砂の国
佐倉有栖
前編
澄んだ空から流れ落ちてくる黄金色の砂の川に、指先を入れる。
リズの手のひらよりも温かな砂は、サラサラと音を立てて指の隙間からこぼれて行く。
陽光を受けてキラキラと輝く砂は足元にたまり、リズのつま先を柔らかく飲み込んでいった。
この町は、砂と共に成長してきた。
空から落ちてくる砂は、夜を迎えるたびに家を一軒連れてくる。
止めどなく流れ続ける砂は、時間が経つにつれて家もろとも外へと広がっていき、夕方には中央に一軒分の空きができる。
そして再び夜を経て、新しい一軒が町に加わる。
誰も家が落ちてくる場面を見たことはない。
なぜ空から砂が降ってくるのか、なぜ夜が明けると家があるのか、不思議に思う者は誰もいない。
この町の人々は皆、そうしてこの場にやってきたのだから。
リズは砂と共に、最初にこの場所にやってきた住民だった。
気づけば町に一人、ポツンと建つ家の中にいた。
ここが自分の家だと言うことは分かっていた。見慣れた白い天井に、まだぬくもりの残る布団。床はひんやりとしていて、素足をつければ体温が奪われた。
蝶番が軋む扉を開け、リビングに入れば甘いパンの香りがした。においに吸い寄せられるように歩けば、テーブルの上にはパンが詰まった籐のカゴが置いてあった。
懐かしさを感じる香りを胸いっぱいに吸い込み、冷たくなってもなお柔らかいパンを頬張る。
ほのかに甘く香ばしいパンは、食べ慣れた味だった。
リズは窓から見える外の景色を眺めながら、次々とパンを胃におさめていった。眠っていた細胞が動き出し、停滞していた血液が循環するような感覚に、思考が繋がっていく。
(ここは、どこだろう? 外はどうなっているんだろう?)
知りたいという欲望に抗えず、リズは立ち上がった。パンを一つ掴み、玄関の扉を開ける。
外は真っ白な空間だった。
足元には白い地面がどこまでも続いており、上空は一滴青を混ぜたような乳白色が広がっていた。
目の錯覚と言われれば納得してしまうほど微かな色合いの空からは、黄金色の線が垂れている。
家の隣に垂れ下がっているそれは、砂だった。
乾いた砂はリズの手に残ることなく、指間を落ちて行く。落ちた砂は足元にたまり、盛り上がった山が横へと流れていく。
リズはゆっくりと広がる砂を存分に眺めた後で、パンを食べながら自宅へ帰った。
本棚から読みかけの本を引っ張り出し、窓の外がオレンジに陰るまで読み続けた。
薄暗くなった室内で、リズはカゴに残っていた最後のパンを食べるとベッドに向かった。
柔らかな微睡の中で、自分がなぜここにいるのか、この場所はどこなのか、ボンヤリとした疑問が浮かんでは消えていく。
(大丈夫。明日になれば、きっと人は来るから)
眠りに落ちる寸前、リズは自身を安心させるようにそう心の中で呟いた。
(今までと一緒。夜を越えれば、町は育つ)
確信にも似た考えが脳裏をよぎり、何故そう思うのか自身の記憶を辿ろうとするが、意識はプツリと途絶えた。
夢すらも見ないほどに深い眠りに落ちる。
規則正しい寝息に重なるように、何か重たいものが落ちる音が外から聞こえた。同時に地面が揺れ、家がかなり震えたが、リズが起きることはなかった。
窓から差し込む朝日で起床したリズは、寝ぼけ眼のままリビングに行き、空っぽの籐のカゴの前で途方に暮れた。
昨日、何も考えずに全てのパンを食べきってしまった。お腹は空いているのに、食べるものが何もない。
カゴの底に残っていた欠片を口にしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
トントトトンと、独特なリズムを刻む。
リズは確かに、そのノックの音を知っていた。
無意識につま先が扉へと向かい、ドアノブを回す。
外から吹き込む風に乗って、パンの甘い香りがリズの頬を撫でた。思い切り息を吸い込み、名残惜しそうにゆっくり吐き出す。昨日、リビングに充満していたのと同じ匂いだった。
「おはようリズちゃん。パンを届けに来たんだけど……」
「おはようございますマーサさん。良かった、朝ご飯に困ってたんですよ」
大きなカゴに山盛りのパンを乗せた年配の女性が、人懐っこい笑顔で立っていた。
リズも穏やかな微笑みを浮かべてお礼を言い、女性の手からカゴを受け取った。
焼きたてらしく、まだパンは温かい。カゴを持つ手に、じんわりと熱が伝わってくる。
ツヤツヤとした輝きと、バターのにおいに我慢ができなくなって一つ頬張り、昨日と同じ味に口元を緩める。冷えていても十分美味しかったが、焼き立ての味は格別だった。
「美味しい! やっぱりマーサさんのパンは最高です!」
「そう言ってもらえると、作り甲斐があるわ。でも、もっとゆっくり食べないと喉に詰まるよ。ほら、ほっぺたにカスが……」
彼女の指がリズの頬に触れる寸前、二人の間に流れていた和やかな空気が一変した。
あまりの美味しさに崩れていたリズの表情が引き締まり、女性も伸ばしていた手を引っ込めると硬い表情でリズを見つめた。
二人とも、無意識のうちに旧知の仲のように振舞っていたが、知らない人だった。
リズは昨日以前の記憶がなく、女性は昨日の記憶もないと言う。
「気づいたら自宅にいたんだけど、テーブルの上にあたしの字で、リズちゃんにパンを持っていくことって書かれたメモが置いてあって、あぁそうだパンを届けなくちゃと思って……あんたが、リズちゃんなのよね? だってこの世界には、あたしとあなたしかいないんだから」
「はい、そうです。……あなたはマーサさんですか?」
「そうよ。砂の向こうで、パン屋をしているわ」
マーサの家は、砂の線を挟んで向こう側にあるらしい。昨日までは、砂の向こうは真っ白な世界だったはずだ。
リズはマーサと一緒に家から出た。白い地面に、青を二滴混ぜたような乳白色の空。そこから真っすぐに落ちてくる砂の線は、心なしか昨日よりも遠ざかっているような気がする。
砂のカーテンの向こうに、青い屋根の家がポツンと建っていた。レンガの煙突からは、薄い灰色の煙がポコポコとあがっている。
マーサの店と書かれた木の看板に、四角い窓を飾るレースのカーテン。店先の真っ赤なチューリップは、今日も綺麗に咲いている。
窓の隙間から見える店内は、いつもなら大小さまざまなパンが所狭しと並べられているはずなのだが、今日はがらんとしていた。
今は二人しかいないから、たくさんのパンは必要ないのだろうと納得しかけて、失われているはずの記憶の先にある“いつも”を無意識に引っ張り出してきていることに困惑する。
「ねぇ、リズちゃん。あたしは昨日から先の記憶がないはずなのに、あんたと親しかった気がするんだ」
「私も、以前から知っているような気がするんです」
初対面のはずなのに、懐かしい。そんな不思議な感情のまま、また明日会いましょうと言ってマーサと別れた。
リビングの椅子に座り、読みかけの本を開くと夕暮れになるまで読み続けた。
暗くなってきたら本を閉じ、パンを食べ、ベッドに向かう。昨日よりも早い睡魔の到来に、逆らわずにまぶたを閉じる。
規則正しい寝息にかぶさるように、外で何か重たいものが落ちる。昨日よりも大きな音は、リズの家全体を揺らした。窓がビリビリと震え、砂埃が巻き上がる。
本棚に差していた本が一冊飛び出し床に落ちたが、リズは目覚めなかった。
翌朝も同じ時間に目覚めたリズは、パンの誘惑を振り切って外に飛び出すと、隣家の前に立った。見慣れたオレンジ色の屋根に、緑色の扉、銀色のドアノブ。花壇にはヒ背をそろえたヒマワリが咲き誇っている。
扉が開き、真っ白な髪の老女が姿を現した。リズは、彼女のことをよく知っていた。
「おはようございます、ロジーさん。今日も良い天気ですね」
「おはようリズ。今日も綺麗な青空ね」
リズの意思を無視して、口が勝手に挨拶をする。一方のロジーも、彼女の意思とは関係なく挨拶を返していたようだ。柔和な笑顔が凍り付き、眉間にしわが寄る。
空は青を三滴たらしたような乳白色で、綺麗な青空と言うにはほど遠い色だった。
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