3 - 壊す

「うーん、先輩が卒業した後のことっていうと……」

 それから秋本さんが話してくれた内容は、はじめの方は正直大して面白みはないものだった。ベースとサークルでのバンド活動はもちろん続けていたし、学業でも(はじめて知ったけど文学部だったらしい)良い同級生に恵まれて、大きなトラブルや悩みも無く過ごせていたらしい。三年生から就職活動を視野に入れてインターンに参加したりして、四年生になって就職活動を始めるのと同じくらいにサークルを引退し、無事に人材関係の大手サービス業に就職が決まる。まじめな子がまじめに大学に通って、まじめに就職している、というような印象。

 そして、私が一番聞きたいところに時系列が近づいてくる。

「就職はしたんだ」

 私が聞くと、缶を持つ秋本さんの指元がぴくりと震えた。

「はい」

 次の言葉をしばらく待つ。そんなに辛い思いをしてまで話されても後味が悪い。無理して話さなくても、と止めようかと思ったところで、秋本さんはぐいと缶をあおり、深呼吸のように深く、長く息を吐いた。

「私、自分が知らないうちに頑張りすぎちゃってたみたいなんです」

 缶の飲み口を指でなぞりながら、秋本さんはゆっくりと言葉を紡ぐ。

「自分が良かれと思ってやったことが、ことごとく空回るというか。正しいことをしたつもりが、そうじゃないって怒られて、じゃあもっと正しくしようと思って行動したら、それも違って、また怒られて」

 ああ、簡単に想像できるな、と思った。

 この数週間で、秋本さんの人柄はよく理解できた。素直で前向きで、常に正しい選択をしようとする。そして、その選択を簡単に曲げることができない。というより、他に選択肢があるということに気付けない。

 先週、常連のお客様がメニューに無いオーダーをしていた時、秋本さんは困った様子で「それはメニューに無いので」と何度も拒否していた。優しいお客様だったし、事態に気付いた私がすぐに取り次いだ(その人のためにオーナーがいつも特別に作っているナポリタンだった)から事なきを得なかったものの、時と場合によっては人を怒らせるようなこともあるだろう。

 学生の頃にも無かったっけ。たしか、新入生同士ではじめてのバンドを組んだ時。ギター担当の子が楽譜通りに弾いてくれなくて好き勝手なアドリブを入れてくるって相談してきたの、たしか秋本さんだった。秋本さんは市販のバンドスコアを丁寧に読んで、忠実に、その通りに演奏するタイプ。もちろん、バンド演奏は楽譜通り正確に演奏するものではないし、かといって一人が好き勝手やっていいわけでもない。そういう意味で、そこに正解は無い。

 秋本さんは何も間違っていない。普通はメニューに無いオーダーなんて取れないし、それを断ることは何もおかしくない。楽譜に無い音を奏でる必要があるかと言われれば、無い。彼女の選択も、行動も、すべて正しい。だからこそ、その問題に気付くのも、直すのも難しい。

「どこで間違えたんでしょうね。何をやってもうまくいかなくなって」

 私はなんとなく聞いていて心地が悪くなり、唐揚げに箸を伸ばした。

「結局、身体を壊して辞めちゃいました。今年の夏に」

「そう」

「その後は、前に話した通りです。お金が無くなりかけて、カフェに行ったらたまたま先輩がいて、それで」

 時期的に、前の会社を辞めてから数か月といったところか。秋は四年生だった大学生が卒業論文やら何やらで忙しいからと言って人手が抜けやすい時期だ。秋本さんが入れたのはタイミングが良かったのもあると思う。後からオーナーに聞いたところによると、秋本さんはオーナーが募集を出す前にお店で「人を募集してませんか」と直談判したらしい。

 秋本さんは空になった缶をローテーブルの上に置き、両手を合わせてぱんと叩いた。

「はいっ、私の話は終わりです! 次は先輩の番!」

「あー」

 正直、面倒くさいな、と一瞬思ってしまう。

「その前に、さ」

 私も空になったチューハイの缶を左右に振る。もうこのローテーブルの上に、中身が入っている缶は残っていない。その様子を見た秋本さんの顔は、心なしか少し赤くなっているように見えた。

 

 秋本さんの家の近くのコンビニで、私たちは適当な缶チューハイを五、六本買い足した。時刻は夜の八時過ぎ。静まり返りつつある住宅街を吹き抜ける風は冷たく、冬の入り口を感じる。

 まだ飲み始めて二時間ほどしか経っていないけど、意外と話し足りないような、もしくはもっと秋本さんの事を聞きたいような、でも面倒くさいような、不思議な気持ちになっている。お酒が回っているから、私の中の好奇心が大きく顔を覗かせているのかもしれない。

「私が聞きたいことは」

 少しの間があってから、秋本さんが大きめに息を吸う音が聞こえた。

「鈴木さんとは……どうなったんですか?」

 私は思わず足を止めた。少し先を歩いていた秋本さんも足を止めて、しまった、という顔でこちらを見た。

 鈴木明奈。三か月前に別れた彼女。

 そうだ。忘れていた。というか、意識していなかった。秋本さんは、私の恋愛対象が女性であること、そして明奈と付き合っていたことを知っていたんだ。明奈はサークルこそ違ったけれども、よく私のライブを見に来てくれてたし、その時にサークルのみんなにも紹介して仲良くしてもらっていたから、秋本さんが知っていてもおかしくはない。

 今にも「やっぱりいいです」と自分の発言を撤回しそうな秋本さんに、私は正直に答えることにした。

「別れた。三か月前に」

「えっ、三か月前!? ちょ、つまりついこの間までずっと続いてたってことですか?」

「そう、五年間、ずっと」

 私は腹の底からこみ上げる不快感に耐えられず、ビニール袋の中に手を伸ばしてチューハイの缶を取った。まだ冷たい缶を開けて、三分の一ほどぐいと飲み干す。そんな私の様子を気にせず、秋本さんはうつむいて歩いた。

「ショックです。あんなに仲良かったのに」

「いろいろあったのよ」

 その「いろいろ」を説明するのも面倒くさくて、私はすぐに話題を変える。

「真衣はどうなの。恋愛とか。素直で可愛いしモテそうだけど」

 思ったことがぽろりと口をついて出てくる。私の脳と口の間には心の関所があって、私が思うことの九割はこの関所で食い止められて口から出てこないようになっている。今はアルコールのせいで心の関所が壊れていて、思ったことがそのまま口から垂れ流されてしまっている。この状態になると、もはや私には自分の意志で自分の発言を止めることができない。

「私は」

 あからさまに言い淀んでいる秋本さんを見て、無意識に口角が上がってしまう。

「今は、そういうのはあんまり」

「へー。今は。じゃあ学生の頃は? 誰かと付き合ってたっけ」

「いえ、先輩が卒業するまでは、誰とも」

 秋本さんのマンションが見えてくる。

「先輩が卒業してから、五人ほどお付き合いしました。でも、全員ダメでした。大学ではなかなか出会いが無くて、マッチングアプリとか……そういうバーとかにも行ったんですけど、長く続かなくて」

 秋本さんの意外な積極性に私は驚きを隠せなかった。私はというと、もともと恋愛に積極的ではなく、明奈だって学祭でたまたま知り合ったあとに告白されてそのまま付き合っただけだから、あまり誰かと付き合うという経験を重ねたことがなかった。もっとも、その分こうして振られたダメージも大きいのだけれども。

「誰にも本気になれないです、私は、ずっと」

「……ふーん」

 もう少し踏み込んで聞いてみたい気もしたけど、面倒くささが勝って私はその話題を終わらせた。

 それから私たちはどちらとも喋らずに、二階の廊下の端、角部屋まで戻ってくる。私は半分ほど減った缶チューハイを老テーブルに置いて、一緒に買ってきた柿ピーの袋を開けた。秋本さんはベッドに座り、新しい缶チューハイを開けて口をつける。

 私もそうだけど、秋本さんも根堀り葉堀り聞いてこようとしない。

「何か他に聞くことないの?」

 私から新しい話題を考える気が起きず、適当に投げかけてみる。

「聞いてもいいんですか?」

「だって聞きたいでしょ」

 秋本さんは缶チューハイを一口飲んでから、私をじっと見つめた。

「なんで別れたんですか?」

 案外踏み込んでくるな。

「よくあるすれ違い。大学を卒業して就職したら価値観が変わってー、ってやつ」

 ここまでくればどうでもいいか。考えている以上の言葉が口から溢れてくる。

「知らないと思うけど、明奈って私よりもずっと賢いし優秀でさ、学部も主席で卒業したの。就職活動も私と違ってしっかりして、大手のコンサルに就職して、二年でチームリーダに抜擢されてんの。すごくない? 過重労働で無理してるのかと思ったら全然そんなことなくて、むしろ目をキラキラさせて楽しそうにしてんの。マネジメントがーとか、メンバーのエンゲージメントがーとか、明奈は仕事のことを嬉しそうに話してきて、私も、よかったね、すごいねって、本当に心の底からそう思って、話してた。最初はそれだけだった。それだけだったのに、それがさ、いつからかな、悠月もちゃんと働いたほうがいいと思う、とか言い出してさ」

 喉の奥が詰まってくる。吐き気にも似た感覚。我慢すると、代わりに目の奥がじんわりと熱を持ち、視界がぼやける。

「ちゃんとって、何。私だって生きていけるくらいのお金は稼いでるけど。お互いに生きたいように生きてるからいいじゃんって思ったのに、私はダメだって。二人の未来を考えるなら、きちんとしてほしい、社会経験をしてほしいって。きちんとって何なのか、私にはわかんなくて。今まで気ままに生きてきたし、これからもそのつもりだったのに、急に責任持たされるみたいな。社会経験が二人の未来につながるのも意味わかんないし。明奈が変わったのか、もともとそうだったのかも、わかんないし。明奈のことは好きだったし、二人で一緒にいられればそれで良かったのに。っていうか、それなら最初からもっとちゃんとした人と付き合えばよかったじゃん。なんで」

「先輩」

 崩壊した心の関所から垂れ流される愚痴は、秋本さんの声で止められる。秋本さんの顔を見ようとしたら、視界がぼやけて全然見えなくて、目をごしごしと拭ってみたら、ようやくティシューが差し出されていることに気付く。遠慮なく一枚もらって涙を拭いて、もう一枚もらって鼻をかむ。

「ごみばこ」

「そこです」

 手の届くところにあった、パステルブルーの小さなプラスチックバケツにくしゃくしゃのティシューを投げ捨てる。

「となり、座りませんか」

 秋本さんはベッドの空いているところを手でぽんぽんと叩いた。

 あからさまだなあ。

 秋本さんが何をしたいのか、なんとなく察してしまう。いや、それは勘違いも大いに含んでいるかもしれないけど。下心、とまでは言わなくても、何かしらの思惑を含んでいるのは間違いないと思う。

「何する気?」

「えっと……よしよしって、します」

 思ったことを口にした私に対して、秋本さんがへらへらと笑う。この子も大概、心の関所が壊れている。思惑が顔と口から溢れ出している。

 だけど、その思惑に嵌ってしまいたいと思う自分こそ、本当に馬鹿だと思う。

 立ち上がってみたら自分の意志に対してバランス感覚が言うことを聞かなくて、ふらついた足に蹴られたローテーブルががたんと音を立てた。倒れそうになった私の腕を、秋本さんの白い手が掴む。そのまま引っ張られるようにして、秋本さんの横、ぴたりと体をくっつけて、私のお尻はベッドの上にぼふんと着地した。

「せんぱい」

 秋本さんに寄りかかって頭を預けると、秋本さんは自然と私の頭を両手で撫でてくれた。シャンプーかな、いい匂いがする。

「いい匂い」

 秋本さんがくすぐったそうに笑う。

 私が普段絶対使わないような甘い花の香り。前から、お店ですれ違ったときとか、ロッカーで近くに立った時にふわりと香ることはあったけど、今はお酒のせいか、もっと濃い、脳を直接麻痺させてくるような、そんな香りに感じる。

 花の香りにおびき寄せられる虫みたい。食虫植物みたいに、そのまま食べられちゃうやつ。

「明奈とはずっと続くと思ってた。馬鹿みたいに。ううん。心の奥底で、終わるってことはわかってた。だって人はいつか死ぬんだから。いつか独りになるから。出会ったからには別れがある。頭ではわかってたつもりだったけど。心のどこかで予感はあって、でも信じたくなくて、馬鹿だよね」

 秋本さんは何も言わない。

 私は大きく息を吸って、秋本さんの香りを肺いっぱいに吸い込んだ。アルコールが回るように思考回路が麻痺して、頭がぼんやりとしてくる。

「何が悲しいのかも、もうわかんなくなってきた。明奈が私の人生の大半を占めていたから、人生自体が終わった感じ。大した友達も居なければ将来の夢も無いし、いつか独りになるその時が今やってきた、みたいな。私は一人なんだなって、思い知らされて」

「そんなこと、ないです」

 秋本さんの声に私の言葉が止められた。

 私を撫でていた両手が私をぎゅうと抱きしめる。花の香りと、少しだけ、お酒臭くて、熱い。

「せんぱいは、ひとりなんかじゃ、ないです」

 頼り気の無い声で秋本さんが言う。その妙に甘い声のせいか、私の頭の中で、かちりとスイッチが入る音がした。私自身から、目の前の人へと矛先を変えるスイッチ。

「じゃあ、秋本さんは平気なの?」

「ふぇっ?」

「そんなに何人の人と付き合って別れて、結局一人になって、辛いとか寂しいとか、思わないわけ?」

 いつもは心の中で濾過されている刺々しさを、そのまま秋本さんの胸の中に吐き出す。

「へいき、じゃ、ないです」

 私を抱きしめる秋本さんの腕に力が入る。少し痛い。このまま、私を抱き潰してくれればいいのに。

「だって、わたしは」

 秋本さんの唇から、ゆっくり、ゆっくりと言葉が紡がれる。正解を探しながら、間違えないように、慎重に言葉を選んでいる。

 そして、私は不意に、次の言葉が何なのかを悟った。いや、薄々感づいていた。

 私が働いているからという理由だけで同じところで働き始めて、やたら私と話したがって、近づいてきて、恋沙汰を気にして。

 明奈と出会った時を思い出した。

 やたらと話したがって、勝手に手を繋いだり腕を組んだりしてきて、恋人はいないのかと聞いてきて。

 勝手に告白してきて、付き合って、勝手に振って。

 そうやって他人の欲情に振り回されるのが私のなのか。

――明奈とはそんな関係でしかなかったの?

 頭のどこかから聞こえた声は、負の感情にかき消されてしまう。

「わたしは」

 今はただ、もう、なんだかどうでもよかった。

 自分に向けられる愛情を受け取る力も、誰かに向ける愛情を生み出す力も、自分が自分に向ける愛情そのものも、もうとっくに枯れ果てていて。

 願わくば、このまま、誰かの腕に抱かれた、このままで、すべてを壊して、粉々にして、最後に私を絞め殺してほしい。 

「わたしは、先輩のことが、すき、なんです」

 心臓が、どくん、と大きく脈を打つ。

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