黒鍵と白鍵の間

ゆきのともしび

黒鍵と白鍵の間


「私、変イ長調の曲がすきなの」


紅茶を蒸らしながら、彼女は言う。


「例えば、チェルニー50番練習曲の45。

あの曲は素晴らしいわ。木漏れ日のようなはかなさと、かなしみがある」


僕は木漏れ日を想像しながら、昨日彼女が作ったりんごのケーキをかじる。


「3連符の粒が、それはトルコのブレスレットのように、糸に絡まって、目の前を通り過ぎる。そして私を撫でてくれるの。」


僕はポットの内側につく、水の粒を見つめる。


「黒鍵と白鍵の間にはね、苦しみがあるの。まるでそれは深い渓谷のような。

そこは寒くて暗くて、光がさすまでにものすごい時間がかかる。

ピアノを弾く者は、その苦しみをひとつひとつ、感じなければならない。

10本の指の先から、血を流すようにね。

そしてそれを受け取る者も、胸を切り開いて臓器をさらし、苦しみの傷をひらくのよ。」


「なんだか音楽をきくことが、ものすごくつらいことのようにきこえるよ。」


「そうよ。音楽をきくことって、つらいのよ。」



「音楽をきいて歓びを感じるためにはね、少なくとも苦しみをみっつ経験していないといけないの。それがないと、本当の歓びは感じられないの。」


「もし経験していなかったら、そのひとにとって音楽は何になるんだい?」


彼女はポットを手に取り、僕のカップに紅茶をそそぐ。


「それは.....ベッドに置いてある人形のようなものね。」



彼女は自分のカップに砂糖を入れる。

スプーンをまわし、紅茶を飲む。


午後のひかりが、窓から差し込む。

紅茶の入ったカップのふちを、小さく照らしている。


「僕はその歓びを、感じられているのかな」


彼女が僕のほうを見る。

彼女はちいさくわらう。

その目の奥に、僕はうつっていない。









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黒鍵と白鍵の間 ゆきのともしび @yukinokodayo

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