5 - 真衣
夢。
夜の遊園地。アトラクションの鮮やかなライトがあたりを明るく照らしている。私は誰か、たぶん私の好きな人に手を引かれて観覧車に乗り込んだ。高いところは苦手だけど、その人と一緒なら乗りたいと思えた。ゴンドラが高くあがり、遊園地と、その向こうにある街の夜景が見下ろせるようになり、その人は歓声をあげる。跳ねるように私の隣に移ってきて、綺麗だね、と言いながら微笑む。
この人は、誰だっけ。
顔がよく思い出せない。知っている人だったはずなのに、見覚えが無い。
次に感じるのは、違和感。どこかの部屋で寝ている。けど、いつも使っている煎餅みたいな敷布団じゃなくて、ふかふかのベッドと掛け布団。私の好みじゃない白色のシーツ。慣れていない柔らかめの枕。甘い花の香り。ここ、私の部屋じゃない。
「あきもと、さん」
無意識に名前を口にして、自分の声で目を覚ます。
布団から顔を出して、カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めた。電気がついていないワンルーム。ローテーブルの上は惣菜のごみと空き缶が隅にきちんとまとめて片づけられている。
「秋本さん?」
もう一度、今度ははっきりと呼びかける。返事はない。トイレやキッチンにも人の気配は無い。
先にお店に行ったのかな。ぼんやりと考える。
昨日のことはもちろん夢じゃなくて、ここで二人で飲んだことも、ベッドの上で起こったことも、全部、本当のこと、のはず。
秋本さん、怒ってるかな。私がしたこと、言ったこと、しなかったこと。普通に嫌われてもおかしくない行動。
どんな顔をして接するべきか……不安に駆られるのと同時に、玄関の鍵ががちゃりと開く音がした。続いてドアが開く音がして、廊下を歩く足音、そして、秋本さんが部屋の中に入ってくる。
「先輩。起きました?」
まるで昨日のことなんて何ひとつ覚えていないかのような笑顔だった。私はさっと起き上がって、ベッドから足を出す。
「ほんっとごめん、寝落ちしてた」
「いえいえ、私もそのまま寝ちゃってましたし。朝ごはん買ってきましたよ」
そう言ってコンビニの袋から、インスタントみそ汁のカップが二つと、おにぎりが四つほど取り出される。
「お金、後で渡すから」
「いいですよ。先輩の寝顔写真ゲットしたので、それで」
「は、え、何それ、いつの間に? 聞いてないけど」
「今言いましたから。お湯沸かしますね」
悪戯っぽく笑った秋本さんは立ち上がって電気ケトルを手に取った。非常に気になる発言だったけど、追及するタイミングを逃してしまった私は、ベッドから降りてローテーブルの前に座り、とりあえずカップみそ汁のフィルムを外していく。
「オーナーには電話しておきました。二人とも少し遅れるって」
「あの店、私たち居ないと開けれないんじゃない」
「ええ、だから今日はオープン遅らせるかーって言ってましたよ」
「自由すぎるでしょ」
少し間があって、秋本さんはくすりと笑った。
「何?」
「いえ、先輩、やっと喋ってくれるようになったなーって思って」
面と向かってそう言われると、逆に喋りすぎているように思えて恥ずかしくなり、つい黙り込んでしまう。でも、昨日のアルコールでぐちゃぐちゃになっていた感じとは違って、今は心の関所がちゃんと働いている、と思う。それでも、秋本さんに対しては、自然と制限が緩くなったというか、言いたいことをきちんと言えているような、そんな気持ちがする。
秋本さんは鼻歌交じりにインスタントみそ汁にお湯を入れて、ひとつを私の前に置いた。私が長ねぎ、秋本さんのは秋なす。秋本さんは茄子が好きなのかもしれない。
いただきます、と二人で手を合わせたあと、同時にみそ汁をすする。
「秋本さん、その、昨日のこと」
私が切り出すと、秋本さんは明太子のおにぎりを取ろうと伸ばしかけていた手を止めた。
「ごめんなさい。本当に。自分のわがままをぶつけて、困らせたし、秋本さんのこと、すごく傷つけたと思う」
「いえ。私も思わせぶりなことばっかりしてしまったので、お互い様です」
すみませんでした、と秋本さんが頭を下げる。私も合わせて頭を下げる。頭を上げたら目が合って、同時に笑い合って、さっきよりは緊張が解けた空気の中、おにぎりを手に取った。
「それに、先輩のせいじゃないですから」
おにぎりを頬張りながら秋本さんが言う。
「先輩は、普通に生きてきただけ。誰かと出会って、別れて、また出会って、今、ここにいる。正解とか間違いとかはなくて、先輩らしく生きている、それだけなんです。だから、先輩は悪くないです」
優しい声色なのにはっきりとした口調の言葉が、思わず私の心に刺さってじわりと熱を持つ。ただ、生きているだけ。私にも、そして自分自身にも言い聞かせるかのような言葉。ありがとう、と言うのも変な気がするし、かといって何か言葉を添えると余計な一言になってしまいそうで、私はただ、うん、とだけ返事した。
「そういえば、昨日も言いましたけど」
さらに秋本さんが言葉を切り出す。
「真衣でいいです。というか、真衣って呼んでください」
心の中で一度、声を出さずに呼んでみる。真衣。やっぱり、呼び慣れない。たぶん、私はこの子を真衣と呼んだことは無い。だけど、昨日までに比べたら真衣と呼ぶことの抵抗が薄れていて、今なら声に出して呼べる気がした。
「真衣」
その名前を口にすると、真衣はくすぐったそうに笑いながら、はい、と返事をした。
五年ぶりの約束をようやく果たせて、ほっとする。
「先輩も、悠月さんって呼んでいいですか」
少し考えて、言おうかどうか迷ったけど、伝えてみる。
「むしろ、そう呼んでくれると嬉しい、かな」
私が言うと、真衣は心底幸せそうに口角を上げて、悠月さん、と声を出した。少しくすぐったいけど、幸せそうな真衣を見たら言って良かったと心から思えた。
私はおにぎりをひとつ食べ終えて、もうひとつ聞いておきたかったことを聞く。
「あとさ、あれは、本気、なんだよね」
あれ、が真衣の昨日の告白を指していると伝わったらしい。真衣は急に顔を赤くしてうつむき、髪の毛先を指でいじった。
「私がそんな嘘をつけるように見えますか?」
「見えない」
「ですよね」
耳まで赤くして、それでも顔を上げた真衣は私をまっすぐ見つめて懇願した。
「でも、答えはいらないです。というか、今はまだ答えないでください。わがままでごめんなさい」
それもそうだ。あの状況でのあれを告白と言ってしまうのはさすがに可哀想だろう。私も無理やり言わせたようなところがあったし、お互いにお酒が入ってよくわからない状況だったから。それに、私は告白されるシチュエーションとか雰囲気とか別にどうでもいいと思っているタイプだけど、お酒に酔ってベッドの上で告白してセックス未遂しました、というのはさすがにちょっと恥ずかしい。
「じゃあ、ノーカン、みたいな?」
「うー……でも、それはそれで、ちょっとくやしいというか」
「ふむ」
真衣は腕を組んで、うーんと数秒ほど考え込む。それから何か答えが得られたのか、真衣は姿勢を正して私とまっすぐ向き合った。
「じゃあ、改まってこう言うのも変ですけど」
その真剣さに、私も手を止めてじっと向き合う。ほんの少しだけ、心が緊張する。
「私と、まずは友達から始めませんか?」
てっきりまた告白されるのかと思ったら、予想外の言葉だった。あまりにも大真面目な顔でそんなことを言うから、私は思わず吹き出してしまう。自分の言動の可笑しさをわかっていないらしい真衣が、不思議そうな顔で私を見た。
「真面目すぎるでしょ。今どきわざわざ友達になろうなんて言う人いないよ」
「だ、だって! 昨日までは先輩と後輩だったじゃないですか。だから、今日からはお友達がいいな、って」
「なるほどね。一理ある」
真依は恥ずかしげに、けれども期待に満ちた眼差しで、私の答えを待った。
「いいよ。っていうか、もう友達でしょ」
私が言うと、真衣は幸せそうに目を細めた。まだ一日が始まって数時間も経っていないのに、真衣は何度も何度も、幸せそうに笑った。こんなに幸せそうに笑う人を、私は久しぶりに見た気がする。
そんな真衣につられて、私の口角も自然と上がる。今はまだぎこちないかもしれないけど、私も真衣と同じ幸せを感じながら、こうやって何度も自然に笑える日がまた来るのだろうか。そんな微かな希望を抱いてみたりする。
「さ、そろそろ行かなきゃ。私、いったん家帰りたいし」
「私もシャワー浴びないと」
「ごめんね、長々とお邪魔して。片付けもまともにしてないし」
「いえいえ、お気になさらず」
さすがにこれ以上遅くなると、今日一日カフェが臨時休業することになりかねない。飲み終わったみそ汁のカップとおにぎりのフィルムを二人でかき集めて、コンビニ袋の中にせっせと突っ込む。私は鞄を手にして、お邪魔しました、と玄関へ向かい靴の中に足を入れた。
「あっ、悠月さん、ひとつだけ! 私、行きたいところがあるんです」
靴を履いて、ドアノブに手をかけたところで真衣が言った。
「どこ?」
「水族館、品川にある。今特別なショーのイベントやってるんですよ」
「あそこ、普通の水族館だよ」
言ってから、一瞬「しまった」と思った。これは心の関所で止めるべき台詞だったのでは? 素直に「いいね、行こう」と言えないのが私の悪いところだ。
「普通だからいいんじゃないですか」
それでも真衣は、なぜか楽しそうな声色で答えた。そういうものかな、と思いつつ、ひとまずは「そんなこと言わないで」と怒られなかったことに安堵する。それに、真衣と水族館デートをするのは案外楽しいかもしれない。もしかして、私が水族館好きなの知ってるのかな。思い返せば、まだまだ真衣と話し足りないこともたくさんある。だから、返事は決まってる。
「まあね。じゃあ次の定休日でどう? 来週水曜」
「本当ですかっ? 約束ですよ!」
「もちろん、楽しみにしてる。じゃ、またあとで」
どうせ一時間もすればすぐにまたカフェで会うのに、真依はドアを開けて顔を出し、私が階段を降り始めるまで手を振って見送ってくれた。
小走りで駅の改札を抜け、出発寸前の電車にぎりぎり駆け込んで、忘れないうちにスマホを取り出して予定表アプリを開く。
一瞬、いつもの癖で数か月前の予定を見そうになり、指を止める。もう過去の予定を見る必要はない。少なくとも、これから、真衣と一緒にいるしばらくのうちは。
来週の水曜日をタップして、新しい予定を作成する。
「真衣、水族館」
ラベルの色は、橙色にすることにした。
季節は廻り ななゆき @7snowrin
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