13  品定めの水羊羹

「アトリエ、行ってもいいですか」

 小日向が伯父さんに話しているのが聞こえる。


「おいでよ」

 ひとり分の麦茶のお盆をかかえた、小日向に呼ばれた。

 亜紀は小日向と共に玄関脇の廊下を通って、石灯篭いしどうろうのある中庭を見ながら奥の離れのような場所に案内された。


(わ)

 亜紀は、心で感嘆の声を上げた。

 和風の家に、そこだけ洋風建築を取り入れてあった。


「ここは、結婚前の母がアトリエにしてた部屋だよ」

 慣れた様子で小日向は出窓を開けて網戸にして、扇風機のスイッチを入れた。

 その部屋の片側は、すべて本棚、本に埋め尽くされていた。あとは、いくつもの絵が描かれたキャンバスが、壁に立てかけてあった。何枚かの絵は額装されて、壁にかけてあった。そういえば、玄関にも飾ってあった。


「どうぞ」

 小さめの籐の丸テーブルに、小日向は麦茶のお盆を置いて、亜紀に夏座布団を敷いた椅子をすすめた。


「ありがとう」

 亜紀は、麦茶のコップを手に取った。吹き硝子ガラスの丸っこいグラスだ。手に冷たさが伝わる。

「本。たくさんですね」

 亜紀は、部屋を見渡した。

「うん。母は趣味で絵を描いていたから。画集も、けっこうある」

「画集! み、見てもいいですか」

 きらきらと瞳を亜紀は輝かせた。

「どうぞ」


 手の水分をしっかりハンカチでぬぐってから、亜紀は本棚の素描集を1冊、手に取った。

 床に置いた本のページを、そっとめくる。かすかな古い本特有の臭いがたつ。


「それでさ。あの、イーゼルに置いてある絵なんだけど」

 小日向が部屋の片隅のイーゼルを指した。イーゼルにはノートほどの大きさのキャンパスが置いてあった。

「ぼくの母が描いた絵なんだ」


「きれいですね。抽象画、ですね」


 キャンパスには淡いタッチで暖色系の点描の集まりが描かれていた。光とも、何かの実とも、それとも形のないものかもしれなかった。


「この絵、見てもらいたかったんだよね」

 小日向が椅子の夏座布団をはずして、亜紀のひざに押し付けてきた。たしかに、パーケットフローリングの床は、そのまま座っているには固かった。


「前に、ぼくを描くとしたら淡い光の束になるって言ったよね。そのとき、この絵のことを思い出した。それまでは、まぁ、絵だなとしか思ってなかったんだけど。白亜紀はくあきの言うとおりならいいなと思った。母が、ぼくを描いたのならと」


「そう、ですか」

 亜紀の脳裏に、小日向に似た面差しの女性がキャンバスに向かう姿が、くっきりと浮かんだ。


「——ぼくの母親は、ぼくが2歳の時に亡くなったんだ」

 太陽がいきなり陰ったかと思えた。


「ほぼ、母のことは覚えていない。親族が多い家庭で暮らしていたから、参観日とか運動会も親戚が大勢で見に来てくれて、母がいなくて寂しいとかも思わなかった」


「……」

 亜紀は、黙って聞くしかなかった。


「ぼくが小学6年のとき父が再婚したんだけど、母の遺品の多くは母の兄にあたる伯父が引き取ってくれてね。これが、そのアトリエ。ぼくは学校に近い伯父の家に下宿して、あかつきほしに通うことにしたんだ」

 


 はらはら。

 気がついたら、亜紀は泣いていた。無音の涙だった。


白亜紀はくあきさんてさ。突然、静か~に泣くんだね」

 困ったような笑顔を、小日向は浮かべた。

 

「そう、ですかね」

 鼻をすすった亜紀の頬に、思わず、小日向は右手を伸ばした。だが、瞬間、触れたらマズいと思ったら、ぐーにした右手の甲で亜紀の涙をぬぐっていた。


なん、なん?)

 亜紀は驚いて目を、ぱちぱちしてしまった。


「あぁ~っと」

 言い訳がましく、小日向は手を振った。

「ぼくらの高校1年の代は、あかつきほし学院が共学になった学年なんだよ。実は、ぼくの父が共学計画に関わっていてね。まず、息子を進学させたわけ。女子の比率が多い学年で、どうしたって男子は目立つから、父から、決して在学中に特定の相手とつきあってはいけないと厳命されている」


「なるほど」

 亜紀はうなずいた。モテモテみたいな、この男子に彼女のウワサを聞かなかったのは、そういう理由か。


「だから、ぼくが女子に親密な交際を申し込むことはないし、暗黙の了解で女子がぼくに交際を求めることもない」


「男子との交際は?」

「そっちに行く? 白亜紀はくあきさん」

「すいません。妄想でした」

「いや、誘われたことはあるけどね」

(あ、あるんか)



 そのとき、開いている扉から声がした。

理央りおさん。失礼しますよ」

 

 亜紀がふりかえると、丸盆をたずさえた女の人がいた。

「お客さまだと、うかがったから」

 女の人はサイドの髪が刷毛ではいたように白髪で、おそらくは。

理央りおの伯母です。こんにちは」

 ひざを折ると、亜紀と小日向の間に丸盆をすべり込ませた。

「お多福堂たふくどう水羊羹みずようかん、買ってきたの。召しあがれ」

 丸盆には、ふたり分の水羊羹みずようかんと緑茶がのっていた。


「ありがとうございます。はじめまして。白井亜紀です」


「白井さん? Aクラスにいらしたかしら?」

 亜紀は、ふいに気まずくなって正座し直した。

「伯母さん」と小日向が言うのと、「道子みちこ、宅配が来た」と伯父さんが言ってきたのが同時だった。


「宅配ぐらい、あなたが出てくださいよ」

 伯母さんは、不承不承ふしょうぶしょうという感じで腰を上げた。

「あ。ゆっくりして行ってくださいね」


「ありがとうございます」

 答えた亜紀は、腰が浮きかけていた。


「……水羊羹みずようかんは食べてってよ」

 小日向が苦笑いしている。おそらく、亜紀が居心地が悪くなったのを察している。

「伯母は、ぼくの茶道のお師匠なんだ」

「それで。茶道部」

 つるんとした、あんこ色の水羊羹みずようかんには、緑のお茶が添えられていた。小さな茶器。お茶をやっている人の選ぶ器と思えた。


「というより運動、苦手だから」

「そうなんですか。なんでもできそうなのに」

「そんな人間、いないよ。たとえば、ぼくは絵は補習レベルだ。母には似なかったんだね」

 小日向は、皿に添えられたクロモジで水羊羹みずようかんをまっぷたつにすると、二口で食べきった。


 ふと、亜紀は思いついた。

「……〇ラえもん、描いてみてください」

 誰でも知っている国民的キャラクター。描かせてみれば、絵心が知れる。 

 木の机の上に、鉛筆とハガキ箋があった。それを小日向に、ぐいと差し出した。


「う~ん」

 小日向は眉間にしわを寄せて、どうにか、〇ラえもんを描いた。


「ぐ」

 その手元をのぞき込んだ亜紀は、口の中の水羊羹みずようかんを、ふきだすかと思った。どうにか、それを防ぎ、でも、むせて、猛毒を盛られた古典劇の人のような嗚咽おえつを上げた。

 今、まさに毒が回って体を折り曲げ悶絶もんぜつする人だ。

「ひ、あはははははっは」


「え、そこまで笑う?」

 小日向が実に情けない顔をしたのも亜紀は、おかしかった。

「それ、くださ、い。魔よけ、になりそうっ」

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