42 母子像
三原なつめにとって、久しぶりの母校だった。
女子校だった
寂しさもあるが女子と男子、屈託なく笑いあってる今の暁の星もいいなと思う。
今日は、暁の星学院の文化祭、
なつめは、まず、校長室に顔を出した。桐野先生からのお願いだった。
「三原先生、ようこそ」
「お久しぶりです。桐野先輩」
桐野先生が、なつめを出迎えた。
校長室に併設されたミニキッチンでは、校長がコーヒーをドリップしていた。昔はなかった。
どうりで、扉を開けたとたん、コーヒーの香りがしたわけだ。
「三原なつめです。はじめまして」
「校長の
佐々木校長はワイシャツにネクタイ、その上に黒のカフェエプロンという姿だ。
「いえ、そのような。校長。お、お手伝いいたしましょうか」
恐縮して、なつめは申し出た。
「いいのよ。校長はコーヒーで来客をもてなすのが趣味なんだから。それと、今は、身内モードでよろしいですか。校長」
「はい。よろしいですよ。桐野先生」
桐野先生と校長の目が笑っている。それで、当然のごとく、桐野先生はソファーでくつろいでいた。
「さぁ、どうぞ」
校長がステンレスの丸盆にコーヒーカップとミルクピッチャーを乗せて運んできた。応接セットに向かい合って座った桐野先生と、なつめにサーブする。
桐野先生は早速、細い金彩を縁に施した白磁のカップに手を伸ばした。一口飲んで、カップをソーサーに戻す。
「なつめ、お母さまのことは残念でしたね」
なつめは、賀状を出せなかったことを詫びる一報をしていた。
「ええ。肝臓を傷めていましたし、覚悟はしていました。不謹慎ですけど、一区切りつきました」
「あなたは、すべてを
それだけ言って桐野は、なつめから遠くにあったミルクピッチャーを手に取った。
「相変わらずブラックコーヒーは苦手?」
そして、なつめのコーヒーカップに傾けた。
「クッキーも、いかが」
今日の応接テーブルには、暁の星名物の大きめ武骨クッキーが個包装で用意されていた。
「シスター・マリア・エフゲニーヴナ・ヴォロノワ直伝レシピのですね」
なつめと桐野は在学中、授業の合間に家庭科調理室に忍び込んで、よく焼いたものだ。昔の
「ごていねいに。身内でもフルネーム
遠慮なく、なつめは大きめのクッキーを1枚、ほうばった。
「おいしい。このクッキーは、いつも」
なつめは笑いたいのか泣きたいのか、どちらもできなかった。
「なつめ、そろそろ、暁の星に来る?」
以前から、なつめに暁の星で
「ありがとうございます。でも、もうしばらくは公立中学の教師を続けます。暁の星は私にとって
「三原先生、私が桐野先生に校長職を譲り渡すときには、ぜひとも」
空の丸盆を抱えた校長が口をはさんできた。
ついでに言うと、4年前までは義理兄校長を支える副校長で、前校長の妹と結婚して
「叔父様には長く、校長であっていただかないと。暁の星を立て直すには叔父様の力が不可欠です」
「まぁねぇ。シスター・マリア・エフゲニーヴナ・ヴォロノワが愛した暁の星が、血筋の桐野一族の手から離れるのは忍びないしね」
桐野先生の曾祖父は、シスター・マリア・エフゲニーヴナ・ヴォロノワの妹と婚姻し、一男一女を授かった。
「シスター・マリアのフルネーム言うの、罰ゲームに等しいのでやめません?」
桐野先生が美しい眉間に、しわを寄せる。
「誇りある血筋の名を省略するわけには」
叔父と姪の顔を時折のぞかせて、二人は談笑している。
「暁の星が続いていくなら、誰が先頭に立ってもいいことです。私に力がなければ誰かに託すのみ」
桐野先生は達観しているようだ。でも、最善を尽くそうとしている彼女を、なつめは、うつくしいと思った。
まちがいなく、桐野先生は三原なつめの人生でいちばん、うつくしい人だ。
「白井さんには会った?」
桐野は教師の顔になった。
「まだです。部長の役割で忙しいだろうし、会えたらで」
なつめは、亜紀から手紙をもらっていた。
その手紙からは学校生活の充実と、心の有り様が伝わってきた。
(自分の役目は、そろそろ終わりだ)
そう思った。
「スタンプカードを持って行くといいわ」
桐野先生がハガキ大のカードを出してきた。
なつめは校長室を後にすると、高等部校舎の4階に上がっていった。
いちばん奥まったところにある美術室は、かつて、自分もいた教室だ。
いくつかの作品に囲まれて、その15号キャンバスは展示してあった。
キャンバスの下には、タイトルと作者名が記してある。
高2 白井亜紀 母子像
なつめは、その絵を長く長く見つめていた。
『なつめ先生へ』
1カ月ほど前、亜紀から、三原なつめに暁の星祭の招待状が届いた。
添えられた手紙は、ちょっと癖のある亜紀独特の左利きの文字で綴られていた。
『お元気ですか。
暁の星学院での2年めの文化祭、私は美術部部長として母子像を描きました。
初めての抽象画です。
とてもすてきな抽象画を見たことがあって、そこから着想を得ました。
かけねなしの愛で満たされた母子を描きたかったのです。
現実はちがうとしても。
それすら糧にしろと神様は言っていると思えるのです。
暁の星祭の招待状を同封しております。
お会いできることを楽しみにしております。
白井亜紀』
その亜紀は、校舎の中庭で任務を全うしていた。
「
「お疲れさま」
「お疲れさま」
茶道部部長と美術部部長は
「お茶席、盛況だね」
亜紀は騒がしくなる自分の心臓を、もはやあきらめている。
「これ、文化祭用に注文した和菓子なんだけど。どうぞ」
小日向が小さなパッケージを手渡してきた。
「あ、ありがとう」
亜紀は、そっと両手で受け取る。
「〈母子像〉、観たよ」
小日向は言いたいことはたくさんあったのに、短い言葉になってしまった。
「とても、あたたかな気持ちになった」
「あ、ありがとう」
亜紀は小日向の肩辺りを、かるく見上げるも正視はしない。
血の巡りがよくなり過ぎる。
「が~、おまえらって」
青木が、うめき声をあげた。
どう見ても茶道部部長が美術部部長を
「ところで、
小日向がほほえむ。
「クォリティ、高いよね」
亜紀は、どこから見ても落ち武者姿だった。
「ね! 体育祭の1回で破棄するの、惜しくて」
くるりと抜き身の刀(段ボール製)を手に、亜紀は一回転して見せた。
体育祭のときより矢が刺さっている。
「確実に追っ手に追われてるね」
細かい設定に気づいてくれた小日向に、亜紀はうれしかった。
「校内に安徳天皇とか、いますよ」
「あれか? でかいから
青木が思い出した。
「
亜紀は、ハガキ大のスタンプカードを
「美術部部員の仮装を見つけたら、声かけて。これにスタンプもらうと、もらった数だけ美術部謹製の
青木に、スタンプカードを押しつける。
「ここ、カトリックの学校なんだけど」
「神サマは、そんなに心、狭くないだろ」
小日向は亜紀の味方だ。
「小日向、おまえが言う? 今年も視聴覚教室にかくれるなら、もう昼、食べておかなきゃだゾ」
「おまえは~」
青木の脇腹を小日向はどついた。
「ひひ、あっ、やめて」
「スタンプくださーい」
元気な小学生が、わらわらと亜紀を囲んだ。
「はーい、順番だよー」
亜紀は和菓子のパッケージを懐に収め、入江先生に借りた『よくできました』のシャチハタ式スタンプを、差し出された台紙にポンポンと押していく。
つぁー、たーん。
そのとき、管楽器の音が青空に響いた。
「吹奏楽部の野外ゲリラ演奏だって。観に行こ?」
中等部の女子たちが、きゃいきゃいとさざめいた。
そのまま中庭で、亜紀は演奏に耳を澄ませた。
それは、亜紀も知っている曲だった。
なつめ先生が歌ってくれた歌だ。
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