きょとん

@TheYellowCrayon

第1話 昨日の夢

「あなたはね、本当は何がしたいの?」


使い古されたような質問を彼女が口にした時、僕は落胆に加え不快感すら感じた。ここは郊外の商業ビルに構える神経外科の診察室。有名ではないが、かつてのツレが通い詰めていた病院だった。


目的がわからないからここにいる。率直にそう答えてしまっていいのだろうか。


「目的がわからないからここいいる、って言いたいところよね」


沈黙する僕の額に浮かび上がった文字を、担当医の女性は読み取ったらしい。さらさらな黒髪を後ろで纏めた姿は、シュッとした白衣と雰囲気が重なる。白い肌に細い筆をひいたようなしなやかな瞳。綺麗な女性ではあるが、対面して間もない今、彼女から色気までは感じ取れない。


「色んな人から誤解を受けそうですよね」


彼女は僕の内面を分析している。分析しながら語ってくれるということらしい。


「そうですか。誤解って、どんな風に?」


「無愛想で無頓着、無感情、無関心、上の空…」


僕は唾を飲んだ。彼女はそのまま続ける。


「でも実際はとても感性、感受性共に豊かで、他人への関心も深い。また、常に周囲の人間のことが意識から離れない」


無言で頷いた。


「どうしてかしらね」


「どうしてなんでしょう」


変わり者だから、感覚がズレてる、不器用、一極集中型人間などなど、それらしい説明はいくらでも思い浮かんでくる。しかし僕は彼女の答えを待った。


「あなたは今日診察を終えてここを出る時に、どんな気持ちで帰りたいですか?」


彼女は新たな質問を重ねてきた。僕はできるだけ落ち着いて答えたい。話しているうちに、すでに自分の中の何かが掘り起こされていくような気分になっていたのだ。


「そうですね。僕は、、、」


多少は言葉をまとめて丁寧に伝えたい。


「落ち着いた気持ちで帰りたいですね」


「ええ」


彼女は頷いて僕を見つめたまま動かない。詳細を欲しているのだ。


「最近、気分が落ち着かないことが多いんです。そわそわするという感じですね。それに加えて、なんだかあんまり感動しなくなってる気がして…。これはきっと、何かを我慢し過ぎているのか、あるいは何かに気付けていないのかもしれないと思ったんです」


「気付けていない」


彼女は僕の台詞にアンダーラインを引くように、言葉を重ねた。


「そう思うのね」


「ええ、きっとそうかと」


僕が不器用に答えると、彼女は視線を下ろして太腿の上に置いたカルテにボールペンを走らせた。


「何かわかりましたか?」


僕は思い切って尋ねてみた。


「ふふ、そうね。大まかには見えてきたのかもしれない。あなたは比較的素直に話してくださる患者さんなので、診察のステップが早く進みそうです」


「そうですか」


思い当たる節がない。そして彼女の落ち着き払った微笑みを初めて見たとき、少々の色気を感じた。そして彼女は続ける。


「あなたは『気付いていない』と仰ったわね。私から言わせれば、『思い出せない』がより適当かもしれないわ」


「思い出せない…」


「そう。あなたが記入してくれたこの部分だけど」


「それは…」


彼女がカルテの一枚をバインダーから外してこちらに手渡してきた。これは初診の患者が必ず記入するという、最近見た夢の詳細についてだった。


「とても詳細でかつ分かりやすいと思いました。丁寧にご記入いただきありがとうございます」


「いえ…」


それは昨夜見た夢だった。夢を毎晩のように見る体質の僕は、特に不気味で長く感じられた昨夜の夢を可能な限り詳細に書き連ねることにしたのだった。診察に訪れた午後4時の時点で、すでに忘れてしまった場面も多いのだが。


「広い駅の中を歩いていた。それから周りの床が崩れ落ちて、あなたは広い駅構内に取り残されたような思いがした」


「ええ、でも床が音を立てて崩れ落ちたんじゃなくて、気付いたら無くなってた感じです。いつのまにか遠くの視界がぼんやりとして、まるで深い溝に囲まれたような、暗闇に囲まれたような状態になってしまうんです。そして僕はただ1人駅の広いターミナルに佇んでいる」


「あなたは1人になったと気付いた時、何か感情に変化がありましたか?例えば恐怖であったり、寂しさからくる不安、あるいは、、」


例えを順番に挙げてくれる女医を遮って、僕ははっきりと答えた。


「安心感ですね」


「え?」


彼女は少し驚いたようだ。


「安心というか、気持ちがほぐれる感じ。やっぱりそうだったんだなっていう感じ」


感じ感じ、と繰り返しながら僕はピンとくる言葉に行き着いた。


「懐かしい感じ。これが一番近いかも。普段起きてる時に感じる懐かしいという感情とはまた違う、夢特有の懐かしさみたいな感覚。なんでそんな風に感じるのかはよくわかりませんが…」


「この場でその感覚を語って聞かせてくれているあなたは、今その感覚を実感できますか?」


「ええ、もちろん」


「夢特有と仰った感情に?」


「ええ」


「あなたは完全に孤立して闇に包まれたと悟った瞬間、懐かしさに近いものを感じて安堵している」


彼女は再びカルテにペンを走らせる。僕の心は、昨夜訪れた無人の駅のターミナルでの経験を鮮明に再生していた。心が安らいでいる。昨夜以上に安らいでいる。なぜだろうか。それはきっと、目の前の女医と共有しているから…


「もしかしたら、あなたがそう感じていた瞬間が最もあなた自身の心が夢に反映された瞬間なのかもしれないわ」


「なるほど」


「あなたは自分が不安に苛まれている理由に本当は気付いているのかもしれない。夢の中のこの場面をもう少し掘り下げてもいいかしら?」


「ええ」


「周りにはどんなものがあったの?駅のターミナルだとしたら、自動販売機でもチケット売り場でもなんでもいいわ。おしえて」


女医が例示したようなアイテムは見た覚えがなかった。少なくとも今の記憶にとどまっているあの景色は、白いタイル張りの床が果てしなく続くフロア。そしてコンクリートの柱と天井からぶら下がる暖色の灯火が、列を成して並んでいるだけだった。


「そう、、。ではあなた自身はどうだったのかしら、服装は?」


自分自身について注目したことはなかったので、この問いかけは新鮮だった。しかし、着ていた服装は不思議なほど鮮明に覚えていた。


「制服」


「制服?それは」


「学校の制服だよ。白いカッターシャツに黒いパンツ。サイズがちょっとキツい。あれは高校時代に制服だと思う。ブレザーを脱ぎ捨てた姿だね」


はっきりとその服を着ていたという記憶はない。しかし、その服装以外あり得ないという確信が何故かあった。


「どうして高校時代の制服を着ていたの?」


「わからない…。ただ、あの場ではあの服がちょうど良かった気がするんです」


僕は語りながら鳥肌が立ってきた。あの駅がこの現実世界に押し寄せてくるような実感に恐怖を覚えたのだ。あれはまるで無限ループの中にいるような、気が遠くなるほど広い駅だったのだから。


その時、女医は改めて僕の目を見つめてきた。


「あなたの高校時代について、少し伺ってもいいかしら?」


「ええ」


僕は何を聞かれるのだろうかと身構えた。学校名か、生徒数か、通っていた部活での思い出か。しかしそんなことには彼女は無関心で、僕自身が学校で最も孤独であった時期について掘り下げようとしてきた。


「入学間もない頃、あなたはどんなクラスメイトと話をすることが多かったかしら?」


「満遍なく…ですね。仲がいい子も悪い子もいない。無難な関係が少しずつ作られていたかな」


「あなたはその関係性に安堵していたのかしら」


安堵という言葉を彼女が使ったのはこれで二度目だ。さっきまでの夢の話と繋げたいのだろうか。


「いえ、不満でした」


僕は明確に答えた。すでに僕の心中は、思春期真っ最中に抱え込んだ満たされない思いを再生していた。


「何に不満だったの?」


僕は当時の心境を振り返る。無難な挨拶とトークだけで過ぎてゆく日々。クラスメイトとの関係性が変わることを恐れて心を開けない不甲斐なさに悩まされたり、学校生活での相応しい立ち振る舞いに意識が集中して疲れてしまう日々。あの頃の僕は何を求めていたのだろうか。今と同じで、本当に求めているものを自分の中に持っていたのではないか。それは一体…


「もう1人の自分」


自然と口から出てきた。


「もう1人の自分と出会いたかった。色んな境遇を分かち合える存在。顔や姿は違っても、心は重なり合うところがある存在がいて欲しかった。しょうもないトークや他人のゴシップなんてどうでもいいから、そんな緩衝材なしでちょっとしたボヤきですら共有し合える友人が欲しかったんだ」


「なるほどね」


ずっと僕を見つめていた彼女はやっと口を開いた。


「そういう友達には出会えたの?」


「いなかったよ。見つけられなかった」


「仲のいい友達は何人かいたんだ。毎日昼飯も休み時間も一緒に遊ぶ友達がね。でも、自分の中で抱え込む気持ちを無視する毎日が辛かった。そんな心情を共有できる人間と出会えればどんなにいいかと思ってたよ。でも、それって高望みしすぎというか、現実的ではないかもしれないけどね」


「心を開く相手がそばに居てほしいと思うのはとてもナチュラルなことだと思うわよ」


「そう言っていただけると」


「でもね、」


彼女は僕を遮った。


「あなたが求めてたのはそんなものではない気がする。単に仲良しの友達が欲しいのであれば、『もう1人の自分』だなんて表現にはならない気がするわ。それこそが、私があなたから聞きたかった内容かもしれないわね」


「ほんとですか」


「ええ、あなたはきっと自我を拡張したいんだわ。自分という立ち場や主張などではなく、自我そのものを他人と共有したいのよ。そこがあなたの本質に迫るところなのかもしれない」


僕は言葉を失った。僕自身の願望が、もはや当たり前過ぎて忘れ去っていた願望が、目の前の女にたった一言で説明されてしまったと思ったのだ。さらに女は続ける。


「でも自我を他人と共有するなんて現実的じゃない。あなたのこれまでの経験がそう囁く。それが広い駅の構内で孤立するあなた。自分自身を探してもがいてみるけど、結局自分なんてどこにもいないと気付いて駅に佇むあなた」


僕は再び鳥肌に覆われていた。


「自我を抱えるのはあなたという存在以外あり得ない。そう悟る瞬間と、駅にあなた一人しかいないとわかる瞬間はきっとリンクしてるんだわ」


僕はその時、きっと抜け殻のような表情で彼女を見つめていたのかもしれない。


「夢はね、自分自身の投影なのよ」

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