第2話 日進月歩に当てられて
『……何故布張りの椅子にしてくれないんだろうか。
特に冬はヤバい。腹を下す生徒もいるのではと思うほど冷たい。やんごとなき理由があるのならば、是非聞かせてくれないだろうか。それに――いくら学校らしいと言えど、側面がささくれるのも危険だろうに。
『ピアノの椅子は平気だろうか』
奏を一瞥しつつ、着席する。彼女との適度な距離により、ステージで埋め尽くされる視界。それはまるで――本当に、俺のために開かれたコンサートのように見えた。
「……。よし、こんな感じか」
「あ、そっちも終わった?」
「ああ。いつ始めても良いぞ」
どうやら準備は、同じタイミングで終わったらしい。顔を向けると、奏は満面の笑みでサムズアップした。だが俺が眉一つ動かさないでいると、彼女は立ち上がって両手を広げる。
「――さて! 私たちは今、どこにいるでしょーか!」
「……このくだり、今更いるか?」
「いるいるいります! 明るい曲を弾く前には、気分も明るくする必要があるんです〜」
俺が根暗野郎なのは昔から知っているだろう。対して奏は、水を得た魚の如くハツラツとしており、何となく不服を覚える。
「……」
「ん? どうしたの?」
「いや、何でもない」
夢は所詮、耳触りが良いだけの賭け事だ。目標へ走った時間が長ければ長いほど、失敗した時の代償は大きい。……当然、奏も分かっているはずだ。だのに彼女は、日々折れることなく打ち込んでいる。
『夢がないと、人生は楽しくないのか?』
石橋を叩いて渡るような人間には、およそ選択出来ない生き様。だが生を謳歌しているようで羨ましくも思い、相反する感情を
「ともかく、日が暮れる前に終わらせてくれよ」
「もーっ! そんなこと言われたら、せっかく上げたテンションが落ちちゃうでしょ!」
アニメのように頬を膨らませる奏。だが、コミカルじみた態度もつかの間。彼女はいつになく真剣な表情を浮かべ、凛とした空気を張る。
「……じゃあ、弾くね?」
「ああ、頼む」
奏も頷き、改めてピアノと向き合う。そうしてノートを譜面台の上で広げたかと思うと、両手を振りかざした。
開幕早々。疾風怒濤と津波のように押し寄せてくる旋律に、俺は一瞬で呑み込まれた。幾重にも重なる、力強くも美しい音色。一度の呼吸も許さぬ、ストーリーの緻密さ。
「――」
譜面をめくる瞬間すら、演奏の一部としか思えない。瞬きを惜しんで魅入っていると、
『これは――過去一完成している。素人の俺でも分かる。それに……普段の奏からは想像もできないほど、繊細で複雑な旋律だ』
素直に感心し、
『……? 何だ、今の違和感は』
悟られぬよう、視線だけ動かす。その先――ノートをめくる奏の表情は、どこか影を宿していた。
◇◇◇
そうして10分間の演奏を終えると、奏は起立し一礼する。その様は、本当にプロのピアニストのようだった。しかし俺が
「……どうだった? つ、つまんなかった?」
「いや、悪くなかった」
「な〜んだ、良かった――って、えっ!? 感想それだけ!?」
「駄目か?」
少なくとも、過去二曲はこんな回答をしたはずだ。なのに「何故今日は食い下がるのか」と首を傾げると、奏は指を組んで身体をくねらせる。
「今日は特に頑張ったから、いつもよりもっとちゃんと聞きたいんだ〜。感想用紙10枚分くらいがいいな〜」
「微妙にリアルな要求だな……。まあ、気が向いたら書いてやるよ」
「あー! それ絶対くれないやつ! ……でも待ってるからね!」
期待を背中に受けながら、椅子を元の場所に運ぶ。その最中思考を巡らすも、浮かんできたのは称賛の言葉ではなく、彼女の優位性だった。
『……教師が目に掛けるのも納得だ。次生まれる曲は更に進化していると思うと、俺は――』
10年以上、肩を並べていたつもりだった。むしろ同い年とはいえ、何においても兄が如く先導出来ていたはずだった。けれど、今となっては――
「拓斗、早く〜。カギ閉めちゃうよー」
「……悪い、今行く」
脳にまとわりつく、醜い感情。それら一切を振り払うべく、音楽室を急ぎ抜けた。
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