4 - 正しい選択

 秋本さんはじっと俯いたまま黙り込む。耳まで赤くなっているのは、お酒のせいか、あるいは恥ずかしがっているのか。

「ずっと、大学で出会ったときから、すきでした、ずっと」

 ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれ落ちてくる。

「最初にライブでせんぱいを見た時、かっこいいなって。すてきだなって思って、優しくて、なんでも教えてくれて、ますます好きになっていって、今でも好きだなって、思うんです」

「そうなんだ」

 そのどの言葉も、私の心には全く届いていない。リビングで誰も見ていないのに意味も無くついているテレビみたいに、音が耳に入ってくるだけでその内容にまで意識が向かないような、そんな感覚。

「せんぱいのことが、すきで、でも恋人が、鈴木さんがいたから、わたしはあきらめたんです。それから誰にも恋ができなくて、わたしは」

 純情だなあ。それは私がとうの昔に失くしてしまったもので、羨ましさすら覚える。私には持っていないものを、持っていない過去を、秋本さんは持っている。

 私も好きだな、と感じた。これは別に恋とかそういう綺麗なものじゃなくて、ただこの人になら自分の身体も、心も、命も、すべてを預けてもいいと思える。そういう好き。私の中の一定の基準をクリアしています、みたいな。

「じゃあさ、慰めてよ、私のこと」

 私の言葉に、秋本さんが顔を上げる。

「セックスしよ」

「えっ?」

 聞き間違えたと思ったのか、秋本さんは目を見開いて聞き返した。

「慣れてるでしょ。何人も好きな人とやってるんだから。私の身体、好きにしていいし、というか、好き勝手してほしい」

「えっ、と、あの、先輩?」

「っていうか、そのつもりだったんでしょ。私が女と付き合うの知ってたくせに、最初から家に行きたいとか、二人で宅飲みとか。明奈と別れたこと知って、実は嬉しかったんじゃないの?」

「そんな、ことは」

 秋本さんが目を逸らす。私を傷つけないように言葉を飲み込んでいる表情。つまり、内心嬉しかったわけだ。そりゃそうだ。好きだった人がフリーになって目の前に現れたわけだから。

 素直すぎる。この子は絶対に嘘をつくことができな性格だ。

 困惑する秋本さんの手首をつかんで、手のひらを私の頬にぴたりと合わせる。

「ほら、触って」

 暖かくて柔らかい秋本さんの手のひらが私の頬を撫でる。そうやって少し触れあうだけで、身体じゅうが熱を持って震えた。

「せ、せんぱい、いいんですか? ほんとうに?」

「ここまできてダメなんて言わない」

 座っているのが急にしんどくなって、ベッドの上に倒れ込む。綺麗に整えられた薄い水色のベッドに皺が寄って、甘い花の香りの中に体が沈んでいく。

 もう二度と起き上がれないな、と思った。

 秋本さんは私に背を向けたまま、だけど横目で私を見下ろしている。

「ほら」

 秋本さんのぐいと手を引く。秋本さんは抵抗せずに四つん這いになってこちらに向き直り、私の上に馬乗りになった。

 その視線は宙をさまよっている。真面目な秋本さんは、きっとまだ正解を探しているのだろう。正解なんてもうどこにも無いのに。むしろ、秋本さんは最初から完全に間違えていた。私に告白したことも、私を家に誘ったことも、私と話したいと思ったことも、私と同じ場所で働き始めたことも、再会してしまったことも、ベースを選んだことも、サークルで出会ったことも、全部間違っていた。秋本さんが間違った選択肢を選び続けたから、こんなことになっているんだ。

「何してもいいから」

 そう言って目を瞑り、上向きになって喉を差し出す。秋本さんが息を吞む音がする。

 何も聞いてこない。本当にいいんですか、怒りませんか、後悔しませんか。声にならない疑問が、震えた秋本さんの手から感じられる。何を聞かれたところで、私は「いいから」としか言わないけど。

 そう長くない間が空いて、秋本さんがゆっくりと私に覆いかぶさった。首筋に秋本さんの唇が触れる。柔らかい。このまま吸血鬼のように噛みついて、体中の血液を一滴残らず吸い尽くしてほしい。そんな想像に身震いする。

「はやく」

 早くしてよ。焦らすのとかいらないから。

 次の瞬間。

 秋本さんは、正しい選択をした。

「……ダメ、です」

 秋本さんはそう呟いて、私の肩に顔を埋める。毛先が首筋を撫でてくすぐったい。

「ダメって?」

「ダメです。できません」

「なんで? どうして? 好きなんでしょ、私のこと」

「好きです。でも、違うんです。私は、こんな……」

 泣きそうな声で秋本さんが言う。

「壊してよ」

「ダメです」

「滅茶苦茶にしてよ」

「嫌です」

「どうしてっ!」

 秋本さんの身体がぴくりと跳ねた。それでも、秋本さんは頑なに、私を抱きしめたまま、それ以上のことは何もしてこようとはしなかった。

「先輩のことが、すきなんです」

「だから、んぐっ」

 突然、口を左手で抑えられる。溢れ出そうとしていた私の言葉が、秋本さんの手によって堰き止められた。秋本さんは体を起こして、私を真上から見下ろす。さらさらと流れ落ちてくる髪の毛からは、甘い花の香りがした。

「すき、だから、いやなんです」

 丸くて大きな瞳が左右を泳ぎ、目尻から溢れた涙が私の頬にぽたぽたと当たる。

 正解の言葉を探している。二度と間違えないように、慎重に、言葉を選んでいる。

「大好きだから、壊したくない」

 秋本さんが目をぎゅっと瞑るたびに、涙が雨のように立て続けに降ってきた。綺麗に整えられた眉毛はハの字になり、眉間に大きな皺が寄っていた。その困り果てた表情ですら可愛いく見えるのが、ずるかった。

「それに、私には、できません」

 秋本さんが私の口元から手を離し、目元をごしごしと拭く。マスカラがぽろぽろと取れて手の甲にくっついていた。私はさっきまで吐き出そうと思っていた言葉を見失って、ただ秋本さんの言葉に耳を傾けていた。

「今の私には、まだ、先輩の心の穴を埋めることは、できない」

 もう一度、私と秋本さんの身体が重なる。今度は秋本さんから、優しく、私の頬に両手が重ねられる。

「埋められない。先輩と、鈴木さんの五年間を。私がいなかった五年間を。過ぎてしまった時間を、先輩の心に空いた大きな穴を埋めることは、まだ、できません。今はまだ、足りないんです。私には、何もかも、足りない」

 無意識に秋本さんの手に自分の手を重ねていた。あたたかい。心の中の何か冷たいものが溶けていく感じがする。私の目元、秋本さんの手と私の手の隙間が、目薬を差した時みたいに濡れる。もしかして、と思って目元を拭ってみた。私の涙だ。

「ごめんなさい、先輩」

「なんで謝るの」

「本当にごめんなさい」

「なんで」

 秋本さんが肩を震わせる。

「謝るのは私のほうじゃん」

「いいえ、悪いのは私です」

「情けない。みっともない。可愛い後輩のことをきれいさっぱり忘れてた、最低の先輩」

「そんなことないです。私には、最高の先輩です」

 急に体から力が抜けていく。まどろみの中へ沈んでいく途中、不意に思い出す。

 夏の新入生ライブのあとの打ち上げで、私の隣に座っていたのは秋本さんだった。結構なペースで飲んでいて、いかに私の演奏が素晴らしいか、そしていかにベースを教えるのが上手いかを力説してくれてたっけ。

――真衣って呼んでくださいよー!

 そうだ。秋本真衣。あの時、私は秋本さんにそう言われたんだ。

 もし、あの時、私が真衣って呼んでいたら。私が卒業してからも連絡を取り合って、時々会って話したり、遊びに行っていたりしたら。あるいは、私が明奈と付き合わずに、秋本さんと付き合っていたとしたら。

 もしかしたら、それが正解だったんだろうか。そうしたら、こんなに大きな心の穴なんて生まれなくて、可愛い後輩にひどいことをして傷つけて、二人で泣き合う必要もなくて、今ごろ、この子と一緒に手をつないで、幸せに過ごしていたんだろうか。

 あの打ち上げの時、私、結局なんて答えたっけ。

――ベース、もっと上手くなったらね

 ああ、そうだった。

 この子がベースを続けている理由。やっと思い出した。

 秋本さんの肩越しに、ちらりと部屋の隅の黄色いベースに目をやる。

「最高の先輩です、あの頃からずっと」

 少なくとも、この子だけはずっと、この子にとっての正解を選び続けてきていた。

 ただ、それだけだった。

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