第5話
――深夜零時。
息子は私を伴って、その洋館に向かった。
住宅街の隅。
多分、この住宅街が開発されたよりも以前から建っているのだろう。草に覆われた荒地に蔦に埋もれた建物があるが、パッと見、廃墟にしか見えない。
……この雰囲気、どこかで見た事があるような。
前を通りかかる時には、気にもしていなかったが、剥げた水色の壁を真正面から見ると、どことなく見覚えがあるのだ。
しかし今は、記憶を探っている場合ではない。
洋館の脇の空き地に、趣味の悪い黒のセダンが停まっている。
既にあいつは来ているのだ。
錆び付いた鉄格子の門扉の隙間から、慣れた様子で息子が入っていく。私も後に続こうとしたのだが、息子は
「母さんはいい。僕だけで話をしてくるから」
と、私を止めた。
「でも、もし、あなたを酷い目に遭わせようと、大勢で待ち構えてたら……」
「大丈夫。あいつの車一台しかないから。仲間はみんな逮捕されたんだし、昨日言ったように、上の組織に言える金じゃない。
確かに、息子は中学生にしては大柄で、あの痩せた不健康そうな男に、体力でなら負けないだろう。……だから特殊詐欺の受け子などという役が、できてしまったのもある。
一応は納得し……けれど、息子の冷静さに、逆に一抹の不安を抱えつつも、私は草をかき分けて奥へと進んで行く息子の背中を見送った。
洋館の前で待っていては不審に思われる。
仕方なく、私は一旦自宅へ戻る事にした。
距離はせいぜい五十メートル。何かあれば、すぐに駆け付けられる距離だ。
ふと思い出し、小学生の頃に持たせていた、見守り用GPS発信機も持たせてある。
私がリビングに入ると、夫はソファーから腰を浮かせた。私は夫の隣に座り、スマホで息子の位置を確認する。
GPSのマークは、あの洋館から動かない。
夫と二人、じっとその赤い点を見つめる。
すると、十分もした頃。
それが急に動きだした。
道に出て、こちらへ走ってくるようだ。
私は夫と顔を見合わせ、急いで玄関へと向かった。
そして、私が扉へ手を伸ばしたのと、扉が開くのは、同時だった。
狭い玄関で、私は一段上の位置から、真っ青な顔をした息子を見下ろす形になる。
怖い思いをしたのだろう。ガタガタと震える息子を励まそうと、それより何より、無事に息子が帰ってきたのが嬉しくて、私は満面の笑みを浮かべた。
「おかえり」
その途端。
「うわあああ!!」
息子が奇声を上げて崩れ落ちた。
私は慌てて息子に駆け寄る?
「どうしたの? 何があったの?」
たくましい肩を抱えるように手を取ると、ぬめりとした感触があった。
――血。
まさかと思った。
血の気が引く思いで、私は夫に叫んだ。
「きゅ、救急車を……」
「駄目だ!!」
息子はそう声を上げてから、激しい震えで焦点の合わない目で、私を見上げた。
「――人を、殺しちゃった」
***
ひとり、洋館に入る。
長年、誰も住んでいない廃墟とはいえ、建物自体が傷んでいる様子はなく、埃っぽい匂いと蜘蛛の巣があるくらいだった。
犯罪組織のアジトとして、それなりに手入れされてきたのかもしれない。
息子が言っていた部屋に向かう。
玄関を入り、足音を殺して廊下を進む。
懐中電灯を頼りに扉を確かめ、突き当たりの、半分開かれたその扉に、そっと身を滑り込ませる。
「――ご、護身用に、ナイフを……」
殺人を告白した時、私の腕の中で震える息子の手には、血まみれのサバイバルナイフが握られていた。
「い、いじめ対策に、フリマアプリで、買ったやつ……」
先程の、息子が見せた余裕の原因はこれだったのかと、私は納得した。
「それで?」
話を促す私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
返り血に濡れた頬を拭いもせず、息子は途切れ途切れに答えた。
「あ、あいつ……腎臓は、ふたつでいい……女は……年を取ってもそれなりに需要はあるから……使えるだけ使ったら……外国に売るって……」
やはり、優しい子なのだ。
私を、母を守るために、あの男を殺したのだ。
「あいつ……僕をバカにしてたから……油断して背中を向けたんだ……今しかないと、思った……」
そう告げると、息子はひきつけを起こしたように嗚咽しだした。
私はそんな息子を抱き締め、こう繰り返した。
「いい? これは夢なの。悪い夢を見てしまっただけなの。しっかり眠ればすぐに忘れるわ」
そして、私が常用している睡眠薬を飲ませ、眠らせた。
睡眠薬は、飲んだ直前の記憶を錯乱させる事がある。
その作用で、きっと今晩の出来事も、忘れるに違いない。
――これは、夢なのだ。
その部屋は、洋館の最も奥。草の覆い茂った裏庭に面したところにある。
そのため、多少懐中電灯の明かりが窓から漏れても、怪しまれる事はないだろう。
私はぐるりと部屋を照らし、激しい眩暈に襲われた。
――デジャヴ。
そう表現するのが最も相応しい光景が、そこにあったのだ。
見上げるほどに大きな柱時計、煉瓦のマントルピースが据えられ、丸窓からは裏庭が見える。
部屋の中央には小ぶりの丸テーブルが置かれ、だが今は、紅茶のカップではなく青銅製の灰皿があり、煙草の吸殻がまだ細く煙を立てていた。
……まるで、何度も夢で見た、あの部屋のようだった。
私は混乱し、壁に寄り掛かる。
何度も呼吸をし、ようやく状況を飲み込めたところで、私は考えた。
――もしかしたら、あの夢は、息子の行動を、息子の視点から、見ているのかもしれない。
そう考えると、全て辻褄が合う気がした。
殺人を犯した恐怖、そして、帰宅した時に見た、母の笑顔。
母と思っていたのは、実は私だったのだ。
もう一度部屋を見回す。
そして、しかし……と引っ掛かるものを感じた。
夢の中の時間は、夕方。真っ赤な光が絨毯を照らしていた。
けれど、今は深夜。懐中電灯の白々とした光に切り取られた部分以外は、漆黒の闇だ。
それに、窓の外に百日紅は咲いていないし、テーブルに紅茶もない。
和室がそうであるように、洋館の洋間というのは、どこも似たような造りになっている、という可能性もある。
私はそれを確かめるように、もう一度懐中電灯を動かす。
そして、ゴブラン織りの椅子が転がった向こうに、何かがあるのに気が付いた。
そっとそれに歩み寄る。
するとそれは、折られて盛り上がった絨毯の端だった。
私は息を殺した。
その下にあるものは、見なくても分かる。
――隠さないと、隠さないと、隠さないと――!
思い悩んだ末に、こんなに
私はつい微笑んだ。やはり、息子はまだ子供なのだ。
なら、私が隠してあげなくちゃ。
周囲の様子を観察する。
丸テーブルの下に敷かれた二畳ほどの絨毯。
それが、流血が広がるのを防いで、床に殺人の痕跡はない。
と、その床に車の鍵が落ちていた。あの黒のセダンのものだろう。
ならば、車に運んで、車ごとどこかに捨ててしまおう。
後ろ暗いこの男の捜索願が出される事はないだろうし、万一発見されたところで、この男と息子の繋がりが警察に知られていないのは織り込み済みなのだ。
絨毯に包んだまま、私はそれを引きずった。
男とはいえ、ガタイは良い方ではないから、何とかなりそうだ。
――ところが。
「…………ウッ…………」
呻き声が聞こえて、私は凍り付いた。
恐る恐る絨毯に目を遣る。
――絨毯の隙間から、血まみれの手が、ゆっくりと伸びてきた。
「イヤっ!」
思わず悲鳴を上げて手を放す。
ゴトンと重量感を持って落ちた拍子に、絨毯が解け、男の姿が現れた。
真っ赤に染まった目が、仰向けに私を睨んでいる。
反射的に、再び絨毯で
その間にも、脳内では高速で状況を把握しようとしていた。
――良かった、息子は殺人者ではなかった――!
けれど、救急車を呼んで、この男を助けるのか?
否。
そんな事ができるはずがない。息子に「殺人未遂」という、新たな罪名が付いてしまうではないか。
その挙句、この男に一生付きまとわれるのは間違いない。
散々な出来事を乗り越えた末、ようやく家族の繋がりらしいものが見え始めたばかり。それを壊されてはたまらない。
なら、どうすればいいのか。
答えは、ひとつしかない。
私は、絨毯の上に馬乗りになると、テーブルに手を伸ばし、青銅製の灰皿を手に取った。
そして、私の下で蠢く
瀕死の重傷を負っている上に、絨毯で動きを封じられ、男は文字通り、手も足も出ないようだった。
ゴツン、ゴツンという感触が、グシャッと変化しだして、私はようやく手を止めた。
激しい息切れがして、私はそのまま、絨毯の塊を見下ろしていた。
そして現実に気付いて、灰皿を放り出した。
――私は、人を殺してしまった――
成り行き上、仕方なかったとはいえ、罪悪感がないかといえば嘘になる。
だがその罪悪感が、私を駆り立てるのも事実だった。
隠さないと、隠さないと、隠さないと――!
耳から飛び出さんばかりの鼓動を抑えられないまま、私は部屋から絨毯を引きずり出し、男のセダンに載せる。
そしてエンジンを掛けてから、手が止まった。
一体、
私たち家族と、縁もゆかりもない場所でなくてはいけない。
しかし、あまり遠くへは行けない。幹線道路や高速道路を通れば足がつく。
その上で、人目に付かない場所……。
その時、ふと浮かんが場所があった。
私が子供の頃に、少しの間だけ住んでいた場所があった。
父のDVから逃げ、母と共に、身元を隠して引っ越した小さな町。
そこは、ここからはそんなに遠くはない。山をふたつかみっつ超えた向こう。
山に囲まれた町の端にあった、小さな古いアパートに住んでいた。
そこのベランダから見える山の中腹にポツンとあった、水色の建物。
味わいのある洋館を眺めて、ミステリーなら死体のひとつやふたつ埋まっていてもおかしくなさそうだと、当時そんな事を考えていた。
一度探検に行ってみたいものだとも。
そこまで思い出した時、ドクン、と、心臓が鳴った。
先程、この洋館を見て感じた既視感――そして、嫌な感じ。
それは、あの洋館だったに違いない。
しかし、あれはもう何十年も前の話だ。あの建物は、果たしてあるだろうか?
そう思いながらも、私はアクセルを踏んでいた。
町を抜け、山道に入り、そして……。
屋根の抜け落ちた洋館の庭で咲き乱れる百日紅を見て、私の夢は、醒めた。
自分の元から逃れた私たち母娘を監視するため、この洋館に住み着いた、あの男。
ミステリー好きで好奇心の強い娘が訪れる事を見越して、目立つように建物を水色に塗って、虎視眈々と待ち構えていた、父。
紅茶を勧めるフリをして、私を連れ去ろうとした彼を、護身用にと持ってきたぺティーナイフで……。
***
――事件のニュースです。
今朝〇時頃、X県Y郡Z町の外れにある廃屋で、身元不明の女性の遺体が発見されました。年齢は四十歳から五十歳くらい。状況から、自殺と思われます。
また、廃屋の敷地内に停車した車から、絨毯に包まれた男性の遺体も発見されました。こちらは損傷が激しく、警察は、他殺の可能性が濃厚であると見ています。
さらに、警察が廃屋を捜索したところ、建物の床下から、死後数十年と思われる、性別不明の白骨化した遺体も発見されました。
これら三人の遺体に何らかの関わりがあるのか、警察は捜査していくとの事です。
夢の中 山岸マロニィ @maroney
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます