27  アトリエ ニケ 1

「あー、白井。早いご帰還じゃん」

 オーロラ寮に帰ってきた亜紀を、奥山が迎えてくれた。

「どしたん」


 早めに亜紀は帰寮してきた。

「絵画教室の冬期講習会に出たくて」


「あら。白井さん。お帰りなさい」

 アグネス先生が、舎監事務室の受付窓から顔をのぞかせた。

「寒かったでしょう。談話室へ行きなさい。お茶、入れるわ」



 談話室は暖められていた。

 亜紀は学校指定の紺色コートを脱いで、とりあえず、客用に置かれている洋服掛けにかけた。

 奥山もついてきた。今日は、えんじ色のジャージではない。パステルピンクのボーダーもこもこニットパーカーと、そろいのニットパンツを着ていた。


「奥山部長。かわいい」

「服が?」

「奥山部長がです」


 奥山は満足そうに照れた。

「福袋だよ。両親セレクトだからね。らぶりーなのさ」


「さぁ、どうぞ」

 アグネス先生がマグカップに入れた、ほうじ茶と茶菓子をお盆にのせて運んできた。


「談話室は飲食禁止では」亜紀はとまどった。壁には、そう張り紙がある。


「オフィシャルはねー」

 奥山が早速、茶菓子に手をのばす。スーパーで、よく売ってる個包装の和菓子のアソートだ。

「今、オーロラ寮、閉寮中だから」


「そうでした」

 亜紀は無理を言ったのだ。

 絵画教室の無料冬期講習会、美大を目指したい高1生限定という記事を、スマホの検索で引き当てた。それに参加したいがために、早めに帰寮していいかと問い合わせた。

 問い合わせしたのは、桐野先生の個人スマホにだ。6月のときに教えてもらっていた電話番号にかけた。桐野先生はアグネス先生に連絡する前に、もうOKを出してくれていたと思う。

「帰寮の件、ありがとうございました」


「いいのよ。さ」

 アグネス先生は亜紀にも、ほうじ茶をすすめた。

「——それでね。少人数しかいないときに、食堂全体暖めて飲食していたら、光熱費がとんでもないことになるわよ。舎監事務室にはキッチン設備がついていて、厨房の人もいない閉寮期間、舎監は、そこで煮炊きして談話室で食べているの。わたしたち、ここに住み込みですからね。寮生以外でも頼まれれば受け入れるわ。シスター・マリア・エフゲニーヴナ・ヴォロノワも、そういう方であったそうです」

 独り用の椅子におさまり、アグネス先生はマグカップを両手で包むように持って、熱いほうじ茶をすすった。

「あ。ただし女子だけよ」


 亜紀は、桐野先生が言っていたことを思い出した。

『——いついかなる時でも。私のところへいらっしゃい。そのための私ですから』

 それは、きっと、シスター・マリアが、そうだったのだ。


「よし。じゃ、休憩したら買い物、行こう。白井」

 奥山が立ち上がった。

「買い物?」亜紀が、きょとんとすると、「夕飯~。白井がふえたから。食材追加しないと。30分後に集合」



 今夜は鍋だそうだ。





 次の日。亜紀はパンの朝食をすませると、駅前に向かった。

 探し出した絵画教室は、在来線の駅の近くだった。

 ふつうの住宅地に片足突っ込んだ地区の、神社の裏の3階建てのビルだった。

 大きく『アトリエ ニケ』と縦書きの壁付け立て看板がついていたから迷わない。


「失礼します」

 指定されている時間の10分前。どきどきしながら、ドアを引いた。


 ドアを開けた向こうは受付だった。

 受付に座っていた男子と目が合った。

 亜紀は面食らった。向こうも黙ったままだ。


「無料体験の生徒さーん?」

 頭の上から声が降ってきた。そっちを見ると吹き抜け階段から、女の人が降りてくるところだった。


「はい」亜紀が返事をすると、「本日はアトリエニケの冬期講習にようこそ。申込用紙、書いてくださいね」

 女の人は受付にいる男子に催促するような素振りをした。


「あ」、男子は小さく言って、A4の用紙をはさんだバインダーとボールペンを亜紀に差し出してきた。


「そこじゃ書きにくいでしょう。こっちへ」

 女の人が、受付のうしろのテーブル席へ案内してくれた。

 ありがたく座らせてもらったが、微妙にテーブルと椅子が低い。これは、きっと、子供向けの椅子だ。亜紀は背中をまるめながら、住所と氏名、学校名を書いていった。 

 申込用紙には、いくつか質問事項があって、『画塾に通ったことがありますか。』という質問に、NOを丸で囲んだ。『美大進学希望ですか。』には、YESに丸をする。『学びたいことは何ですか。』の選択肢の中で、〈デッサン〉に丸をつけた。


白井亜紀しらいあきさん。あかつきほし学院。ん、お住まいから遠くない?」

 書く端から女の人は見ている。けっこう、せっかちだ。

「学校の寮に入っています」

「あぁ、そうなのね」


 申込用紙に記入し終わって、亜紀はバインダーの方向を向き直しして、女の人に渡した。


「それと、どうして、うちに? 美大受験指導塾なら他にもありますよね」

「あの、冬期講習というものに気がついたのが年末でした。1日単位で、当日受付可能、道具も持ってこなくていい、そのうえ、無料っていうのは、ここだけでした」


「……あはは」

 それを聞いて女の人は、かるく笑った。

「そしたら誰か来るかな~って、募集してみたの。美大受験コース、これから起ち上げるところで」

「こ、これからっ?」


 そういえば、画塾だというのに誰もいない。受験塾なら正月返上で受験生は勉強するはず。美大受験だって同じだ。

「いや、でも、無料タダだし」

 亜紀は思わず、大きな声で言ってしまっていた。


「はい。これ、わたしの名刺です。それから時間割や料金体系の資料ね」

 女の人は封筒に名刺をのせて、亜紀に差し出した。


 『アトリエ ニケ

  二家本にかもと 裕子ゆうこ』とあった。


「にかもと。にけ」

 亜紀は、口の中でつぶやいた。


「割と珍しい苗字かな。それを、勝利の女神のニケをかけてみたの。ん、辰巳たつみくーん」

 二家本先生は誰かを呼んだ。 

「……はい」

 受付にいた男子が来た。


「今日から冬期講習を受ける白井さんです」

白井亜紀しらいあきです」

「……二家本辰巳にかもとたつみです」


辰巳たつみ君は、美大受験既卒生びだいじゅけんきそつせいコース生、兼、助手。辰巳君、道具を選んであげて」

「……はい」


既卒生きそつせい

 亜紀が、はじめて聞く言葉だった。

(卒業してる。あっ。浪人さんってことか)

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