11 しらいあき 〈なつめ先生の回想〉
『
携帯の向こうで桐野先生は、三原なつめに切り出した。
『白井さんのお母さまって、どういう方?』
なつめは、いつか聞かれると思っていた。
言葉を選んで話しはじめた。
「謙虚な方ですね。亜紀さんのことも細かに心配されます。でも」
腰だけバスタオルで巻き直して、また座る。
「お話を振り返ったときに、まったく亜紀さんのことをほめていないんです」
『……そう。白井さんね』
「はい」
『今日、体育祭があって。観覧にいらした、お母さまから外出届の申請があったの。夕方、白井さんは外出したのだけど、お母さまには白井さんを寮まで送るという発想がなかったようで。携帯も財布も持っていない白井さんは、駅前の交番から寮に電話してきたの』
「え」
『10代の娘を日暮れてから放り出すとは、想像力のない方ね』
なつめは、白井亜紀が言葉に詰まった時の困ったような、かすかに笑ったような顔を思い出していた。
「――亜紀さん、交番に行ったんですか。そうですか。自分から『助けて』って言えたんですね。それなら。大丈夫。大丈夫、ですよね? ——桐野先輩、ありがとうございました」
『なつめ』
桐野先生の声のトーンが、やわらかさを含んだ。
『もう、なつめも教師なんだから、わたくしのことを先輩呼びとか、その正座しているような敬語はやめて?』
「はっ」
なつめは、床から勢いよく立ち上がった。
(桐野先輩は千里眼だろうか)
昔から桐野には天から双眼鏡で見ているような、そういうところがあった。
このふたりは、かつて
桐野との通話の後、乾きかけた髪になつめはドライヤーをかけた。
洗面台の鏡に映る自分が、しゅるしゅると幼くなって、小学生の白井亜紀の形をとったように見えた。
7年も前になるか。
しらいあき。
その子の描いた絵を、なつめは見つめていた。
(対象物を、正確に読み取っている)
それは天性のものだろうか。
三原なつめは図工教室のうしろに張り出してある子供たちの絵を、順番に、ながめていた。
早朝7時。
非常勤講師の1日めとしては、いいスタートだと自画自賛する。
その年、この市では試みとして公立小学校に、中高の美術教員免許状を有する図工の専科教員(非常勤)を募集した。
多くの公立の小学校では学級担任が、すべての教科を教えている。美術も、その中の教科でしかない。
三原なつめは、運よく採用されたのだ。
「非常勤講師をしながら、中高教師本採用を目指すの? むずかしくない?」
その日の昼休みには、先輩教師に出鼻をくじかれたが。
「そうですね」
こういう場合は、「はぁ」とか、お茶を濁さないほうがいいだろう。仮にも教師だ。それは、子供たちに見てほしい姿じゃない。
「教師としては小学校過程に惹かれました。ただ、わたしの特性が美術なもので、美術専任教師となると、今のところ、中学か高校しか望めないんですよね」
「三原さんて、私立の
「そうですね」
なつめの表情が少々、くもった。
この教師に自分が暁の星学院出身だとは話していないはずだが、どこまで個人情報が流れているのだろう。
結局、この先輩教師が言いたいことは、そこか。
しかし、実際、その先輩教師の言うことも、もっともだった。
非常勤講師と言えど、1年めは忙殺された。でも、やりがいはあった。図工室の整備をまかされた。
「ずっと考えていたんだけど、実動できなくてね」
美術指導の長の教師が、なつめにA4のファイルにまとめた案を手渡してきた。
「材料用具探索型、つまりフリースタイルの図工室が作りたいわけ」
材料も用具も図工室中央に集中させる。
何がどこにあるかが一覧できるようにする。
平置きで一目でわかるように。
引き出しに入っているのはハサミやカッターナイフ、げんのう、ノコギリなど。並べて入れる。
「ひとつひとつ番号ふって。番号順に並んで入れて。ハサミは右ききは左から、左ききは右から並べて」
「左ききのハサミ! わたし、家庭科のハサミを左ききで発注しましたけど、これが切れなくて。点検したの、右ききの人かな~って思いましたよ」
ふいに、なつめは小学校の時のことを思い出した。
「あぁ、裁縫道具とか自分でそろえてたんだよなぁ。昔は」
なつめと、その教師は一回り以上、年は離れているはずだが、〈昔〉とひとくくりにされた。
「左きき用ハサミは試し切りしてみますね」
非常勤講師3年めに入ると、なつめは先輩教師に、〈図工室のヌシ〉とからかわれるようになった。
「いつ、教員採用試験に合格すんの」とも言われたが、非常勤講師の任期が少なくとも3年とされているのを知っての上での軽口だ。
あきらかに生徒の美術展への入賞が多くなり、のびのび描かせることも、もちろんだが、実績につながっていることを皆、承知している。
その〈図工室のヌシ〉が、自分より〈ヌシ〉だろと思っている生徒がいた。
放課後、図工室に行くと、その子はいる。
「白井さん」
呼んでも、その子は1回じゃ顔をあげない。
相当、入り込むタイプだ。
今日、彼女が描いているのは自分の手だ。
「白井さん」
なつめが2度、呼んで、ようやく、少女は顔をあげた。
夢から醒めたときみたいな顔をしている。
その、ほうけたような顔がかわいいと、なつめは思っていた。
「そろそろ、下校時間だよ」
「はい」
少女は自分の描いていた絵を、通学リュックに大事そうにしまった。
(このやりとりも3年めだよ)
白井亜紀は5年生だ。
放課後、図工室に来ていた。
ある日、早めに戸締りをしなければいけない日があった。
なつめは白井亜紀に、「おうちで描いたら」と言った。ほぼ連日、図工室に来る少女に多少、うっとおしい気持ちもあったかもしれない。
「——わたしの絵、へただから」、ぽつりと少女は言った。「すてられてしまうから」
(下手?)
まさか。この子の絵は群を抜いて、対象物をとらえることができている。その絵をすてられる? 誰に? とまでは、なつめは聞けなかった。
それからは、白井亜紀を観察した。
特に参観日。やってきた母親を観察した。
そして、直感と経験で、なつめは確信した。
(彼女の母は、わたしの母と似ている——)
(わたしも、誰かに気づいてほしかったんだ)
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