剣の冬
ガチャガチャ、とドアノブを回そうとする音に目が覚める。
まだ薄暗い夜明け前。更に下がった気温があれからしばらく時間が経ったことを感じさせる。昨日までクーラーを点けないと生命の危機を感じる程の暑さだったのが、今や暖房が恋しくなる肌寒さになってしまった。吐く息の白が更に濃くなったことに若干の戦慄を感じつつ、大きく伸びをして体を起こす。
そのときの微かな物音を聞き取ったのか、壁を隔てて声が飛んでくる。
「あ、起きたんですねお隣さん」
隣の部屋の少女。名をリーヴ。
私の名前も教えた筈なのだが、彼女はあくまでも私のことをお隣さん、と呼ぶつもりのようだ。どう呼ばれても構わないが、もう少し別の呼び方はなかったものか。
「おはよう。……早いな。まだろくに寝れてなくないか?」
「お隣さんはずっと寝てましたけど、実はもうすぐお昼ですよ」
「えっ」
目覚まし時計が煩かったです、と若干の呆れを含んだ追撃に、ベッドに放られたままの携帯端末を引っ掴む。表示された時間はリーヴの言った通りの正午直前で。
「今日が休みで良かった。本当に良かった」
もし平日だったら無断で仕事を休むことになっていた。心からの安堵を込めてそう呟くと、今度はドアノブをガチャガチャと鳴らしながらの返答がある。
「私があんな真夜中に起しちゃったのと、この薄暗さでは起きれないのも無理はないと思いますけどね。それに……もし今日が休みじゃなくて、お隣さんが早起きできたとして、それでも仕事に行くのは無理そうです」
そういえば、今が正午だとすると異様な暗さだ。窓の外の景色を見ても、昨晩リーヴに起された時間帯と比べて明確な明るさの変化を感じない。
更に下がった気温と、先ほどからリーヴがドアノブを弄る音から察するに、
「もしかして、ドアが開かない?」
「そういうことです。少なくとも私の力では動く気配がなくって」
下がり過ぎた気温が、ドアすら凍りつかせてしまったらしい。大した水分もないのに動かせなくなる程の硬い氷とは、いよいよただの異常気象の域を外れてきたように感じる。
気温が下がり続けたらいよいよ部屋に閉じ込められることになるかもしれない。その前に食料なり水なりを買い込むためにもドアには開いてもらわないと困る。
「よし、私もやってみるよ」
「開いたら私のほうのドアもお願いしますね」
はいよ、と答えベッドから降りると、恐ろしいまでの冷気が肌を刺してくる。
これはもう冬着の出番だ。秋服の出番はたった今消滅した。とりあえず今は、タンスから適当に選んだ紺色のコートで凌ぐことにする。
「ふんっ」
「どうですか? 開きますか?」
「ダメそ……いや、今ちょっとだけ氷が割れる音がした。どうにかなるかも」
全体重をドアに預けて押していると、少しずつだが手応えがある。
「ファイトです……!」
リーヴの応援も受けて、押し続けること数秒間。ぱきぱきと音が聞こえたと思ったら、一気に抵抗がなくなりすんなりドアは開いた。部屋の気温とは比にならない冷気が流れ込んできて、思わず自分の体を抱いてしまう。
あまりに寒いので、一度ドアを閉じてからリーヴに報告する。
「開いたよ」
「……! では私のほうも」
「いや……ちょっと想像以上に寒いね。そっちのドアも開けるけど、リーヴは出ない方がいいかも」
「……そこまで寒いんですか?」
「体感してみれば分かると思うよ」
ドアを開けた瞬間流れ込んできたほんの少しの空気だけで、肌寒いとはいえまだ耐えられる寒さだった気温が、冷凍庫に放り込まれたのかと錯覚する程に下がってしまった。
こんな極寒の中をまだ年端もいかぬ少女に歩かせるのは危険だ。まだ半信半疑な様子のリーヴにこの極寒の危険さを伝えるべく、もう一度ドアを開けて外に一歩を踏み出して、
✢✢✢
右半身が冷たい。感覚もない。呼吸が苦しい。息をする度にかひゅ、と掠れた笛のような音が鳴ってしまう。感覚があるほうの体が痛い。壁と床が近い。私は横向きに倒れている?
「お隣さん!?」
切迫したリーヴの声もどこか遠く聞こえる。何が起こった? 外に出た瞬間から記憶が途切れている。とにかく外はダメだと伝えないと。まだドアは開いていない
「がはッ、リーヴ、外に出ちゃダメ。やっぱりこれ、普通の寒さじゃ……ごほッ」
「……ッ”!」
声にならない声が、どうしてだか壁越しに聞こえた気がした。そしてそのまま部屋の中に駆け戻るドタバタとした足音。
「待っててください……!」
酷く焦った声。こちらに来る気だ。
部屋から出ないで。そう伝えようとしても既に声も出せなくなってきた。
「ダめ、リーヴ、……げほッ、私はいいから……」
「―――! ぐぅ……開いてッ!」
絞りだした声もどうやら届いていない。返事の代わりにドアに体をぶつける鈍い音と、痛みを堪える呻き声が何度も何度も聞こえてくる。
やめてくれ。どうして昨晩見知った私にそこまでするんだ。少しでも外に出ればリーヴまでこの謎の現象の餌食になってしまうというのに。
ひときわ大きな音が鳴って、リーヴの部屋のドアが開く。一拍遅れてばしゃ、と水音がしたと思ったら、彼女はもう私の部屋の中に体を滑り込ませていた。暗転しかけて狭まった私の視界に映ったのは、蒼い光を湛えた双眸だけだったが。
「お隣さん……!」
情けないことに、震えたその声が何よりも暖かく感じた。
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