季節は廻り
ななゆき
1 - 再会
なんとなく見覚えがあるな、とは思った。
水色のワイシャツと黒ズボン、その上に真新しい紺色のエプロンを着けた彼女は、オーナーに促されてお辞儀をする。
「秋本真衣です。よろしくお願いします」
彼女の挨拶にあわせて、私も頭を下げた。
「香坂です」
私が言うと、彼女はにこりと愛想良く口角をあげる。
午前九時過ぎ、開店前のカフェは窓の外から朝日を受けてきらきらと輝き、店の前を歩く人たちで時々影ができる。毎日見慣れた光景。そんな景色の中でいつもと違う、見慣れない新人。新しい人を迎えるのは初めてのことじゃない。けど、この人だけは、確実に私よりは年下に見えるけど、いつも来るそのあたりの大学生とは少し違う雰囲気が漂っていた。
「今日はお客さんも少ないだろうから、香坂さん、教えてあげて」
「はい」
オーナーはそれだけ言って、店の奥の事務所へと引っ込んでいった。後に残った秋本さんは、メモ帳とペンを両手に、前のめり気味で私のほうを見る。
「こういうカフェ、っていうか飲食のバイト、はじめて?」
「はい、初めてです」
「ん」
予想通りの回答。今までの新人に対する経験から、彼女に教えるべき内容のレベルを補正する。新人に仕事を教えるのははじめてじゃない。もう七回目か八回目くらいになると思う。大体の人が大学生だから、大学を卒業したら辞めていってしまうけど。
「じゃあ、まずは食器の場所から」
「はいっ!」
秋本さんの健気な返事は、どこか懐かしい響きがした。
午前中、基本的なことを教えたあと、ランチタイムが始まる前に私たちは早めの昼休憩をとる。秋本さんはオーナーが作った手作りサンドイッチを幸せそうにほおばったあと、ホットのアールグレイを飲みながら私に尋ねた。
「先輩、覚えてます? 私のこと」
その言葉に、私は飲もうとしていたアイスコーヒーのストローから口を離した。
「え、っと」
目の前に座って愛想よく笑う新人バイトの顔をもう一度見て、記憶を遡る。
秋本真衣。なんとなく聞き覚えはある。私自身はあまりその名前を呼んだことがないけれども、誰かが彼女の名前をよく呼んでいた。そんなに昔じゃない、恐らく大学生の頃。でも、絶対に同級生じゃない。ということは、大学で違う学年の子と交流できる場なんて、ひとつしかない。
「軽音サークル?」
私が半分疑問形で聞くと、秋本さんは一瞬嬉しそうに口角をあげたが、すぐにわざとらしく頬を膨らませた。
「覚えてませんね、その感じ」
「あー……ベースしてた、よね」
「正解です」
そう、たしか三つ年下の後輩。私が四年生だったころに入ってきた新入生だ。私と同じベースをしていた子だから、おぼろげながらも印象に残っている。四年生は夏頃になると自主的にサークルを引退するから、その年に入ってきた新入生とはせいぜい数ヶ月程度しか接する期間がない。新入生もたいてい二年生とか三年生のほうが年が近く仲良くなりやすい。私だって、自分が一年生だったころの四年生の先輩なんてほとんど覚えていない。
これらは全部言い訳だけど、とにかく、私が引退した年に入ってきた新入生の顔や名前なんて、ほとんど覚えていない。というか、五年も前の記憶を今こうして思い出せていることがまず奇跡に近い。
「私がはじめてライブした時、ベース上手いって褒めてくれたじゃないですか」
「褒めた、いや、顔は覚えてる、気がする。ごめん、名前は完全に忘れてた」
最初のライブ。新入生が主役の初夏のライブだろうか。たしかに、他の子に比べて少しだけ抜きん出てベースが上手い子がいた。五年前の記憶を呼び起こして、目の前の彼女と照らし合わせる。もちろん同じ顔。だけど、あの頃よりも髪が短い気がする。
「髪、もっと長くなかった?」
私が聞くと、彼女は少しいじらしげに顔をうつむけて答えた。
「切ったんですよ、先輩が卒業した時に」
「え、どゆこと?」
「さあ?」
しらを切った彼女が、マグカップに残っていたアールグレイを飲み干す。
「そろそろ休憩終わりじゃないですか?」
「別にお客さん来ないからまだいいけど」
「お客様が来るまでに教えてほしいことがたくさんありますよ、先輩」
真面目。そうだ、学生の頃の彼女も真面目だった。なんか似たようなやりとりを、サークルにいた時にもしたような気がする。
グラスにまだ半分残っていたアイスコーヒーを、私はストローで一気に吸い上げた。
「はい。じゃあ次はテーブルの位置とメニューね、これ覚えないと仕事にならないから」
「はい」
「あと食洗機も。練習でこれ洗おっか」
「わかりました!」
私が言うことすべてに、秋本さんは元気よくハキハキと返事する。私よりも先にカウンターからトレーを取り、私たちが飲み終えたカップと食器を手際よく片付け始めた。
こんなにやる気のある新人と接するのは久しぶりだった。というか、そもそもそんなに新人がたくさん来るわけじゃない。大通りから外れた路地にある、あまり人気が無い個人経営のカフェ。基本的にオーナーと私がメインで回していて、他にはサブでもう一人か二人を採用しているような状況で、大抵入ってくるのは時間を持て余している大学生か、ちょっと繋ぎで働きたいフリーターだ。オーナーが直接面接をするから変な人が入ってくるわけではないけど、そんなにやる気に満ち溢れた人が来るわけでもない。そもそも、そんなに優秀な人はこんなところで働かなくても、活躍できる場所が他にもっとある。
秋本さんだってそうだ。彼女はやる気があるだけじゃなく、物覚えが早い。思い返してみると、大学のサークルでもそうだった気がする。同じ楽器未経験で入ってきたとしても、物覚えが早くてメキメキ上達する子と、なかなか要領を得ずに途中であきらめてしまう子がいる。秋本さんは前者だった。
秋本さんは最初の一週間で基本的な仕事の内容を完璧に覚えて、次の週には客の来店から支払いまで、簡単なルーティンであれば難なくこなせるレベルになっていた。それからさらに一週間、つまり彼女が入ってきてから三週目にもなると、数か月働いた大学生とほぼ同レベルにまで仕事をこなすようになっていた。正直、そのへんの大学生やフリーターよりよっぽど使える。
彼女のシフトの組み方は私とほぼ同じで、定休日を含めて週に一日か二日休む以外は、開店から閉店までフルで入れていた。といっても、このカフェは午前十一時に開いて午後五時にはさっさと閉めてしまうので、拘束時間としてはそこまで長くない。
そんなわけで、お店を出るタイミングが秋本さんと重なることも多くなり、私たちは気づいたら毎日一緒に帰るようになっていた。私はお店から歩いて十分ほどのところに住んでいる一方、秋本さんは電車で一駅らしく、ほんの少しだけ遠回りになるけど、駅まで秋本さんを見送ってから家に帰るのが日課になっていた。
「先輩、どうしてあのお店で働いてるんです? あっ、就職的な意味じゃなくて、このあたり、他にもいろいろ飲食店あるのになって」
並んで歩きながら、秋本さんが話す。秋本さんは私に対して気兼ねなく接してくるのに対して、私はまだはっきりと彼女のことを思い出せたわけではなく、距離感を掴みかねていた。
「家が近いから……あと、雰囲気良いし」
「わかります。シックな感じで落ち着きますよね、あのお店」
「変なお客さんも来ないしね」
「うんうん。オーナーもすごく良い人で安心しました」
お店から駅までは歩いてほんの五分ほど。人通りの多い大通りに出て、こちらへ向かって歩いてくる人混みを避けながら、私たちは並んで、時々縦一列になって、また並んで歩く。
「秋本さんは、なんであの店?」
私が聞くと、秋本さんはにこりと嬉しそうにこちらを見た。
「先輩が居たから」
「えっ」
「私、あのカフェ行ったことあるんです。そしたら、お店もとっても気に入ったんですけど、先輩が働いてるのを見つけて、一緒に働きたいなーって思って」
どう反応するべきか、私は迷った。私、この子にそんなに好かれてたっけ。秋本さんと話すたびに何度も大学時代のことを思い出そうとするけど、正直まだそんなに多くのことは浮かんでこない。とくに、彼女との関係性のところが全く思い出せない。思い出せないということは、そんなに交流は無かったと思うんだけど。
それに、卒業してから秋本さんと連絡を取ったことはないし、その後に秋本さんがどんな進路を選んだのかを知る由もない。
「就職、しなかったの?」
私が聞くと、秋本さんは一瞬表情を曇らせたあと、うーん、と言葉を探した。しまった、と思い、私は慌てて言う。
「いや、言いたくないなら言わなくていい、ごめん」
「あっ、違うんです。えっと、話すと長くなっちゃうなーって」
駅の出入口から中へ入り、見慣れた改札口の前へ進む。自動改札機が四、五台設置されていて、コンビニが併設されている、どこにでもある小さめの駅。それでも利用客は多いほうで、スーツや小ぎれいなワンピースを着た人たちが、次から次へと足早に改札口を出入りしていく。そんな中、私たちは改札口の前で立ち止まっていた。
「私、先輩の家に行ってみたいです」
秋本さんの突然の提案に、私は、え、と驚きの声を漏らしてしまう。
「宅飲みしましょう、宅飲み、学生みたいに」
「待って、うちは無理、めちゃくちゃ散らかってる」
「じゃあ、私の家でもいいですよ、どうですか?」
「あー、えっと」
めんどくさいな、という気持ちが半分。秋本さんの話を聞いてみたい、という気持ちが残り半分。それは単純に好奇心というか、興味がある。私が卒業したあとのサークルのこととか、就職活動のこととか。もっと言うと、秋本さんがこんなところにいる本当の理由とか。私と秋本さんの大学時代のこと、とか。
「……いいよ、いつにする?」
「やった! じゃあ、明後日の仕事終わりでどうです?」
急だな、と思いつつ、今の私には大したプライベートの予定も無いので、予定表を見なくても承諾できる。
「明後日ね」
「はいっ、あ、電車来ちゃう! ありがとうございます、先輩っ」
早口に言いながら、秋本さんは笑顔でぶんぶんと私に手を振って、瞬く間に改札の向こう、人混みの中へと消えていった。私は手を振り返すタイミングを逃して、しばらく一人でぽつんと佇んだ後、踵を返し、駅を出る。
しばらく歩いたところで、私はスマートフォンのカレンダーアプリを立ち上げた。
いたるところに灰色のタグで「バイト」と、赤色のタグで「定休日」としか入力されていない、殺風景な予定表。数か月前までは、桃色や黄色のタグで色づけていた恋人との予定で彩られていたはずなのに。もちろん、今そのページを見る気はしなくて、私は迷いなく明後日の日付を選択する。
「秋本さん」と入力して、予定の色は、水色にすることにした。
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