は図書館に向かった。
夏休みの図書館は子連れが多かった。
思いついて、亜紀は児童コーナーの子供用の椅子に座って絵本を見るかたわら、子供と母親の様子を観察していた。
幼い子供など身近にいなくて、今まで関心もなかったが、こうしてみるとおもしろかった。
「きゃっ」
いっしょの丸テーブルに座っていた、赤ちゃんを抱いた、お母さんが小さな悲鳴を上げた。横にいる女児が絵本のページをつかんで持ち上げていた。ページは、びりりと裂けている。お母さんは赤ちゃんを抱えていて、とめられなかった。
「ダメっ。もうっ」
お母さんは片手に赤ちゃん、片手に女児をひっつかむ。絵本が亜紀の足元にころがり落ちた。
そのままにしておけず、亜紀は絵本をひろいあげた。
顔をあげたときには、赤ちゃん連れのお母さんはいなくなっていた。女児も。
(え)
亜紀の手には、ページのやぶれた絵本が残された。
(このまま、本棚に戻すわけにも)
亜紀は絵本を持って、図書カウンターに行こうとした。
そこへ、ちょうど配下業務をしている人が通りかかった。
「……あの、子供が本をやぶってしまって」
おずおずと本を差し出す。
「あらぁ」その女の人は、やぶれた箇所をたしかめた。そして、「大丈夫ですよ。直しますから。本が痛いって泣いちゃうよって、お子さんには教えてあげてくださいね。おかあさん」と、亜紀に向かって言うと、カラカラと本のワゴンを押して去って行った。
(え、え? おかあさん?)
亜紀は呆然と、その場に立ち尽くした。
「くっ、くっ」
そばで引きつった笑い声がするので、そっちを見たら
「外、出よ」
亜紀の返事も待たずに、うすい紺色パーカーの長袖を引っ張られた。
図書館のエントランスを抜ける。連れて行かれたのは、外のテラスだった。そこの日陰の屋外ベンチに座らされた。
「うわぁぁぁぁ、ふっふっ、ひぃぃぃ」
小日向は耐えかねたように笑った。
「な、何?」
亜紀は、むしょうに腹がたってきた。
「
小日向の言いたいことは、だいたいわかった。
「えぇえぇ、わたし17歳なのに。未婚なのに。おかあさんて呼ばれましたよっ」
着ている服が、いけなかったのか? ゆるい生成りチュニックに紫外線防止の紺色のうすめパーカー、長めのオリーブ色のキュロットスカート、足元スニーカーがダメだったのか? 館内だから、つば広の白い帽子は脱いでいた。顔をかくしていたわけではない。
「あぁ~、笑った~。いい休憩になった~」
「……それは、よござんしたね」
亜紀は三白眼のままだ。
「もう寮にもどってたんだ」
やっと、小日向の笑いの発作は収まったようだ。
「はい。
「ぼくも速攻、家から帰った」
含みのある言葉に、ぱっと亜紀は小日向を見てしまった。涼やかな視線とかち合う。つらそうな目はしていない。
(う~、居心地悪いのに居心地いい。何なんだ。これは)
ベンチにふたり、ひとり分の間を空けて座っていた。亜紀は両ひざをくっつけて、内股加減に座っている。
「こっちで予備校の夏期講習、取ってるし。こっちの方が図書館も近いし、学習環境整ってるし。青木もいるし」
「青木君なんだ」
ふっと、亜紀は笑った。亜紀だって、こっちの方の友人が多くなってしまった。
「ね、お腹、空いてない?」
小日向が思い出したように言った。
「パン、買ってきました」
「準備がいいね。ぼくは、いったん家に帰ろうかって思ってたんだけど——」
図書館には喫茶店が併設されていた。
そこで、テイクアウトしてくる、待ってて、と、小日向は言い残して行ってしまった。
(えっ? えっ?)
亜紀は事態がのみ込めなくて、そのままベンチでかたまっていた。
しばらくすると、エコバックを右腕に通し、プラスチックのフタで閉じた紙のカップをふたつ抱えて、小日向が帰ってきた。
そして、亜紀と自分の間の平らな屋外ベンチの座面に紙のカップふたつを置いた。
「アイスカフェオレ。勝手に選ばせてもらった。よかったら飲んで」
「え」
「おごり。笑わせてもらったから」
「……ありがとう」
ここは素直に礼を言っておこう。完全に降参だ。こんな気配りの仕方、自分にはできない。誰もが、女子も男子もが
「いただきます。
亜紀は早口で唱えると、アイスカフェオレを一口飲んだ。甘く冷たい液体が
横を見ると小日向がサンドイッチを、ぱくついているところだった。
「ん? 図書館喫茶の、だし巻き卵サンドって、おいしいって評判なんだよ」
小日向は、亜紀が自分の食べているサンドイッチを見ていると思って答えた。
「……って、
「ミツバベーカリーのです」
白亜紀のは、ゆで卵をきざんでマヨネーズであえたものだ。
「あぁ、あそこかぁ」
小日向も行ったことがあるらしい。
やさしい、たまご色。
(あれ、なんだっけ)
やさしい光。
「あの——」
亜紀は、おずおずと小日向を見た。
その夜、小日向は青木にラインを送った。
♪白亜紀 今度
家に来るから青木も来て
そのラインを読んで、自分の部屋のベッドに寝っ転がっていた青木は、がばと跳ね起きた。
(ついに、小日向、やりやがったか!)
♪しかし
なんでオレ
小日向から返信が来た。
『♪白亜紀の危機管理能力スキルがあがった』
♪告白したんだ?
『♪するわけないだろ』
♪された?
『♪一瞬そうかと身構えたけど
ちがった』
♪身構えたんかい
青木は、爆笑スタンプといっしょに送っておいた。
亜紀が言ったのは、「あの——、小日向君のお母さんの絵。参考にさせてもらっていいですか。もし、よかったら、もう1回、見せてもらえませんか」だった。そして、こうも付け加えてきた。
「去年のようになっても困るので、青木君もいっしょにいかがでしょうか」
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