第6話 貴石たる才
ポーン――……と、始まりの音が鳴り響く。
『――来る』
息を潜め、目を閉じる。顔を少し伏せ、五感のリソースを聴力のみに充てる。そうして最後に一呼吸置き、いざ万全を期した直後。――俺は、森で寝転んでいるような錯覚に陥った。
『!?』
瞬きをすれど、その先に奏はいない。代わりに大きく広がるのは、一面の湖と緑々しい樹。呆然としていると、鳥のさえずりまで聞こえてきた。
『何だ、この感覚……。まさか、また呑まれたのか?』
軽やかに跳ねる主旋律は、穏やかな副旋律の上で、滑らかに踊る。蝉がさんざめく窓の外とは正反対であり、さながら、湖畔の上を舞う妖精のようだ。
『前回よりも僅かに、だが確実に上達している。 てっきり本当は、親の言いなりで目指しているのかと思ってたが……』
数ヶ月前の演奏よりも一層、心血が注がれているような印象を受ける。その証拠に彼女の瞳は、「自分の居場所はここだ」と言わんばかりに輝いていた。
『……奏。お前は本当に、親を打ち負かすピアニストに――』
なってしまうのか。……だとしたら、俺は。俺の、存在意義は。浮かんだ感情を振り払い、彼女の世界に浸り直した。
◇◇◇
俺の歪な胸中をよそに、10分の演奏が終わりを告げた。応答として拍手を贈ると、奏は笑顔で一礼する。
「ね、どうだった? 今回こそ、もう少し長い感想が欲しいな〜」
「そうだな。個人的には、前回よりす――」
「す?」
「……スルメ曲だと思った」
「何それ!?」
「それって褒め言葉なの?」と、疑問符を浮かべる奏。……至極当然の反応だ。希望とは全く異なる、意味不明な短い感想が返ってきたら、誰だって首をひねるだろう。
『何か、何でもいいから気の利いた言葉を――』
いたたまれなくなり、席を離れ窓を開ける。
「くそ……っ」
飛び込む熱気に蒸されたせいか、顔が熱い。何となく目を合わせるのに抵抗を覚え、背を向けたまま、適当に言葉を紡ぐ。
「いや、あまり褒めすぎると調子に乗ると思ってな。だから――そうだな、これ以上はノーコメントにさせてもらう」
「ガーン! まさかのはぐらかされ……。でも次こそ必ず、本能から私を崇め奉るくらい心を動かしてあげるんだからね!」
「何だよそれ……」
意味が分からない上に、想像しただけで怖い。
ともあれ、その後は何だかんだ普段通り、雑談を交わしながら片付けを行う。「夏休み――もとい、青春の1ヶ月をどう有効活用するか」の作戦会議は、帰宅するまで続いた。
◇◇◇
そして翌日、夏休み初日の午前11時30分。「昼ごはんは食べないで来て」と言われた俺は、空きっ腹で奏の家に向かっていた。半袖シャツとロングパンツの組み合わせという、至って普通の格好でだ。
「あっっつ……」
ジリジリと皮膚を焼く太陽は、残された体力すら奪っていく。奏にしつこく推された日焼け止めを塗っているが、暑さだけは凌げないらしい。手土産を自身の影に隠しつつ、アスファルトを踏み歩く。
「それにしても、中途半端な時間だな……。まさか、出前パーティでもするつもりなのか?」
親の居ぬ間に豪遊。高校生ならば、一度はやりたいことの一つだろう。だとしたら何を頼もうかなどと考えながら、インターホンを鳴らす。
「あ、拓斗。いらっしゃーい!」
「今開けるね」という言葉とともに、鉄の門が口を開ける。レールを跨ぎ、石畳を踏みつつ玄関に歩み寄ると、タイミング良くドアが押された。
「暑い中、来てくれてありがとね」
「こっちこそ、誘ってくれてありがとな。あとこれ、うちの親から」
玄関に入って早々、紙袋を差し出す。チョコの香りが漂っているためか、受け取るや否や、奏は中を覗き込んだ。
「わあっ、ありがと! おばさんの手作りクッキー好きなんだよね〜」
「昔からよく食べてたよな。親も作りがいがあるって言ってたぞ」
「ほんと? 作り手も喜び、貰い手も喜ぶ……まさにWin-Winだね!」
「そうだな」
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