25  なつめ先生の冬休み

 三原なつめが副担任をしていた中3のクラス会が、明日、という日だった。

 入院していた、なつめの母が発作を起こし昏睡こんすい状態におちいった。

 医師の説明やら葬式やら実家の整理やら、気づけば冬休みは終わっていた。


 休みの間は、母が一人暮らししていたマンションに寝泊まりした。

 なつめのキーケースには、一応、実家の家の鍵が入っていた。けれど、自発的に使ったことはなかった。

 できるだけ、できるだけ、実家に近寄らないようにしてきたのだ。

 かつてのなつめの部屋は、高校生の時、使っていたベッドと机がそのままで、時間が止まったようだった。

 久しぶりに、そのベッドに横になると、もうマットレスがへたれているようで、

(マットレスは何ゴミだろう……)と、ぼんやり考えた。 


 最期、なつめの母は子供に返っていた。

 若年性アルツハイマー認知症のせいだ。

 発症してから数年、発作を起こすたび弱っていった。


 なつめのことは、その時々で、母親か妹だと思っているようだった。

 結婚したこととか、子供を産んだこととか、浮気されたこととか、離婚したこととか、清々すがすがしいくらい、母の記憶からなくなっていた。

 もちろん、なつめの名すら出なくなっていった。


 父親への恨み言とか聞かされるより、よかった。

 ののしられるより、よかった。

 命の最期の時に穏やかな表情をしている母、それが、母の本来の姿なのだ。そう、なつめは思うことができたから。


「寂しがってたわよぅ、お母さん」

 通夜の席での母の親族の言葉が、それでも、なつめの心をえぐったが。


 別居の父は葬儀には来なかった。もとより、今まで母の見舞いにも来ていない父だ。

 一応、なつめは父の電話番号の留守電に、母が死んだことを残した。それは、事務的な手続きでしかない。


 母の死から晴天が続いている。

 空を見上げ、なつめは母とのことを静かに思い出す。


 たぶん、母とは相性が悪かっただけだ。

 なつめの母親がと思うことは、なつめのではなかった。


 家族として、楽しいことがなかったわけではないのだ。

 ただ、楽しいこと、ひとつに、思い出したくないことが、みっつ、ついてくる。

 よいことだけを残す器用なことができない者は、全部を捨てるしかない。



 なつめの母が一人で暮らしていたマンションは、意外と片付いていた。


(もっと酒瓶とか転がってるかと思った)

 なつめの母はアルコール依存をこじらせていたから。


 元々は酒の強い人だった。

 なつめの父親と別居してから気晴らしの酒が一気に増えていった。そして、飲んでいた酒に飲まれていった。

 治療を何度も試みたけど、断酒までに至らなくて、減酒治療をしていたはずだ。

 人前では、しゃっきりしている人だった。

 今でも、あの母がアルコール依存だったといっても信じてはもらえなさそうだ。



 冷蔵庫を開けると、酒瓶が何本か残っていた。

 ワインやら冷酒やら飲みかけだ。捨ててしまおうと、なつめは冷蔵庫から1本1本、取り出した。


 その中の1本のラベルに、目が釘付けになった。


『なつめ、生まれてきてくれて、ありがとう。

 二十歳はたちになったら、いっしょに飲もうね』

 そう、ラベルには書いてあった。


 写真入りだった。自分の赤ちゃん時代の写真を見まちがえる者はいないだろう。

 なつめの写真だった。


 ごていねいに、生年月日と出生時の体重と身長も書かれている。

 なつめの生まれ年のワインだった。


 なつめが二十歳はたちになったとき、いっしょに飲もうと声をかけられた記憶はなかった。

 なつめが一浪して美大に入った年、父親の長年の浮気が発覚した。

 離婚を申し出た父と、離婚を了承しない母で、すったもんだしていたと思う。

 二十歳はたちのお祝いどころではなかった。


 結局、父と母は書面上は夫婦のまま、別れることになった。

 父が浮気(本気)相手とどうなったのかまでは知らない。なつめにとってはどうでもよいことだ。

 罪滅ぼしだろうか。父は大学卒業までの学費は、きっちりみてくれた。それには感謝している。



 あと3センチくらいしか、瓶に残っていないワインを、なつめは、まじまじと見つめた。

 飲んだのは、おそらく母だ。父は飲酒に節度があった。


(ほとんど飲んじゃってるじゃん)


 これは飲んじゃいけないと残しておいて、ついには手を出してしまったか。

 それとも、結婚生活なんて意味なかったなと、早い内に開けちゃったか。


(さすが、アル中)

 ひくひくと、なつめは笑った。

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