2 - ベース

 次の日、秋本さんはオフだったのでお店には来なかった。連絡先は交換していたけど、別に連絡をとる用事も無かったので私から連絡は取らなかった。

 ところが、その日の夜になって秋本さんからショートメッセージが飛んできた。

「明日の夜、お仕事終わってから一緒に買い物して私の家に行く、でいいですよね? おつまみはお惣菜を適当に買う感じで!」

 そんなこと、当日のノリで決める人が大半だろうに、わざわざ事前に連絡してくるところが彼女らしいと思った。

「いいよ」

 我ながら素っ気ない返事だ。でも、一応は後輩なので気を使う必要もない。それに、私はわざわざ人の家でおつまみを作りたくはないし(そもそも料理をしたくない)、秋本さんの提案には全面的に賛成なので、これ以外に最適な返事は思い浮かばない。

 結局、そのあと秋本さんから「わーい」と喜ぶ羊のスタンプが送られてきて、その日のやりとりはそれきりだった。

 次の日、私たちはいつも通り同じくらいの時間に出勤した。その日はお昼時の来客が多かったけれども、秋本さんはもうすっかり慣れた様子でオーダーをさばき、料理と飲み物を運び、テキパキと働いた。私としても一から十まで指示しないといけない大学新入生のアルバイトよりもずっと気が楽で、むしろ私の方が秋本さんに助けられたことも何度かあった。

 一日の終わり、一通りの片づけを終えたあと、オーナーに挨拶をしてから秋本さんと一緒にスタッフルームで着替える。と言っても、私はいつも私服の上にエプロンを付けているだけなので、エプロンを外せばすぐに帰れる状態になる。一方で、秋本さんはわざわざ着ていた服を脱いで、小ぎれいなベージュ色のワンピースに着替えていた。

「ほら、せっかくの先輩との飲みですから!」

 どうやら秋本さんにとって、今日の宅飲みは私が思っていたよりもビッグイベントらしい。

 買い物は秋本さんの家の近くにあるスーパーに行くことにした。いつもは手を振って秋本さんを見送っている駅で、そのまま改札を一緒に通り抜け、同じ電車に一緒に乗り込むのは、何ひとつ変わらない最近の日常から一歩抜け出したようで新鮮だった。

 普通電車で一駅。とくに大きな駅でもなく、ぱっと見の印象はお店の最寄り駅と変わらない。秋本さんの後ろに続いて、初めて降りる駅の改札を通り、東出口と書かれた方から表通りへ出る。秋本さんの言っていたスーパーは、駅から歩いて五分ほどのところにあった。

「あんまり安くは無いんですけど、家が近くで便利なので」

 秋本さんは慣れた様子で買い物かごをカートに乗せて、野菜や肉、魚を売っているコーナーを素通りし、惣菜売り場へと直行する。

「けっこう美味しいんですよ、ここのお惣菜」

 そう言って、秋本さんは小鯵の南蛮漬け、茄子の煮びたし、蓮根のピリ辛炒めを躊躇なく買い物かごに入れていった。このチョイスで大体秋本さんの好みがわかったので、私も遠慮せずに肉団子、手羽中の甘辛煮、唐揚げを入れる。

「先輩、お魚好きです?」

 秋本さんはぶりの照り焼きが入ったパックを私に見せた。別に好きではないけれども、食べなくはない。

「食べる」

 私がそう言うと、にこりと笑った秋本さんはそのパックを買い物かごの中へ入れた。

 一通り惣菜を選び終わった後、私は缶ビールとレモンサワーを、秋本さんは軽めのぶどうサワーと桃の缶チューハイを手にしてからレジを通った。私が先輩だから出すと言っても秋本さんはかたくなに譲らず、結局割り勘することにした。

 大きめのレジ袋の中で、缶チューハイがからんころんとぶつかる音を聞きながら、夜の住宅街を十分ほど歩く。「あれです」と秋本さんが指さしたのは、とくに何の特徴も無い、どこでも見るような、こぢんまりとした三階建てのマンションだった。入り口はオートロックになっていて、開錠した秋本さんに続いて中に入り、階段を二階まで登って、廊下の端まで進む。

「角部屋なんだ」

「そうなんです。いいでしょう」

 ドアのカギを開けて、秋本さんが中へ招き入れてくれた。

「どうぞ。あまり広くありませんが」

「お邪魔しまーす」

 秋本さんの言う通り、玄関はとても狭い。とはいえ、うちの玄関と大差は無い。一人暮らしのワンルームとなるとこんなものだろう。黒いパンプスを脱いだ秋本さんに続いて、私も靴を脱ぐ。入ってすぐ、短い廊下の左手には小さなキッチンがあって、右手には恐らくバスルームとトイレと思しき扉がある。これもワンルームとしてはよくある作りだ。

 廊下の奥に進むと、秋本さんが生活している洋室がある。部屋の真ん中には大きなカーペットの上にローテーブルが置かれ、壁際にベッドと小さな本棚が置いてあるだけのシンプルな部屋。強いて言えば、本棚の横にはベーススタンドがあって、きちんと手入れされた黄色いベースが鎮座している。

 カーペットやベッドは水色や白色を基調とした明るめの雰囲気で、私にとってはちょっと落ち着かない色合いだった。

「座っててください、私準備するので」

「ううん、手伝う手伝う」

 手伝う、というよりそもそも準備といっても、やることはスーパーの袋からお惣菜を出して、蓋を開けたり取ったりするだけ。その間に秋本さんは二人分の割りばしと、取り分けるための小皿を持ってきてくれた。ただのお惣菜パーティだけど、普段一人では食べないし買わない量のおかずに豪勢さを感じ、少しだけテンションが上がる。

 私はビールの缶を、秋本さんはブドウサワーの缶を開けて、二人で小さな乾杯をした。

「お疲れ様」

「お疲れ様です!」

 秋本さんは両手で缶を持ち、すごく幸せそうな顔でこくこくと喉を鳴らしながらお酒を飲んだ。その様子がなんだか可愛らしくて、私は思わず見惚れてしまう。

「大学生に戻ったみたいですね」

 言われてみれば、こういう飲みは大学を卒業してから久しくしていなかった気がする。学生時代の友達は、知らない間に結婚したり子供を産んだりして、気付いたらだんだんと連絡を取らなくなり、かといって今のバイト先でそんなに親しい友達ができるわけもなく、気が付いたら明奈としか遊んだりご飯を食べに行ったりしなくなっていた。

 明奈。その名前は、今、私の思考の過程で自然と出てきた。

 そして次の瞬間、ほんの数か月前までの彼女との思い出がとめどなくフラッシュバックしそうになり、開け放たれた記憶の扉を私は慌てて閉めて思い切り押さえつける。

 忘れろ。いま思い出すな。言い聞かせる。

「ベース」

 とにかく何か喋っていないと彼女のことを思い出してしまいそうで、私はとっさに部屋の隅に置かれているベースの話題に触れた。実際、この部屋に入った時からずっと気になってはいた。

「今も触ってるの?」

「ときどき。バンドはしてないですけどね」

 茄子の煮びたしをほおばっていた秋本さんは、小皿をローテーブルに置いて立ち上がり、おもむろにベースを持ち上げた。部屋のライトが反射すると細かい傷やへこみが見え、かなり使いこんでいることがわかる。

「大学の頃のとは違うよね」

「サークルを引退する前に一回だけ買い換えたんです。ずっと続けたいな、と思って」

 秋本さんはベッドに座り、弾き語りをする姿勢で膝にベースを置き、簡単なコードを指で弾いた。二人だけの部屋の中、アンプにもつないでいないベースの控えめな低音と弦がフィンガーボードに触れる微かな金属音が、この小さな部屋を満たす。

 懐かしい。

 この音とベースを抱える秋本さんを見て、唐突に思い出した。

 秋本さんたち新入生がサークルに入ってきてから、最初に自分が担当する楽器を決めるイベント。もちろん経験者だったり予め決めてから入ってくる子もいるけど、秋本さんみたいな全くの未経験な新入生たちは、先輩の楽器を借りて実際に触りながら、どの楽器をやりたいか決めることになっていた。

「ベース、やってみる?」

 秋本さんにベースを貸したのは私だ。最初の自己紹介でベース希望って言ってたことを私は覚えていて、声をかけた。

「いいんですか!?」

 私の予想を超えて喜んだ秋本さんは、いざ私のベースを目の前にすると急に緊張した顔つきで震えていた。私はストラップをできるだけ短めにして、椅子に座っている秋本さんの膝にベースを乗せた。

「大丈夫、ここ持って、支えてるから。ストラップはこうやってかけて、ここを膝に抱える、これで落ちないから。左手はまずは軽く支えるだけでいいよ、弦は触らない。右手の人差し指と中指で弦を弾く、そう」

 手取り足取り教えた結果、秋本さんは「ベースを持ち、とりあえず音を出す」という未経験にしては十分な目標を達成した。これは私の持論だけど、楽器には向き不向き、というより、似合っているか似合っていないか、があると思う。秋本さんには、ベースがよく似合っていた。

「いいね」

「指が痛いです」

 秋本さんは少しだけ緊張がほどけた様子で笑っていた。

 なんで忘れていたんだろう。いや、無理もない。忘れるだけの年月が経ったし、実際その間に誰かに話したり自分で思い出そうとする機会なんて一度も無かった。そうやって思い出されなかった記憶は、どんどん忘れられていく。むしろ、今こうやって秋本さんのことを少しずつ思い出せていることが奇跡に近い。

 私の記憶の中の秋本さんと違って、目の前の秋本さんは満足したのか使い慣れたベースを軽々しく持ち上げて、私のほうに差し出した。

「先輩の演奏も久しぶりに聞きたいです」

「えっ、無理無理、もう弾き方忘れたよ」

「じゃあ弾いてる姿だけでもいいので!」

 可愛い後輩の頼みを無下にもできず、私は缶ビールをローテーブルに置いてベースを受け取る。重たい。ベースってこんなに重たかったっけ。ちょっと姿勢を正して、膝の上に置いて指のポジションを確かめる。頭ではなく体で覚えているのか、いざ手にすると簡単なコードのポジションであれば自然と押さえられる。飲食業だから爪を短くしてるのもあるし、ベース本体もよく手入れされているからか弾きやすい。チューニングも合ってる。

 しばらく触りつつ、大好きで何度も練習していた曲のコード進行を、探り探り思い出しながら弾く。まだ音楽にはなっていないのに、秋本さんは頬杖をついてうっとりと幸せそうな様子で私を見ていた。

「私、新歓ライブで先輩の演奏を見てあのサークルに入ったんですよ」

「うん。弾き方教えたよね、ベースの」

「今も触ってるんですか?」

 私も大方満足して、秋本さんにベースを返す。弦と本体を布で拭く秋本さんの姿に、私は少しだけ羨ましい気持ちがした。

「……売っちゃった」

「えっ!? あれ結構いいベースじゃありませんでした? たしかフェンダーの」

「うん、五弦のね」

「そんな、もったいない」

 ベースをスタンドに戻した秋本さんはローテーブルに戻ってきて、私と向かい合って座る。

「卒業してから、お金に困ったことがあって。それで」

「あー……」

 秋本さんはそこで言葉を止めて、それ以上何も言わなかった。私もそれ以上詳しいことを話そうとは思わず、缶ビールを飲み干した。秋本さんもぶどうサワーをあおって、しばらく無言の時間が続く。

 なんとなく、まだそこまで深掘りするタイミングじゃない、とお互いに察していた。

 秋本さんがどう思っているかは知らないけど、少なくとも私たちは数年以上ぶりに再会した大学の先輩と後輩、というだけで、別にそれ以上の共通点は無い。強いて言えば今は同じ職場で働いているけど。でも、秋本さんはまだうちに来て三週間。来週からふらっと来なくなってもおかしくないし、何ならこの場で怪しい新興宗教とか勧められる可能性だってある。

 だからこそ、私たちはこうやってお酒の力を借りながら、自分の心と相手の心の距離感を手探りで探している。

「秋本さん」

「真衣でいいですよ」

 秋本さんが言う。

 真衣。私は学生時代に、彼女のことをそう呼んでいたのだろうか。まだそこまで思い出せない。

「聞いてもいい? 真衣のこと」

 それは言ってしまえば、ただの好奇心だった。秋本さんには失礼だと思ったけど、それでもここまで来て聞かないのも違う気がした。秋本さんと仲良くなりたいのかと言われると、まだその気持ちにも確信が持てない。でも、興味本位であれ、あるいは友達としても、秋本さんのことをもっと知りたいのは本当だった。

 あるいは、もしかしたら、私は今ぽっかりと心に空いている穴を秋本さんで埋めようとしている?

 最低だ。自分で自分の思考が気持ち悪くなり、頭の中で必死に払いのける。

 秋本さんは優しく笑いながら、二本目の缶チューハイの蓋を開けた。

「じゃあ、話し終わったら先輩のことも教えてください」

 そう言って、私のほうへ缶を差し出す。

 まあ私の話なんて別に面白くもなんともないだろうけど。そう思いながらも、私もレモンサワーの蓋を開けて、秋本さんの缶に合わせて、二度目の乾杯をした。

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