教えてあげたい

幸まる

その痕は何?

領主館の厨房では、午後の短い休憩時間を返上して、女料理人のオルガが生地を捏ねていた。

彼女はベーカリー担当の料理人だ。


明日の夜は、領主の知人を招いての晩餐会が予定されている。

何の予定もない普段の仕込みに比べると、五倍強の量だ。

流石にこの量になると、一人では賄えない。

いつもサポートする若い料理人に加えて、料理人見習いも手伝いに回る。


下働きのエルナとサシャも、計量や洗い物など、職人でなくても出来る仕事を付きっきりで手伝っていた。




長時間生地を捏ね続けているオルガは、初冬の冷えた空気の中でも、既に汗を搔いていた。

あまりの暑さに、普段なら着崩すことのない調理服も、今日ばかりは最上段のボタンを外して首元を開く。


きれいに水気を拭いた、ひと抱え程もある大きなボウルを運んできたサシャは、オルガの作業台の向かいにそれを置いた。

そして、ふと目線を上げた先に見えたに、小さく首を傾げる。


「オルガさん、そこ、虫に刺されたんですか?」

「え? 虫?」


顔を上げたオルガに、サシャは不思議そうな表情のまま、自分の鎖骨辺りを指差した。


「はい、ここ赤くなって……んんっ!」


サシャの口を、エルナが急いで粉まみれの手で塞いだ。

んん〜っ!と抗議の声を上げるサシャの目の前で、一瞬で顔を紅潮させたオルガは慌てて調理服の首元を掻き合せる。


「サシャ! ちょっとこっち!」


エルナがサシャを引っ張って通用口を出ていくと、何ごとだろうと同僚達の視線が集まる。

ボタンを留めながらオルガが咳払いした。


「何でもないから、手を止めないで」


そう言われて、皆不思議そうにしながら手元に意識を戻す。


さっき以上に汗が吹き出たオルガは、この痣を付けた料理長張本人が近くにいなかった事に安堵して、こっそり息を吐いたのだった。



 


夜、片付けも終わって静まり返った厨房で、製菓担当の料理人ハイスは、明日の晩餐会用のデザートを仕込んでいた。

彼は、静かに作業が出来るこの時間帯を好む。

そして、その作業のお供は、想い人であるサシャだ。



「今日の昼間、オルガさんのここに小さな赤い痣みたいなのがあったの。虫刺されかと思ったけど、違うんだって。何か知ってる?」


突然、サシャが自分の白い首元を指差して投げた質問に、ハイスはむせた。


「ちょっと、ハイス、大丈夫?」


側に寄って背を撫でるサシャを、口元を覆ったままでハイスは見返す。


「……それ、なんで俺に聞くの?」

「え? エルナが『今夜ハイスに聞いてみなさい』って言ったから…」


エルナめ…とハイスは心の内で舌打ちした。

サシャは栗色の瞳を真っ直ぐにこちらに向けて、キョトンとしている。



サシャは家の事情で、成人(16歳)よりもずっと前から、この館に住み込みで働き始めた。

17歳になり、身体つきはすっかり大人の女性のそれになったが、その雰囲気はどこか幼さを抱えたままだ。


良く言えば純朴。

悪く言えば、世間知らず、といったところか。


勿論、男女の関係についても、彼女には知らないことだらけなのだ。

おそらく、オルガの首元に付いていたという、その小さな痣の意味すらも知らない。



ハイスはコクリと喉を鳴らす。


サシャが好きだ。

サシャからも、『ハイスが好き』という言葉をもらった。

これからゆっくり、仲を深めたいと思っている。

二人だけの関係を、大事にしたいのだ。


……だけど。


何も知らない彼女に、早く知って欲しい。

「好き」の次にある欲求を。

そして、それを全て教えるのは自分でありたい。



「ハイス?」


気が付くと、ハイスはサシャの頬に手の平を添えていた。

指先が触れる柔らかな丸い頬が、そっと色付くのが分かって、息が詰まる。

彼女の艷やかな唇に、微かに触れるだけ顔を近付け、離すと、恥ずかしそうにサシャは下を向いた。



……かわいい。



堪らずサシャの耳元に、ハイスは呟く。


「…………サシャ、痣の意味、知りたい?」

「職場での不純異性交遊は厳禁です」

「どわああぁっっ!」


突然冷静な声が背後から降って来て、ハイスは文字通り飛び上がって振り返った。


真後ろに、背筋をピンと伸ばして立っていたのは、前領主の専属侍女ルイサだ。

長身の彼女が、ツと顎を上げると、僅かにハイスの方が高いというのに、まるで見下ろされているように感じる。


「ル、ルイサさん、ど、どうして…」

我儘わがままなご老人が、寝付けないからホットミルクを入れろと仰るの。用意して貰えるかしら?」

「ああ、分かりました……」


心臓をバクバクさせながら、ハイスは平静を装ってサシャに作業の続きを指示すると、炉の方へ向かった。



旦那領主様も奥方様も、使用人の恋愛は禁じておられないけれど、場所はわきまえた方が良いわね、ハイス」

「……仰る通りです」


ミルクを温めている横に来て、ルイサがチクリと釘を刺す。

ハイスは神妙に返事をして、心の中で自分を強く叱った。


軽率な行為でサシャを傷付けるところだっただけでなく、主人の方針に外れた行いは、ヘタをすれば使用人の解雇にも関わる。

それは、サシャの居場所を取り上げてしまうということだ……。




反省を心に刻みながら、カップにホットミルクを注いでいたハイスに、女性二人の会話が聞こえた。


「首元に小さな痣? ああ、それはキスマークでしょう」

「え、……ええっ!? こ、こんなところに?」

「そうよ。強く吸われたら、そんなあとになるの。睦み事ね」


……は!?


慌てて振り返れば、顔を赤らめたサシャが両手で口を押さえつつも、興味津々というていでルイサの話を聞いている。


「あらあら、サシャはまだまだちゃんね。大人の男女なら、そんなことは珍しくないものよ」


片眉を上げて、僅かに口角を上げたルイサが言った。

ホットミルクが出来上がった事に気付き、盆に覆いを被せると、彼女は「ありがとう」と一言残して何事もなかったかのように厨房を出て行った。



「ハイスったら、さっきそんなこと教えようとしてたの……」


掛けられた言葉にハッと振り返れば、サシャが上目に見詰めて首元を押さえた。


「えっ!? いや、ちがっ……違わないけど、違うんだっ」

「……今日はもう戻るから」


心なしか顔を赤くしたサシャが、小走りに厨房を出て行く。



仕込み途中の材料に囲まれて、一人厨房に残されたハイスは呆然とする。

鍋に残ったホットミルクの甘い香りが、憐れむように彼に添った。




《 終 》

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教えてあげたい 幸まる @karamitu

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