第3話

 息子は相変わらず部屋から出てこない。

 主人は正式に、会社に退職願を提出した。

 長年勤めてきた情けで、依願退職の扱いとなり、ある程度の退職金と失業保険も出るようだ。

 しばらくの生活は何とかなるにせよ、お先は真っ暗だ。


 私は意を決し、隣町の飲食店にパートに出る事にした。

 専業主婦期間が長く、短時間のパートとはいえ、慣れない仕事と心労で、私はクタクタになっていた。


 それでも、家に帰ると、出掛ける前と同じ姿勢で、主人はテレビを見ている。

 朝、シンクに残していった洗い物もそのままで、カップ麺の容器が追加されていた。

 薄曇りの物干しには、洗濯物が掛けたまま。

 テーブルに散らかったスナック菓子の食べカスがこぼれ、カーペットに染みを作っている。


 私の中に張り詰めた何かが切れたのは、この時だった。


「何なの? 一体何なの?」

 裏返った声を上げると、ようやく夫は少しだけ首を動かした。

 私はその後頭部に、ありったけの声を投げつけた。


「あなたは、この家にとっての、何なの!?」



 私は家を飛び出していた。

 何も見たくなかった。

 何も考えたくなかった。

 これは夢だ。悪い夢だ。

 幼い頃からよく見る、人を殺す夢と同じで、目が覚めれば何もなかった事になっているのだ。

 目を覚ます方法が、分からないだけなのだ。

 そう考えながら、ただひたすら、私は街を彷徨さまよった。


 ――不意に、肩を叩かれるまで。


「ケンタさんのお母さまですよね?」

 ギクッと振り返った先にいた男は、痩せたサラリーマン風の男だった。

 きちんとした身なりで、一分の隙もなく髪を整えている――不自然なくらいに。

 そして、人当たりの良い笑顔を浮かべているのだが、私は彼に恐怖した。


 目が、素人のものではない。


 すぐに分かった。

 ……息子が受け子をやらされていた詐欺グループの、トップに近い男。

 警察の捜査で尻尾切りをした後の、本体だと。


 彼は私の行く手を遮るよう、巧みに立ち位置を移動し、柔らかい口調でこう言った。

「立ち話は何ですので、喫茶店でコーヒーでも飲みながら、少しお話しをしませんか?」


 ――案内されたのは、とあるビルの地下にある喫茶店だった。

 テーブルと椅子が十組ほど並んだ、ごくありきたりな店内だが、窓がない事から、こういう男が利用するのに都合がいいのだろう。……もしかしたら、彼の組織の息が掛かった店かもしれない。


 おどおどと見回す私の素振りに悠然と笑みを浮かべ、彼はテーブルに肘を置いた。

 左腕に光る、素人目に見てもとんでもなく高価そうな高級時計に威圧され、私は肩を竦めた。


「何度か彼のスマホに連絡をしたのですが、お返事がいただけないので、体調でも崩されているのかと、お宅までお見舞いに行こうとしたんですがね。ちょうどお母さまで出ていらっしゃるのが見えたものですから」


 我が家は静かな住宅地の外れ。繁華街であるこの場所とは随分距離がある。

 自宅付近で迂闊うかつに、ただでさえ近所の目が厳しい私に声を掛けようものなら、通報されてしまうかもしれない。

 ――見張られていたのだ、自宅を。

 当然といえば当然だろう。


 恐怖の混乱で頭が真っ白の私は、ただただ、できるだけ存在を小さく見せようと、膝に手を置き、テーブルに置かれた水のグラスの水滴を眺めた。

 そんな私に、言葉だけは丁寧に、彼は続けた。


「あまり大きな声では言えませんが、何もおっしゃらずに私について来られたというのは、お気付きなのでしょう、私の立場を」

 私は少しだけ顔を上げ、小さくうなずく。

 すると、途端に彼は背もたれに身を預け、ネクタイを緩めた。

「なら、話は早い。……率直に言います。彼、組織の金を持ち逃げしましてね」


「…………えっ……」

 情けないほど間延びしたかすれ声を出すのが精いっぱいだった。

 何とか頭を動かし彼の顔を見ると、先程までのような人当たりの良さは微塵もなく、裏の社会を滲ませる、刃のような視線が私に向けられている。

「――一千万円。カモから受け取った金を、彼、持ってるはずなんですよ」


 言葉も出ない。

 わなわなと口を震わせて、ただ目を泳がせるしかない。

 彼は身を乗り出し、舐めるように私に顔を近付けた。


「返してもらえませんかね?」


 たまらず、私は両手で顔を覆った。

 流れ出る涙を、止める術もない。


「どうなんですか?」

 もう一度聞かれ、私は赤ベコのようにコクコクと首を縦に振る。

「む、息子に聞いてみます。も、もしあったら、必ずお返しします」

「あのね、お母さま。『もしあったら』じゃないんですよ。こちらには証拠があるんです。……もちろん、警察に届け出られるものではありませんけどね。でもね、お分かりかと思いますが、こっちの世界の方が、警察よりも、そういうのには厳しいんですよ」

「…………」

「返していただけますね?」


 息子が持っていようと持っていまいと関係ない。

 借金してでも家を売ってでも、一千万を渡さなければ、息子が、家族が、どうなるか分からない。


 呼吸すら忘れて、私はうなずき続けた。

 すると男は表情を変え、先程までのような柔和な笑みを浮かべた。

「約束しましたよ。……明後日、またここで、同じ時間にお会いしましょう」


 そう言うと男は立ち上がりかけ、だが思い出したように付け加えた。

「お分かりかと思いますが……。警察には、言わない方がいいですよ。ケンタくんともう一人、彼のお友達のご協力も受けていたのですが、ケンタくん、警察にはその事を言わなかったみたいですね。友達思いのいい子です」


 そして、私の隣にやって来ると、声を低めた。


「その友達というのは、彼が私に紹介してくれた子でして。――彼が捕まれば、ケンタくんが初犯でない事がバレてしまうでしょうから。そうなると、今度こそ本当に、ケンタくんの人生は終わりますわ」

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