狼の冬

 まず最初に、美味しそうなシチューの匂い。次にコトコトと鍋の蓋が揺れる音と、それに混じって聞こえる心地良い歌声の旋律。私の身体は暖かい毛布に包まれ、眼前にはどうやら煌々と燃える暖炉の光がある。


「こんばんは、お隣さん」


 いつかも聞いた言葉。

 けれどあの時にはなかった深い安堵を帯びた言葉が背後から―――ずっと近くから聞こえる。振り返れば声の主の少女が、泣き笑いのような顔を浮かべて立っていた。

 この辺りではあまり見ない紺色の髪と、気を失う前にも見て記憶に焼き付いている綺麗な蒼い双眸。少しけた頬と、浅く刻まれた隈に伝うのは涙の跡。


「リーヴ……?」

「……ッ」


 朦朧としたまま私が名前を呼ぶと、顔をくしゃりと歪ませ、堪えきれなくなったようにがばっ、と抱き着いてくる。暖房により暖まった部屋で、けれど凍えているかのように震えるリーヴとその呼吸が、私をきつく抱く華奢な腕から伝わってくる。


「私が来なかったら、死んでたんですよ……っ! それなのにあなたは!」


 涙に濡れた慟哭どうこくだった。

 この少女がただの『お隣さん』でしかない私に対してどうしてここまで過剰な反応を見せるのかはいまだ不明だが、今はこう言うべきだろう。


「ありがとう、助けてくれて」

「ぅ……もう、もう嫌なんですよ……っ、誰かが、目の前で、つめたくなるのは……っ!」


 『誰かが目の前で冷たくなる』。

 リーヴの言葉に見え隠れしていた異様な感情の根源はそれなのだろうか。


 私はいいから。

 自分が言った言葉を思い出す。ただリーヴの無事を祈って、私が掠れた声で必死に絞り出した言葉だ。聞こえなかったのかと思ったが、もしかしたらそんな言葉を、彼女は過去にも聞いていたのかもしれない。その言葉を吐いた人間がどうなるかも知っていたからこそ、命を顧みずに私を助けに来たのかもしれない。


「ほんとうに、ごめん」


 ただの推察に過ぎない一瞬の思考だが、それが間違いではないと、リーヴのただならぬ激情の気配は告げている気がした。


✢✢✢


 リーヴが泣き止んだとき、暖炉に燃えていた薪炎しんえんはすっかり勢いを衰えさせ、高温を示して赤く染まった薪がぱちぱちと音を立てるのみとなっていた。

 リーヴは緩慢な動作で私から体を離すと、少し頼りない足取りでキッチンから何かを運んでくる。改めてよく見れば、髪と同じ紺のエプロンを着こなす姿はさながら―――


「……もう、何ですかその目は。食欲があるなら食べてください。もうしばらくの間、何も食べていませんから」


 まだ震えが残る声でそう言って差し出されたのは、とろとろに溶けたシチューだった。鼻孔をくすぐる美味しそうな香りが、目が覚めたばかりで眠っていた食欲と空腹感を呼び起こす。

 外の景色はもう雪に呑まれて昼夜を判別することはできないが、リーヴの言う通り私が倒れてからかなりの時間が経ったのだろう。


「……ありがとう」

「スプーン、持てますか?」

「大丈夫、一人で……あれ?」


 言われて腕を動かそうとして、反応が異様に鈍いことに気づく。腕だけではない。どうやら身体全体がほとんど動かせなくなってしまっている。


「まだ動けないのも無理はないです。だって、あなたの身体は……っ」

「いや、言わなくても大丈夫。自分でなんとなく分かってる」


 視線を下に落とせば、全体的に紫色に変じた手先と、怖いくらいの蒼白に染まった肌が毛布の隙間から覗いている。凍傷や低体温症、おおよそ低温環境下で起こる症状を詰め合わせたかのような有様だ。


「……とにかくっ、栄養を摂らないとダメです。食べさせてあげますから口開けてください」

「え」


 焦燥を帯びて有無を言わせぬ口調でスプーンを突きつけられ、思わず口を開く。

 間髪入れず舌に乗せられたシチューは、味付けこそ食べたこともないような風変わりなものだが、よく煮込まれた牛乳と肉の風味が入り混じって非常に美味だった。


「おいしい」

「……ふふっ、当たり前です。私の故郷でずっと受け継がれてきた歴史ある料理なんですよ」


 思わず呟くと、自慢そうにリーヴは笑う。

 蒼いその眼から涙の気配は引いて、ただ年頃の少女らしい可憐な笑顔が浮かんでいることにひとまず安堵する。


「故郷ってことは、やっぱりこの辺の生まれじゃないんだね」

「……気づいてたんですか」

「紺の髪は北の大陸の象徴だからね。それにこのシチューは、多分だけど最北端のヤト半島に伝わってるもの……かな?」


 そう言った私を驚いたように見る碧眼とも違う深い蒼の瞳は、恐らく血も地域も関係ない彼女自身の特徴。


「詳しいんですね。中央大陸に来てから、あの場所を私たちと同じ名で呼ぶ人には会ったことがないのに……」


 ヤト。これは現地での呼び名で、ここ中央大陸でも伝わるように言うならば開拓予定地008、という素っ気ないものになる。


 一年中雪に閉ざされた山岳地帯にして、壮大な風景が広がる知る人ぞ知る秘境……と言えば聞こえはいいが、住むには厳しすぎる環境とアクセスの悪さも相まって、人が居なくなって久しいというのがその半島の現状。

 年齢を鑑みると、リーヴがヤト半島に住んでいたのはちょうどその『人が居なくなった』時期の直前だろう。


 どうして私が正式な名前もろくに知られていない辺境の半島にここまで詳しいかと聞かれれば、その理由は単純だ。


「仕事の予定があってね。心配で色々と調べたんだ」

「仕事で……?」

「そ。私は中央大陸で開拓予定地って呼ばれてるあの半島の……担当者なんだ」


 少女の故郷と私の仕事場所が一致していたという偶然を、私が明かすと。


 は。と感情が抜け落ちて、笑いとも威圧ともとれる声で呟いて、シチューを私の口に運んでくれていたリーヴの手が止まった。

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