48  桐野先生のクリスマス

 あかつきほし学院、英語教師の桐野佳耶きりのかやは実家を訪れた。今は兄の家だ。この前、この家に来たのは、いつか覚えていない。


 伊豆で悠々自適に暮らしている前校長、つまり佳耶の父も来る。

 あと、父の妹夫婦、つまり佐々木校長夫妻も来る。


 佳耶にとっては甥っ子、つまり兄の子、かおるが留学するというので、壮行会を兼ねたクリスマス会をということだった。

 音楽学校への編入は9月を目指し、それまでは語学学校に通うという。


「あの、これ、ワインと、兄さんからのリクエストでクッキーです」

 玄関で義理の姉に、夏から予約していたナイヤガラの白甘口と、手製のクッキーを手渡した。


「ありがとう。公彦きみひこさんは、このクッキーが大好きなのよね。私がレシピ通りに作っても、何かちがうらしくて」


(兄、おとなしく嫁の手作りクッキー、食っとけ)

 笑顔を崩さず、佳耶は腹で毒づいた。


 居間に通されると、前校長と校長夫妻はもう、はじめていた。

 兄と、ごきげん状態だった。

佳耶かや、久しぶり~~」


「お元気そうで、お父さま」

 慇懃いんぎんに答える。

佳耶かやちゃん、ますますきれいになって~~。背、伸びた?」

 万年乙女の叔母がはしゃぐ。


(いや、もう成長期じゃない)


 叔母にとっての桐野伽耶は、いつまでもフリルのワンピースを着ていた頃の少女らしい。


 甥っ子、薫は、グランドピアノでノクターンを弾いていた。

 そのグランドピアノは、亡き母親の嫁入り支度だった。佳耶も、このピアノで練習したものだ。母には弾き方が粗暴と、よくこぼされた。

 薫は実に繊細な音を奏でる。

 彼が幼い頃は、たまに連弾した。

 あからさまに、義理の姉から不快感を表明されるまでは。


 そう、桐野佳耶はわざと甥から距離をとった。


「それから。佳耶かやちゃんに、ちょうどよいお話があるのよ。海外勤務を予定していらっしゃる方だから、英語の堪能な娘さんをお嫁さんにって」

「学院を離れるつもりはないですね」

 即答する。


「そうだよ、おまえ。桐野先生が今、暁の星から抜けたら、私はどうしたらいいんだい」

 叔父=校長が援護してきた。

公彦きみひこさんが代わればいいじゃないの。長男でしょ」

「ぼくは微生物のことしかわかりませんよ」

 兄、理系まっしぐらである。

「教師の道は教育実習で挫折しましたよ。高校生って、教育実習生をからかってたのしむんですよ。いや、ほんと、トラウマですよ」


佳耶かやは、その点、肝が据わってるから」

 父が、ほろ酔いで参加してくる。


(そういう問題じゃない)

 腹の中だけで毒づいておく。


「そうだ、佳耶かやにお土産だ」

 前校長が鞄の中から、ごそごそ包みを取り出した。

「何ですか?」

「双眼鏡だ。野鳥観察をするといい」

「まーた、飽きた趣味の物を回してくるの、やめてくださいません」

 桐野佳耶は真顔だ。父は多趣味で、かつ飽きっぽい。


「今は将棋だよ。薫君、あとで将棋を教えてあげよう」


「ありがとうございます。おじい様」

 薫が、演奏の手を止めずに答えた。 

 曲はモーツアルトの、きらきら星になっていた。


(——薫くんのカミングアウトは、まだ義理の姉には届いてないのか)


 渡り廊下での一件として、生徒から聞いた保護者はいたはずだから、義理の姉のママ友あたりが御注進してくるのではなかろうか。

 それとも、佐々木校長が身内として兄夫婦に打ち明けるのか。


(それは、それで嵐になるなぁ)


 この時点で、桐野薫きりのかおるが留学を決心したのは賢明な選択ではなかろうか。

 視線の端で佳耶は、涼やかな風情でピアノを弾いている甥っ子をうかがった。


 自身も聞き取り調査を受けたのだ。

「薫君は大人の反応をおもしろがるところがありまして」

 叔母としても、教師としても擁護した。


「自分は同性愛志向であるというのも、確定かどうか。影響され、吸収する年頃ですから、見守りが肝要かと」

 校長も同意見だ。



(やれやれ。薫君が私に近づき過ぎって、お義姉ねえさんの心配、杞憂でしたよー。薫君、女性に興味ないそうですよー)


 ただの人懐こい甥に、自分は必要以上にキツい返しをして来たものだ。




(しかし、この胸の痛みはなんだろう)






 ※〈参考曲〉 『ノクターン』『きらきら星』

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