中編
夜を越えるたび、新しい家が一軒建つ。
今日は砂の向こうに一軒、翌日は砂のこちら側に一軒。家が増えるたびに人が増え、町がにぎやかになっていく。
時折無人の家が建つことがあったが、数日後に建った家と共に住人が現れた。彼らがなぜ他人の家にいたのかは分からないが、無人だった家に明かりがともるのは安心感があった。
真っ白だった地面が砂色に変わり、乳白色の空も青くなる。
最初は不思議に思っていたことも、慣れると当たり前のこととして処理される。どこから家が現れるのかも、なぜ知らないはずの人を知っているのかも、そう言うものだとして脳が勝手に判断してしまう。
ある朝、砂のこちら側に新しい家が加わった。緑色の屋根には、ルース書店と書かれた看板がかけられていた。
ポインセチアとシクラメンが交互に植えられた花壇を横目に、リズはトトトントンと独特なリズムをつけて扉を叩いた。
中で誰かが走ってくる音が聞こえ、ドアが大きく開け放たれる。
スラリとした長身と大きな丸眼鏡が特徴的な青年に、リズは見覚えがあった。
「お待たせ、リズ」
「待ちくたびれたわ、ルース」
自然と口から言葉が零れ落ちる。
記憶の向こう側にいるリズとルースが、どんな会話を交わしていたのかは分からない。けれど二人は恋人同士だったと言う漠然とした確信だけがあった。
新しい住人とのやり取りを何度も繰り返しており慣れているリズとは違い、ルースは混乱していた。
「この世界のことを教えるわ。だから、少し歩かない?」
渋々と言った様子のルースを連れて、マーサのパン屋まで歩く。
町は砂の川を中心として、外へ外へと広がっていた。両端にあるリズの家とマーサのお店は、毎日遠ざかっていた。
少し前までは、小腹が空いたときにフラリと立ち寄ることができたのだが、今ではマーサのところに行こうと決めてから出ないと途中で挫折してしまうほど遠くなっていた。
このまま町が広がり続けたら、いずれは買いに行けないほど遠くなってしまうかもしれない。
人が増え、町がにぎやかになるのは大歓迎だったが、マーサのパンがない毎日なんて考えられなかった。
あの小麦の味と芳醇なバターの香りは、リズの毎日を鮮やかに彩ってくれているのだから。
その日もリズはいつも通りの時間に起き、パンを食べるとルースの書店を訪ねるために家を出た。
街のざわめきが耳に入ったのは、書店が見えてきた頃だった。ソワソワと落ち着かない様子で、花壇の前を行ったり来たりしているルースに声をかける。
「おはようルース。なんだか騒がしいけど、どうしたの?」
「おはようリズ。どうやら、砂が止まってしまったみたいなんだ」
「そうなの? 新しい家は?」
「それは建ってるみたいなんだけど……」
どうやら、いつもと同じように新しい家が現れたのと同じくして、上空から落ちてきていた砂の川がなくなってしまったらしい。
リズはルースと共に、町の中心部へと足を向けた。
人ごみをかき分け、昨日まで砂の川が出来ていた場所に立つ。どれほど目を凝らしても、上空は真っ青なだけで、砂の川があった痕跡すらない。
町が広がり続けることに慣れていた人々は、突然のことに驚き、戸惑っていた。
ルースもオロオロとした様子で、新しい家の住人エルガーと何やら話している。
すっきりとした目元が印象的なエルガーと、軽い会釈を交わす。リズは彼のことをよく知らなかった。見たことがある気がすると言う、曖昧な記憶だけだった。
ルースに一言かけ、人々の間をかき分けて集団の外に出るとほっと息を吐いた。
みんなは戸惑っているようだが、リズにとっては町がこれ以上広がらないことは好都合だった。今の距離ならば、マーサのパン屋にもまだ行くことができるのだから。
明日になっても、家が増えることなくこのままでいてくれたら良い。
そう願いながら眠りについたリズだったが、翌朝も町はざわめいていた。
中心部に建っていたはずのエルガーの家が、跡形もなく消えていたのだった。
「もしかしたら僕たちは、砂と一緒に上空の世界からこの世界に流れてきたのかもしれない」
ホットココアを飲みながら、ルースが真面目な顔でそう呟く。丸眼鏡のレンズは湯気で曇っており、目の色はうかがえない。
「上空に世界があるなら、地下にも世界があるのかもしれない。多分僕たちの世界には、時間制限があるんだよ。砂が流れ落ちている間だけ、僕たちでいることができるんだ」
一定の時間まで広がり、同じ時間をかけて消えてしまう世界に生きている。
そんなルースの主張を、滑稽な空想だと笑い飛ばすことは出来なかった。
「ねぇリズ、君はこの世界に来た初日、どうしていたの? 誰もいない世界で一人、不安じゃなかった?」
改めて尋ねられ、リズは最初の一日を思い出そうと目を閉じた。
布団のぬくもり、床の冷たさ、パンの香り。真っ白な地面に、青が一滴だけ混じった乳白色の空。黄金の色の砂に、読みかけの本。
あの日は確かに、続きの日だった。
失われた記憶の先に、前日は存在しているはずだった。しかしどれほど考えても、存在していたからこそ本が読みかけで、マーサのパンがカゴにいっぱいに入っていたのだろうと言う推測しか浮かんでこない。
「何となく大丈夫だと言う根拠のない安心感があって、特に不安だとは思わなかったかな」
「それじゃあ、今回のことは? 消えてしまうかもしれないって不安はある?」
「分からない。でも、永遠に繁栄し続けることはできないとは思っていたわ」
町の拡大も、いずれは止まると思っていた。
しかし拡大が縮小に転じるとまでは思っていなかった。
二人の間に沈黙が降りる。温かかったココアはいつの間にか冷めてしまっていた。
一口飲めばザラリとした舌触りで、甘ったるい味がいつまでも残った。完全に混ざり切っていなかった粉が、カップの底に沈殿している。
「ねぇリズ、永遠って何だろうね」
ポツリと呟いたルースの言葉が、リズの脳裏に深く刻まれる。
有限は、観測することができる。しかし無限は観測することができない。
終わりがないことを証明できない永遠は、果たして存在するのだろうか。
リズが永遠の意味について考えている間も、町の縮小は止まらなかった。夜を越えるごとに、家が消えていく。
消えてしまう恐怖に、夜さえ乗り越えれば良いのだと、中央の家に住む数人が外の家で過ごすようになった。
しかし、一夜を越えたところでまた次の夜が来る。
恐怖はやがて諦めへと変化し、いつまでも震えているよりは早めに見切りをつけたほうが得策だと言う意見が増えて行く。
今宵消える家がどこなのかは、誰もが分かっていた。
逃げていた中央の人たちが、今日消える予定の家で一夜を過ごす。大勢でいれば夜なんて怖くないと、虚勢を張る。
朝になるたび家が消え、人が消え、中央へ引き寄せられる。
それでもリズは、今までと同じ毎日を送っていた。
朝起きて、マーサのパンを食べ、ルースに会いに行く。今日の一冊を選び、彼が淹れてくれたココアを飲みながら他愛もない話を交わす。
「ルースはどうするの?」
そう問いかけたのは、ルースの書店が消えてしまう予定の日だった。
すでに隣家は跡形もなく消え去り、かつて砂の川が流れていた真ん中にルースの家が建っている。
ルースは読んでいた本から顔を上げると、ずり落ちてきた眼鏡を親指で上げた。
「ずっと考えてたんだけど、やっぱり僕は、この世界の前にも同じ世界があったと思うんだ。そうでないと、おかしなことが多々あるんだ」
最初から隣家の人を知っていたこと、リズに好意を持っていたこと、無意識のうちに口走る言葉。その全てが、そう考えなければ辻褄が合わないのだと主張する。
「おそらく、世界を隔てるときに記憶を失うんだと思う。でも、頭のどこかでは覚えていて、今までと同じように振舞おうとするんだ」
ただ消えてしまうのなら怖くても、次があると知っているのなら怖くはない。
今とは少し違う世界で、今と同じように過ごすだけなんだと言うルースに、リズはずっと言いたかった言葉をかけた。
「ルース……私の家に来ない? 私の家なら、最後までこの世界で一緒にいられるから」
「逆にリズ、今日は僕の家で過ごさないか?」
消えるにしても、次の世界に行くにしても、ルースと一緒なら心強いと思う。しかしリズは首を横に振った。
「私は初めてこの世界に来た者として、終わりも見届けたいと思うの」
「そうだね、確かに君にはその権利がある」
ルースの目が、手元のマグカップに向けられる。いつもはココアなのに、今日はコーヒーを飲んでいた。香ばしい豆の香りが、インクの匂いと合わさる。
「リズ、僕は先に次の世界に行くよ。今回は君に待っててもらったからね。次は僕が待つ番だと思うんだ」
目を伏せたまま下唇を噛むルースの様子に、リズは小さく微笑むと「そうね」と呟いた。
ルースは穏やかで優しい性格をしているが、怖がりで繊細な面もあった。次々と人が消えていく世界で、最後まで残り続けることはできないのだろう。
「それじゃあルース、次の世界で待っててね」
「次は僕が待ちくたびれたって言う番だね」
終わりの日までの暇つぶしにと、ルースから紙袋いっぱいの本を手渡される。
リズはそれを胸に抱きながら自宅に帰り、ふっと息を吐いた。
もしも次の世界がこの世界と同じであるならば、始まりと終わりを見届けたリズは、次の世界では終わりの始まりの日しかいることができない。丁度、エルガーが現れてすぐに消えてしまったのと同じように。
(たった一日の恋人か……)
ドラマチックで良いじゃないかと思う反面、本当に次の世界はあるのだろうかと不安に思う。リズは紙袋から藍色の表紙の本を取り出すと、ギュっと胸に抱いた。
ソワソワとした気持ちのまま夜を迎え、抗えない眠気にまぶたを閉じる。夢すら見ない眠りの先、朝日が差し込むのと同時に起き上がると、家から飛び出した。
昨日までルースの書店があった場所には、今日消える予定の黄色の屋根の家が建っていた。
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