第三話 猿の森
『村』を出てすぐ、まだら髪は森に入った。
猪面の話にあった咎落谷は、『村』から西へ進んだ所にある。この森を突っ切れば、そう遠い場所ではない。
彼の谷は処刑場である。
咎を犯した罪人を、縄で縛ってそのまま突き落とすのだ。
戦に刀も食い物も取られたとあっては、それが一番金のかからない方法であった。
恐ろしいことに、何人かに一人は落とされても生き残るらしく、しかし切り立つ崖は登る程に狭くなるため、谷から抜け出すことは不可能だという。
人の骸は魔物を寄せる。
生き残った者の末路など、考えたくもない。
ざわり、と木々が騒いだ。
森は深く、まだ日暮れには早い筈であるのに木々の下は薄暗い。不気味な鳥の鳴き声が、きぃきぃと頭上に振る。
『村』から己の後を付けてくる気配には、まだら髪は気付いていた。
妙に背の高いのが一人と、それに引っ付くようにして分かりづらい、小さいのが一人。当人どもはうまく潜んでいるつもりだろうが、研ぎ澄まされたマキリの感覚には丸裸も同然であった。
さりとてまだら髪は、それを咎めるつもりもなかった。その気なら足で振り切ることもできようが、その気も起きぬほど、それらは取るに足らなかった。
だが、いかなまだら髪にその気がなくとも、ただ歩いているだけでもやはりマキリと常人には大きな差がある。まして道らしい道も無い、木の根が大蛇のように横たわる森の中とあっては、そう易々と進めるものではない。
まだら髪が鹿のように淀みなく岩を飛び越え根を跨ぐのに対し、徐々に距離を開きつつある奇妙な追手はこけつまろびつといったあり様だった。
気にすることはない。
気にすることはないと、思っていた。
また、ざわりと、木々が騒いだ。
まだら髪は足を止め、頭上を仰ぐ。
空の色もわからぬ程、分厚い枝葉の帳。それが波のような音を立てて揺れている。
が、風はない。
ざわり、とまた。
ただの騒めきでない、異質な蠢きが森を揺らした。
暗い、木々の影の中に紛れ、刺すようにこちらを見つめる視線がある。
幾つも、ある。
遥か後ろに遠ざかった追手たちとは違う、獰猛な眼が、幾つも木陰に潜んでいる。
目を付けられたか、と思う。
ちらりと脳裏を掠めたのは、今はもう随分と遠くに離された、件の追手ども。
道なき道に疲れ果てたか、小さい方を大きい方が背負うのが気配で分かった。彼らはまだ、こ奴ら(・・・)に気付いていない。
森の蠢きは時が経つにつれ激しくなり、しとど雨のように木の葉を降らした。ざぁざぁという枝葉の音に、不気味な猿の声が混じり始める。
追手どもも、この異様さにようやく勘付いた様子で、しきりに木々を見上げる。
まだら髪は茂る葉の影に目を凝らし、一言。
「去ね」
ざっと、木々の梢が揺れた。
水を打ったように森の蠢きが静まり、猿の声が止む。
こちらを射抜く無数の眼はなお消えなかったが、それもやがて一つ、また一つと視線は去っていった。
まだら髪は辺りを見回した後、視線を戻して足を踏みだした。
その耳が。
マキリの人間離れした聴覚が、微かな悲鳴をとらえた。
人の子の、幼い子の、悲壮な声が。
——父ちゃん……ッ!
まだら髪はくるりと身を翻し、つま先で足場を蹴った。立っていた木の根が爆ぜ、木片が散る。
まさに飛ぶような速さで、まだら髪は悲鳴の出どころへと迫った。一度も地面に足を付けず、木の幹を蹴り、疾る。その度に木々は大きく抉られ、その際に生じた突風が更に木々を軋ませた。
纏う毛皮の下から、鍔の無い諸刃の剣を抜き放つや否や、まだら髪は蹲る男の背に取りつく猿の首を斬り飛ばした。
血飛沫を降らせながら、猿の首が舞う。
「ギャアアアアアアアアアアッ‼」
耳をつんざく猿の怒声が、幾重にも重なって響いた。
「ひぃいい!」
と、情けない悲鳴は、首なし猿の骸を背中に取りつかせたままの男だ。
「助かりたくば、そこより一歩たりとて動くなよ」
剣を振るい、刃にべったりと付いた猿の血を拭って、まだら髪が言った。
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