第4話

 玄関を開けたのは、深夜零時を回っていた。

 リビングでは相変わらず、テレビがうるさく鳴っている。

 その前のソファーでは、夫がいびきをかいていた。


 私はそれを無視し、息子の部屋の前に立つと、キッチンから持ち出したフライパンをドアノブに叩き付けた。


「開けなさい! ケンタ! 出てきなさい!」


 喚きながら何度もフライパンを振り下ろす。

 だが、息子が部屋から出て来る様子はない。

 代わりに、さすがに気付いたのか、夫が現れ私をとがめた。

「何時だと思ってるんだ!」


 しかし夫は、私の顔を見て、凍り付いたように言葉を切った。


 私は再び、フライパンをドアノブに振り下ろした。

 すると、不快な音がして、ドアノブが廊下に落ちたから、私はドアを蹴り開けた。


 ……ちょうど息子が、天井に吊るしたベルトに、首を掛けたところだった。


 私は彼に駆け寄り、椅子から引きずり下ろし、床に押し倒す。そして馬乗りになり、拳で殴った。

「馬鹿! 逃げるな! 卑怯者!」

 頭と言わず肩と言わず背中と言わず、構わず殴り続ける。

「おまえのせいで! おまえのせいで、母さんがどんな気持ちなのか、分かるのか! 家族が壊れたから逃げるのか! 卑怯者!」


 拳が裂け、血がにじむ。

 息子に深い怪我はないが、私の血で、彼の肌は赤く染まっていく。


「自分で始末をつけろ、馬鹿息子! おまえは、おまえは……ッ!」

「もう、やめなさい」

 夫が私の腕を掴んだ。

 その途端、体じゅうの力が抜けて、私は床に崩れ落ちた。



 ……その後、家族三人で、何もない食卓で顔を向き合わせる事になった。

 夫の手当てを受け、私は不器用に包帯の巻かれた手を、隠すように膝に置いた。


 事情は説明した。

 顔じゅうに青あざのある息子よりも、夫の方が青白い顔になった。

「何て事をしたんだ……!」

「騙されたんだ」

 反抗する気力もない様子で、息子はボソリと答える。

「俺が誘った奴が、あいつらとグルだったんだ。そいつは敢えて、直接犯行には参加せずに、逃げたら俺に誘われた事を学校に言うって……」


 狡猾なやり口だ。

 居場所を奪い、逃げ場をなくし、奴隷のように悪事に手を染めさせる。


 私はつい口を挟んだ。

「どうして母さんに言わなかったの?」

「母さんが泣くのを、見たくなかった」


 俯くその顔は、悪戯を隠しきれずに白状した、優しい息子のままだった。


「だが、お金の持ち逃げなんかを、なぜ……」

「一千万なんて大金、使える訳がないわよね。ね、まだ持ってるんでしょ? 出しなさい」


 しかし、息子は涙を流して首を横に振った。

「俺をいじめてた奴らに、取られた……」


 絶望的な状況に、色を失っていた夫の顔色は、更に紙のように白くなった。

「あの計画は元々、あいつ……さっき、母さんが会ったあの男が、組織に内緒でやった仕事を、横取りしたんだよ。あいつ、言ってたんだ。上の組織に半分持ってかれるから、たまにこっそりやるんだと。それを、先輩――いじめグループのリーダーだよ――そいつが知ってて、横取りしようと言い出したんだ。横取りしたって、上には言えない金だから大丈夫だって……」


 狡猾な者の元には、より狡猾な者が寄るのだ。

 純粋な息子が取り込まれたら、あらがう術などなかっただろう。


「しかし、どうするんだ一体……」

 一方、夫は頭を抱えて悶えている。

「一千万もの金を、どうやって用意すればいい? この家にはローンも残ってるし、売ったところで大した金にはならない。退職金も端金はしたがねだったし、借りるにしても、俺は無職だ。警察に言ったところで、そんな組織の手から助かるとは思えない」

「そうでしょうね。詐欺の捜査から逃れたくらいだもの、うまく逃げて、報復に来るわ。それに……」


 息子をこれ以上、罪人にしたくない。


「夜逃げはどうだ?」

「この家は見張られてるもの、無理よ」

 私はそう答えてから、顔を上げた。


「腎臓を売ればいいのよ」


 その言葉に、息子と夫は目を見張った。

「おまえ……」

「ケンタは身から出た錆よ。覚悟しなさい。あなたも、健康診断の結果だけはいいんだから、ね。もちろん、私も。可愛い我が子のためだもの、腎臓だろうが肝臓だろうが、痛くなんてないわ」


 絶句して顔を見合わせた息子と夫だったが、やがてゆっくりと頷いた。

「そうと決まれば、明後日――実質明日ね、それまで待つのは得策ではないわ。そこでゴネられたら、期限を守らなかったと利息を付けられるかもしれない。……ケンタ、連絡取れるんでしょ? あいつに連絡しなさい」


 しばらく躊躇していた息子だが、私たちの決意の前に逃げ場はないと観念したのか、スマホを操作した。

 その手が震えているのが見て取れる。

 やがて、電話が繋がったようで、息子は部屋の隅に向かった。

「はい……はい……」

 消え入りそうな声で返答をするその様子から、相当きつく脅されているようだった。


 やがて電話を切った息子は、私たちを振り返った。

「明日、待ち合わせる事になったから」

「どこで?」

「町内の北の端にある古い洋館。あそこが、グループのアジトだったんだ。一度捜索を受けてるから、逆に安全だろうと」

「すぐ近くじゃないの」

 私は唖然とした。まさか、こんな近くに犯罪者がたむろするアジトがあったとは。

「明日の夜、父さんと母さんと僕の腎臓で、あの一千万を払いたいって、お願いしてくる」

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