第四話 八親子

 背中に鋭い痛みを感じた時、八景は己を罵った。

 引き際が肝心の集り屋を名乗っておきながら引き際を誤った。

——このトンマめ!

「父ちゃん……ッ!」

 咄嗟に懐に庇った八重が悲鳴混じりに叫ぶ。

 背に取りついたけだものが、キィキィと耳障りな声で叫びながら爪を突き立てた。獣の息が酷く臭う。

 木の上から飛び掛かってきた猿は、八景ではなく八重を狙っていた。小さく、弱い獲物から狙った。

——こいつら、ただのエテ公じゃねぇ。

——魔物だ!

 魔物は獣とは違う。

 姿こそ大柄な獣に似ているが、一層狂暴であり、残虐で、なによりやつらは人を喰う。

 生きたままこの恐ろしい魔物どもに貪り喰われる様を想像して、八景は身を震わせた。

「父ちゃん、苦しい……」

 強く抱きしめた八重が、そう零した。それでも、八景は腕の力を少しも弱めはしなかった。少しでも力を緩めれば、その隙に猿どもの腕が八重を攫うだろう。

 たとえ諸共に死ぬ運命だとて、親より子を、先に死なせる訳にはいかなかった。

 その時である。

 何か、影がよぎった。

 鳥か。

 否。

 八景の頬に、生温かい飛沫が飛んだ。

 はっと顔を上げれば、猿の頭が宙を飛び、目の前にすとんと落ちる。

 途端、木の上の猿どもが一斉に怒りの雄たけびを上げた。

「ひぃいい!」

 これには八景も情けない悲鳴を上げる。

 ギャアギャアと他の音が聞こえぬほど洪水のように押し寄せる猿どもの喚きの中、不思議と耳に届いたのは、老若男女の区別もつかぬ、くぐもった声だった。

「助かりたくば、そこより一歩足りとて動くなよ」

 毛皮に覆われた背と、僅かにこちらを振り返った朱い面は猿どもとよく似た狒々の貌。鍔の無い諸刃の剣を振るって血を拭い、猿どもから守るように立つは白黒入り混じったあのまだら髪だった。

「あ、あ、あんた……」

 八景が言葉を詰まらせる。

 次ぐ言葉を待たずして、まだら髪が動いた。

 上から飛び掛かる猿二匹を、まとめて一振りのもとに両断。腹から真っ二つにされた猿の骸が、ごろりとまだら髪の足元に転がった。

 それを皮切りに、四方八方からまだら髪めがけ、次々と猿が飛び掛かる。

 木の影から躍り出たその数は、八景の予想を優に超えていた。

 毛むくじゃらの無数の腕が伸び、そのどれもが次の瞬間には血飛沫をまき散らす。

 指一本触れさせぬとはまさにこのこと。刃の籠に守られているようだった。

 叫ぶ仲間の影に隠れ、まだら髪の死角を狙った一匹が飛び出した。まだら髪は飛び上がり、宙で身を翻して猿の上をとる。そのまま蹴り落とし地面に叩きつけ、骨の砕ける音と共に猿が血を吐いた。まだら髪はすかさずその脳天に剣を突き立てる。

 絶命した猿の骸から刃を引き抜き、その動きでまた別の猿を斬り払う。動きと動きの継ぎ目の見えぬ、流れるような剣捌き。

 それに思わず魅入っていた八景の背後へ、奇声を上げながら猿が襲い掛かった。

「うわぁあ!」

 叫ぶ八景の頭上を飛び越えて、まだら髪が猿を斬り捨てる。縦に裂けた猿の体から噴き出した返り血が、容赦なく八景に降りかかった。

「ひょえぇ……」

 と、八景は腰を抜かし、もはや叫ぶ気力もない。

 猿を斬るたびに噴き出す血飛沫が、まだら髪の剣圧に吹かれ血煙となる。

 猿の骸が二十を超えたあたりになって、怖いもの知らずと思われた猿どもの勢いが目に見えて弱まった。

 猿どもに躊躇が広がってゆく。

 気づき始めているのだ。

 仲間たちの折り重なった骸の向こうで、僅かにも息を荒げぬ狒々面が、自分たちが束になっても敵わぬ程の化生の者だということに。

 しん——、と。

 それまでの猛攻が嘘のようにその場が静まり返る。

 辺りには、咽かえるような鉄臭さが立ち込めていた。

 これがマキリ。

 これがマキリか、と。

 八景は畏怖を覚えた。

 まだら髪の振るう剣は、おおよそ剣術と呼ばれるものではなかった。

 骨も肉も毛皮も、一切を柔らかな土塊を斬るように。

 人の業ではないのだ、マキリの剣は。

 なるほど、これでは人も恐れよう。

 連中は、人の線引きの外側に在る者らだ。

 やがて、猿の中でひと際大柄な一匹がまだら髪の前へと進み出た。

 人の身の丈と大差のない大猿は、注意深くまだら髪と視線を合わせ、しばし睨み合った。

 不意に大猿が低く唸り、踵を返す。

 生き残った猿どもも、それに続いた。

 ぐるりと周りを囲んでいた気配が次第に減り、ただ元の通りに、枝葉が風に揺れるざわざわという音だけが残った。

 カチン、という剣を鞘に納めた音で、八景は我に返った。

 まだら髪は剣も腕も毛皮の内にしまい込んで、既に戦闘態勢を解いている。それを見てようやく、八景は危機が去ったことを実感した。

「た、たすかった……」

 そう言った八景の、緩んだ腕の中からやっとこさで八重が顔を出す。

「ぷっはぁー」

 八重は思う存分息を吸い込んだあと、傍らに立つまだら髪を見て目を剥いた。

「とっ、父ちゃん! まだら髪が、まだら髪がいるよぅ!」

 八重が飛び跳ねてまだら髪を指さす。ところが八景と言えば疲れ果てた様子で、おおうよぅ、気の抜けた返事を返すばかり。

「どうしよう。あたいらがこっそりつけてることが、まだら髪にばれっちまったよ!」

「おおうよぉ……」

「父ちゃん、しっかりしておくれよぅ!」

 八重はどうやら傷の一つもないようで、ノミのように飛び跳ねてはへたり込む八景の着物を引っ張るなどしている。

 まだら髪はこの親子を一瞥すると、あとは何事もなかったように歩き出す。その足に、八景が縋りつく。が、ひらりと躱される。

 しかしまだら髪の気を引くには十分だったようで、まだら髪は振り向き、もとい、八景を見下ろした。

「待ってくれ旦那! マキリの旦那!」

「なんだ」

 くぐもった声は、明らかに八景を鬱陶しがっていた。

「あの猿どもは、もう襲ってこねぇのかい」

「そんなことはないだろう」

「じゃ、じゃあ今あんたと別れたら俺たちゃあ……」

「……」

 まだら髪は何も言わなかった。言わなかったが、それで十分だった。

「旦那ぁ!」

 八景は再びまだら髪の足に手を伸ばす。

 これもひょいと避けられた。

「だから、なんだ」

「後生だ! 俺たちも連れてってくれ!」

「それは依頼か」

「そんな金があるように見えますかい⁉」

「……諦めることだな」

 まだら髪が、八景の身なりを見て言った。

「そんな! せ、せめて、娘だけでも!」

 八景は、頭を地面に擦りつけて懇願した。

 猿の血がたっぷり染み込んだそこは酷く臭うはずだったが、まったくお構いなしだった。

「頼む、この通りだ。なんなら俺をあんたの召使いにしてくれてもいい! 存分にこき使ってくれ。代わりにこの子をどうか安全な場所まで。死んだ女房の忘れ形見なんだ!」

「父ちゃん、父ちゃん、どうしたんだよぅ」

 父のただならぬ様子に、八重の表情が曇る。父を跪かせているまだら髪を見上げ、八重はキッとその面の奥を睨んだ。

「お前なんぞいるか」

 八重の視線に怯みもせず、まだら髪が答えた。

「ここいらの森はどこも魔物の棲みかだ。知らん訳がなかろう」

「知らなかったんだ。つい最近、東の方から来たばっかでよう。そりゃあ、知らねぇのは俺の間抜けだ。だからそれを言い訳にするつもりはねぇよ。でもよぉ、娘は違うんだ。俺についてきただけなんだ。父親が間抜けなばっかりに、こんなに小せぇままで、魔物に喰われて死ぬなんて、そりゃあ、あんまりじゃねぇか」

「……」

 まだら髪は無言で、八重を見た。

 八重の目には、まだら髪が自分の父親を虐めているように見えるのだろう。眦を吊り上げて、威嚇している。だが幼いながらに、今の状況を理解しつつあるのか、噛みしめた唇が微かに震えていた。

 まだら髪は不意に膝をつき、視線を八重に合わせた。

「お前、名前は」

「てめぇに名乗る名なんか、もちあわせちゃ、いねぇやい!」

「やえ、八重だ!」

 慌てて八景が答える。

「そうか。八重、か」

 そう呟いて、まだら髪が立ち上がった。

「森を抜けた先に『村』がある。そこまでだ」

 その言葉を聞いた八景の表情が、ぱっと明るくなった。

「恩に着る! まったく、地獄に仏たぁ、あんたの事だよ」

「御託はいいから早く立て。そうと決まったなら一人も二人もさして変わらん」

 言うだけ言うと、まだら髪は八景を待たずして再び歩き出した。

 八景は大急ぎで立ち上がると、まだら髪の背に舌を出す八重を抱え上げた。

「父ちゃん、あいつについていくのかい?」

「まァ、そう言うない。命の恩人さまだ」

 不満げな八重を八景が宥めた。

「と、そうだ。あんた!」

 前を行くまだら髪に、八景は足を速めて並んだ。

「俺としたことが、まだ名前も聞いていなかったな! 俺は八景だが、あんたの名前はなんという」

「それを聞いてどうする」

 まだら髪は一瞥もくれずにそう返した。

「やなやつ!」

 と悪態をつくは八重である。

 その八重を腕から肩の上に移して八景が言う。

「そいつぁ勿論。朝昼晩と拝む為さ。恩人さま恩人さま、あんときゃ助けて頂いて、どうも有難う御座いましたってな。けども名前がわかならきゃあ、どこの馬の骨とも知れんやつに感謝が飛んで行っちまうかも知れねぇだろう?」

 掌をすり合わせながら、如何にも気安い様子である。まったく、調子のいい男だ。

 図体のでかい男に回りをウロチョロされるまだら髪にとってはたまったものではない。心の底から鬱陶しい。日に二人も、やかましい男に絡まれて、まだら髪の内心は穏やかではなかった。

「お前、そうしつこいと猿の群れの中に放り込むぞ」

 その言葉に、八景はぎょっとした。面のせいで、まだら髪の言葉は本気か冗談かを見分けにくかった。

「そ、そうおっかねぇことを言いなさんなよぅ。名前ひとつ教えてくれたら、俺はきっぱり黙るから。な? どうだい」

「やいやい! 名乗らねぇなら、あたい、ずーっとまだら髪って呼ぶぞ!」

 そんでもいいのかい⁉ と、肩車された八重が言う。

 まだら髪は八重を見上げ、無言のまま立ち止まった。

「……夜鳥。俺はヤトリだ」

 そう、名乗った。

「やとり? ヘンテコだな!」

 八重がきゃっきゃと笑う。

「変か」

「変だ。ヘンテコだ!」

 八景は夜鳥と名乗ったまだら髪が、いつ怒り出すかと気が気ではなかったが、意外にもその声は穏やかだった。

 八景に対して厳しい態度をとるこのまだらの髪のマキリは、自らに当たりの強い八重に対してだけは優しかった。

 八景はそれを不満になど思っていなかった。

 娘にさえ優しくしてくれるのなら、自分はどんな扱いを受けても良いと思えた。

 歩き出した夜鳥の背を、八景は前言の通り無言で追う。

 もっとも、八重は彼の名の響きを妙に気に入った様子で、やとり、やとりと呼びかけていた。

 それを咎める声はない。

 ふと、八重が後ろを振り返って言った。

「父ちゃん! 背中になにはりつけてやがんだい⁉」

「えぇ? げぇ! このエテ公、まだしがみ付いてやがったのか! 八重、取ってくれ!」

「届かねぇよ、父ちゃん!」

 まったく、騒がしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鵺斬伝 木々暦 @kigireki818

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ