元恋人の蜘蛛 その後
あれから元恋人の蜘蛛は、主に鶏肉(たまにエビ)を食べながら、二十五度の温かい部屋で冬を越した。
俺も馬鹿でかい暗黒生命体との共同生活に慣れ、ちょっと良いガラスの水槽を買ってやったり、テラリウムの真似事をしてせっかく植えた苔類をほじくり返されたり水入れを埋められたりしながら、つつがなく日々を送っていた。
それでも、元恋人の蜘蛛と俺が生きるであろうこの先の二十年を思うとどうしようもなくなる日もあり、SNSで恋人探しに耽る時もあった――自分ではなく、蜘蛛の。
俺の主観かもしれないが、空腹の時以外は尻ばかりこちらに向けて人間と暮らしている蜘蛛が、何だか孤独に思える瞬間があった。なけなしの緑の残る広めの水槽で、無言で(当たり前)、餌を食い、気まぐれに土を掘り返し……伴侶とか、子供とか、少しくらい生きる時を同じくする同種の存在があっても良いのではないかと思えた。
そうして、やっと電気代の落ち着く季節になり、元恋人の蜘蛛にも春が訪れそうな気配。SNSで同種のメスを探していた変わった感性をお持ちの方(蜘蛛を飼ってる奴を俺はそう呼んでいる)と、会うことになった。
◇
「やる気、ないんですかね」
アホほどでかい蜘蛛のオスを連れてきたその男は、同じ水槽の中で固まったままの二匹を見て言った。
元恋人の蜘蛛は自分の水槽にしぶしぶ入ってきた侵入者に尻を向け微動だにせず、絵の具の筆に追い立てられてやってきた方も壁に張り付いて早くも「帰りたい」の意を表していた。
相手のオスが襲われた時に仲裁に入れるようにデカいピンセットを装備したまま、俺は、みたいですね、と相槌を打った。
「ああ、こら、戻りなさい」
懐かしい感じのする茶色いトーンの髪の男は、壁を登り出した自分の蜘蛛を筆で止めようとする。
「相性の問題かもしれませんし、今日はやめておきますか」
提案しつつ、俺は何の気なしにガラスにへばりついた蜘蛛の裏側を見た。「ん?」
「割れ目がある……」
「え?」
「この子、メスです」
「嘘や!!」関西の訛りで、男は叫んだ。
「あいつはオスや言うたのに!!」
◇
そいつ、俺の元同居人が置いてった蜘蛛なんです。
蜘蛛恐怖症を克服するとか言うて突然デカい蜘蛛を持って帰ってくるような、あいつはそんな突飛な奴やった。
俺は、「無理して嫌いな奴と住む必要ないやろ」って言うた。そしたら「石の上にも何とやらやろ、こいつオスやから後三年くらいの辛抱や」って……生き物を何やと思てんねん、ってその時はちょっと怒りました。
でも、そいつは二年で出てった。無理して嫌いな奴と住む必要ないやろ、って、微妙に笑って。
……蜘蛛って、交接したらオスが食われるんでしょ。いっそ食われてまえ、って思た。俺、実家に帰るんです。二人分の家賃、払われへんから。家族みんな虫嫌いやし、連れて帰られへんから……ほんまに、生き物を何やと思てんやろ……
――俺は、関西弁の男の蜘蛛(♀)を引き取った。男は、何度もお礼を言ってから改札をくぐり、振り返ることなく、そのまま実家に帰っていった。いつも餌は何をやっているか、聞き忘れたことに別れてから気がついた。
帰り道、俺はスーパーに寄ってササミをカゴに入れた。ふと食べたくなり、ついでに手羽先の唐揚げも買った。
家に帰って部屋の明かりをつけると、元恋人の蜘蛛が水槽の壁に張り付き、隣のプラカップの中で縮こまる新しい住人に自分の裏側を見せつけていた。
俺は少しだけ笑う。春が来たのに、俺の日常は変わらない。
――ただ、蜘蛛が増えただけ。
元恋人の蜘蛛 仲原鬱間 @everyday_genki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます