32  既卒生は職質を受ける

 学校のない土曜日。

 朝食をすました亜紀は私服に着替えた。オーロラ寮の舎監室に、外出届は出してある。


「歩き? 途中まで、いっしょする?」

 坂道で、高3の寮生が声をかけてくれた。彼女らは駅前の予備校に通っている一団だ。

 おかげで、駅前まで歩くのも苦にならなかった。


「寮生って、塾に通おうと思ったら、ちょっと大変なんですね」

 お互い、あまり話したことがないが、寮生同士だという親しみがある。

「だねー。平日はオンライン授業にしたり。奥山さんなんかは、完全にオンラインかな。白井さんは、今日、塾?」

「はい。画塾に通いはじめたんです。美大志望で」

「そっかー。がんばってね」

 大通りから脇道にそれるところで、彼女らと別れた。



 亜紀は、アトリエニケに通いはじめた。

 大手の画塾もあるにはあったが、寮生という身分の亜紀には平日に通うのは、ハードルが高かった。21時過ぎまで画塾にいたら、バスはない。歩くのも、タクシーで帰還するのも決心がつかなかった。

 その点、アトリエニケの二家本にかもと先生は柔軟だった。

「来れる日、来れる時間に来る、でいいわ。こちらも、はじめての美大受験コースの生徒さんだもの。責任重大。わたしもがんばらせて」


 美術部顧問の入江先生の後押しも安心材料となった。亜紀が画塾への通塾を相談したとき、入江先生は二家本先生の名前に覚えがあると言った。

 めずらしい苗字であるせいかと思ったが、都会の大手美大進学塾の講師をしていた人だと聞いたことがあると。

「それと、美大受験は場に飲まれたら負けだから。何十人、何百人という人の中で時間を区切られての試験なの。場に慣れることが、まず大事」

 アトリエニケの美大志望生徒は、今のところ、ふたりだけ。亜紀の心配を見透かすように、「大手の単発の講習で補填ほてんすればいいのよ」と、入江先生からはアドバイスも、もらった。


 あとは両親の説得だけだった。

 意外と、すんなり許してくれた。

 母には「短大より四年制大学よね」と念押しされた。それは亜紀も、そうしたかった。美術の教員免状をとりたい気持ちがあった。


(なつめ先生)

 理想の向こうに、三原なつめの姿を思い浮かべていた。



 さて、アトリエニケに着いた亜紀は、玄関ドアの暗証番号錠に開錠のためのパスワードを打ち込んだ。

(〇〇、〇〇〇〇)

「わたしの生年月日よ」と、二家本先生は笑っていた。

 亜紀の母と変わらない年だったから、驚いた。美魔女、魔女、どっちかだ。


 ビルの3階のプライベートゾーンには、また別の錠があるし、ビル自体も警備会社の防犯設備が入っている。

 そういえば、オーロラ寮も警備会社の防犯設備は入っていて、来年度からは寮生も帰寮出寮をカードで管理するらしい。

 最先端のものにうとい亜紀には、いろいろ大変そうだ。

 


 扉を開けると、あはは~と子供たちの声が響いた。

 土曜日は、子供クラスが開講されているのだ。亜紀は、そのにぎやかな声を背に階段をあがっていった。

 2階は1階とうってかわって静かだ。

「どのブース小室を使ってもいい」と、二家本先生は言ったけど、南向きの部屋がよかった。冬は、あたたかかった。今は、他の部屋へ移動も考え中だ。

 二家本辰巳にかもとたつみもそうみたいだ。


 いつ来ても、彼の方が先にいた。

 助手の仕事のため時々、下の階へ行ってしまうが。



「はぁぁ~。休憩~」

 とんとんと、二家本先生が階段を上がってきた。子供クラスが終わったのだ。

「この中の茶葉、自由に使っていいから」

 二家本先生が、けっこうでかい紅茶缶を持って来た。デッサンのオブジェにしていたものだ。 


「わたし、れます」

 ちょうど休憩したかった亜紀が手をあげる。

二家本にかもとさんも、紅茶、いかがですか」

 二家本辰巳にも声をかけた。

「いや。オレ、そのフレーバーティー、苦手。ハラくだす」

 にべもない。


「白井さん、『二家本先生』と『二家本さん』って、まぎらわしいでしょ。辰巳たつみ君は辰巳たつみ君でよくない?」

 二家本先生が食器棚からマグカップを出してくれた。何かのノベルティとか、お土産と言った感じのマグ群だ。


「うーん。じゃ、辰巳先輩タツミセンパイで」

 さすがに辰巳君はない。

(いくつ年上なのか、聞けないし)



 辰巳先輩はデッサンを続けている。

 亜紀は、その手元をのぞく。

 やはり、練り消しの使い方が、うまい。

 彼も左利きだ。


「……夏」

 ぼそっと、辰巳先輩が。

「オレは大手の夏期講習、受けるけど、白井さんも行ってみる?」

「えっ、いっしょに行ってもらえるんですか!」

「いっしょにって。いっしょに行くわけじゃない」

「あ、はい」

「オレたちが合格しないと、アトリエニケの未来はないんだぞ……」

「え」

「こんなのでも、ここで学んだら合格しましたみたいな、リアルな体験記が必要なんだ。この弱小画塾にはな……」


「おい。その弱小画塾に、お金、出させてんの、誰さ」

 すかさず、二家本先生が巻いた画用紙で、ぽーんと辰巳先輩の右肩に一太刀、入れた。

「ぼくです。……うつくしい叔母さん」

 辰巳先輩が棒読みだ。


「あっ、あー。やっぱり、親戚なんですね!」

 亜紀は、何となく思っていたことが解決した。


「二家本って苗字、めずらしい方だろ。かなりの確率で親戚だよ」

 辰巳先輩は、あからさまにいやな顔をした。

「名前、言った途端、『二家本さんのとこの』なんて、こっちはんない奴が、オレのいろいろ知ってるとか気持ち悪い……」

「あー、はい。はい。そのためにも、東京の美大に進学しなさい。今度こそ」

 二家本先生は、苦笑交じりの励ましらしい。



「白井さん、何時までいる気」

 夕方になって、辰巳先輩が聞いてきた。

「もうちょっとですかね」

「明るいうちに帰れ。寮に帰るまでの坂道、住宅街で、けっこう暗かった」


(ストーカーか、騎士ナイト

 奥山の声がよみがえった。

(夜道をたしかめてくれたの)


「明日、日曜日なんだから、日の出とともに来ればいいだろ」


(そして、鬼!)




(そして)

 二家本は、やはり帰り道、亜紀のうしろを自転車で追い抜かしていく。そして、ある程度して戻ってくるを繰り返していた。


 その不自然な動きを、警邏中けいらちゅうの駅前派出所巡査長が見逃すはずなかった。


 次に亜紀が見たのは、警官に職務質問されている二家本辰巳だった。

 すでに、名前と年を聞き取りされたところだった。


「お久しぶりですねっ」

 笑顔の巡査長に話しかけられて、亜紀は昨年の6月のことを思い出した。

「この方、先程から白井亜紀しらいあきさんの周囲を自転車で周回されていますが、お知り合いですか」

 亜紀の名前も憶えていた。


 亜紀にも、それが職務質問だということは、絵面えづらでわかった。

「はいっ! 画塾の先輩です!」

 必死に言い切った。


「お知り合いとしても、お困りごととかはありませんか」

「……お困りごと?」

 巡査長は辰巳先輩を背にして、亜紀に小さな声でつぶやいた。

などの迷惑行為は」

「わわっ」

 亜紀はあせりまくった。

「ないですっ! 先輩は、先輩は……、帰り道を、み、見守ってくれてる人です!」

(たぶん)


 巡査長の顔から緊張感がなくなり、ふにゃっと苦笑いとなった。

「そうですか。失礼しました」

 二家本辰巳に敬礼して去って行った。


「なんか、すすすいませんでしたっ」

 亜紀は二家本に90度の礼で謝った。


「……なんで白井さんが謝る。オレが、かっこわるかっただけだよ……」

「帰り道、同じ方向だから! 暗くなるから! ストーカーとかじゃないですよね!」

「大きな声で言うなよ……。落ち込む……」

「今度から、暗くなる前に必ず帰りますから!」

「そうして……」

 二家本は、がっくり肩を落として自転車を引きはじめた。


「わたしの横を、横を歩いてください。そしたら、ストーカーになんてまちがえられませんから!」

「……ほんと、白井亜紀しらいあき、思ってたのとちがう」

「え、と」

 気まずい。亜紀は本当に気まずかった。


 暁の星学院のバス停、坂道の登り口まで二家本は送ってくれた。

「大丈夫ですよ。わたしが、ここからオーロラ寮までの道のりで行方不明になったら、捜索願が寮から出されますから」

「……それじゃ、おせぇよ。二家本先生とライングループ作ったろ?」

「はい」

「寮に着きましたってライン入れろ」

「はい」



 以降、亜紀は暗くなるまでに寮に帰ることにした。朝いちばんでアトリエニケに行くことにした。

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