第14話 さよなら、床助
その日、俊介が部屋に戻ると、ドアが施錠されておらず、床助の姿がない。何回か呼んでみたが、応答はなかった。押し入れにある床下点検口を開いて呼んでみたが、同じだった。
<誰かがチャイムを鳴らしても、床助一人の時は、返事をしないことになっているが、何らかの理由で、ドアを開けたのだろう。そして誰かと一緒に、外に出たのかもしれない。いったい誰だろう? 未来は大学にいたしな……>
床助は、ドアの鍵を持っていない。
室内には、争った形跡など異状を示すものは何もない。しかし、俊介の心はざわついた。
<でも、今はどうすることもできないな。警察に捜索願を出すわけにもいかないし。しばらく様子を見るしかない>
よもや深山が、床助
深山は、息を切らしていた。寝袋に閉じ込めた床助は意外に重く、担いでマンションの階段を登る深山の肩に、ズッシリと食い込んだ。向かう先は、深山が住んでいるワンルームマンションの自室だ。マンションといっても、築40年くらいだから、だいぶ老朽化している。4階建てなので、エレベーターもない。
やっとのことで4階の自室にたどり着くと、すぐに床助を
<どうしたんだ? まさか、死んじまったんじゃないだろうな>
深山は床助を縛り上げていたロープを
「床助さん。着きましたよ。どうしました? 返事して下さい」
だが、返事はない。
<こりゃ、まずいぞ>
深山が寝袋のジッパーを一番下まで下げると、床助の全身が現れた。深山は、床助の体を揺すろうとして手を置いたが、すぐに引っ込めた。
<ゲッ!>
床助の体が冷たいのだ。
<おいおい。俺の大切な研究材料が、死んじまったのかよ>
深山は、床助の顔を覗き込んだ。すると突然、床助の金壺眼がカッと見開かれた。
「あっ! ビックリするなー、もー。でも、生きていて良かった。床助さん、調子はどうです?」
「良いわけがないでしょう。深山さん。私はその昔、手が付けられないワルでしたが、あなたもそれに負けないくらいのワルですな。いや、私は
「はあ。無理やりここに連れてきたことについては、本当に申し訳ないと思っています。このとおりです」
深山は、胡坐をかいたまま、床助に頭を下げた。
「では、帰らせていただきますよ」
「あ、そう。でも、それはできません。あなたは、貴重な研究材料ですからね。あなたを詳細に研究することによって、民俗学、いや、これまでの科学がひっくり返されるかもしれない。言い換えれば、人類の未来があなたにかかっているんですよ。だから、何としても、あなたにはご協力いただかねばならんのです」
「人類の進歩? 私には関係ありませんな。それに、あなたが研究されている妖怪や化け物の実在性について、私は何ら参考になりませんよ。なぜかと申しますと、私は妖怪でも化け物でもないからです。あなたの、座敷童という見立ては、とんだ見当外れだと思いますなぁ」
「あ、そう。しかし、あんたは自分で自分が何者か分かっていないんじゃないかな。少なくとも、あんたは普通の人間じゃないよね。僕は過去に一度だけ、一見するとほとんど人間と変わらないけれど、確実に人間ではないものに出会った。雪山で遭難しかけた時に僕を助けてくれた女は、人のように見えて、実は人ではなかった。しからば何だったんだ、という疑問が、それ以来ずっと僕を突き動かしている。各地の言い伝えにある「雪女」だ、などという粗雑な答えでは、到底満足できないんだよ。
雪女と出会ったのち僕は、実在する怪異を求めて、日本中を探し回ってきたが、すべて徒労に終わった。だから座敷童の床助さん、あなたはやっと出会った、二番目の怪異なんだよ。こんな機会は、いつまた巡ってくるか分からない。いや、たぶん二度とないだろう。あんたが妖怪や化け物であろうがなかろうが、本当はどちらでもいいんだ。人間でなければ、それでいいんだよ」
「ほう。ですが、妖怪の実在にそれだけの思い入れがありながら、若竹荘で初めてお会いしてから、もう1年半以上経っています。その間あなたは、時々話を聴きに来て茶菓子を食べていただけではありませんか。研究熱心なあなたが、いったい何をしていたんですか?」
<クッ。こいつめ、嫌なところを突いてきやがる。俺がアイドルの追っかけで忙しかったのを知っているのか?>
「あんたからの聴き取り内容を整理しながら、論文の構想を練っていたんだよ」
「さぞかし立派な論文ができるでしょうなぁ。それで、あなたはこれから、私に何をしようというのです?」
「まずは、あんたが人間でないことを確かめないといけない。一番確実なのは、DNA鑑定だろうね。だから、体の一部を採取させてもらうよ。素直に協力してくれれば、手荒なことはしないから、心配しなくていい。それから、なぜ200年も生き続けているのか、大空襲の炎の中で、どうして焼け死ななかったのか、手掛かりを摑みたいね」
「ずいぶん時間がかかりそうですな。私は早く若竹荘に戻らねばならないので、一つ一つ時間をかけて、やっていきましょうよ。喜んでご協力しますから」
「上手いことを言って、ここから逃げるつもりなんだろ? でも、あんたは二度と戻れないんだよ。色々な検査が終わったら、あんたはホルマリン漬けの標本になるんだからね」
「ホルマリン漬けですって? 『床助酒』でも作ろうというのですか? いかにも
「あんたの足だと、2時間はかかるかな」
本当は、徒歩10分くらいの距離だ。深山は、床助の帰りたいという意思を
「え! 2時間ですと? 深山さん、私をここに閉じ込めていると、私は遠からず消えてなくなってしまいますよ」
「消える? 見たところ、元気そうじゃないか。顔色も良いし、と言いたいところだが、色黒でよく分からんがね」
「色黒なのは生まれつきです。深山さん、若竹荘101号室の真下には、古井戸が埋まっているんです。その中に、お陸様がいらっしゃる」
「旗本の奥方だね? あんたと懇ろになったという」
「そのとおりです。私は、お陸様の強い怨念によって生かされております。その怨念の力が届く範囲は限られていて、昔に比べると、だいぶ範囲が狭くなっています。歩いて2時間もかかる所にいては、怨念の力もほとんど届かないはずです。そんな所に長くいたら、私は雲散霧消してしまいます」
「ほう」
床助を見る深山の眼の奥に、青白く燃える冷たい炎が点った。
「雲散霧消ねぇ。それは興味深いなぁ。座敷童が家から立ち退いた、という伝承はあるけれど、雲散霧消というのは聞いたことがない。雲散霧消して、あとに何が残るのかね? その分析も、面白そうだ。大きなゴミ袋があるから、あんたが消えた後のガスを、それに集めるよ。さ、床助さん。大人しく、このケージに入るんだ」
散らかった部屋の真ん中に、大人が屈んでやっと入れるくらいのケージが置いてある。
「リサイクルショップで買ってきたんだ。大型犬用のケージだけどね」
「深山さん。あなたには、情けというものがないのですか? 何回も申し上げますが、森田さんのところに帰らせて下さい」
「情け? 真理の探究のためには、ちっぽけな人情が邪魔になる場合もある。それに、あんたは人間じゃない。座敷童だ。そんな妖怪に対して、情けなぞ要らない。あんたは、俺の研究材料に過ぎんのだよ。研究に寄与することによって、あんたの命は研究成果の中で永遠に生き続けることができる。それに、俺にはもう時間がない。今年度、論文が審査を通らなければ、俺は学位が取れないまま退学だ。何としても、論文を仕上げなければならんのだよ」
「あなたは、自分のことしか考えられない、可愛そうなお人ですな。もう何も言いません。ただ、最後に
それ以降、いくら深山が話しかけても、床助は一言も発しなくなった。
<ちくしょう。無抵抗不服従戦術だな。有毒ガスの話は、
深山は、ケージの中で無言のまま端座している床助を、フィールドワークで使う一眼レフカメラで撮影した。しかし、何回撮っても、床助の姿はぼんやりとした影としか写らなかった。
<なんてこったぃ。それなら、奴が消滅した後に出るというガスを吸い集める道具でも、作るとするか>
深山は、部屋にあった掃除機の排気口に、大判のゴミ袋を取り付けて、紐で固定した。スイッチを入れて試してみたが、たちまち袋はパンパンになった。
<うまくいかねぇな。まあ、ガスが少しでも採取できれば良しとしよう>
ブツブツ言いながら、深山はケージの中に掃除機の管を差し込んで、床助を突いてみた。床助は、
<こいつめ。
翌日の午前中、俊介は駅改札口前で未来と落ち合い、再びホテルに向かった。リベンジするためだ。
「おかしいんだ。昨日若竹荘に帰ると、床助がいなかった。結局、夜も帰ってこなかった。ちょっと心配だ」
「そう。どうしたのかしらね」
今回は、緊張することもなく、未来と愛を確かめ合うことができた。
「じゃあ、行くよ」
「うん、あれ付けてね……」
未来の声が心持ち
二人は、正常位で一つになった。俊介は、未来の口や乳首を吸い、掌に余る乳房を揉みながら、腰を律動させた。未来の口から漏れる喘ぎ声が、徐々に大きくなっていった。
そして、俊介は確かに見た。左乳房の下に、仲良く寄り添うようにして並んだ赤い小さな点が二つあるのを。向かって左の方がやや大きい。床助が言っていたお陸様のホクロと同じだ。やがて、ひたひたと近づいてくる快感の波を感じながら、俊介は何度もその赤い点を見た。
二人は同時に快楽の高みに立ち、ひととき、そこに
俊介が我に返ると、未来が俊介に顔を寄せて、微笑んでいた。
「気持ち良かった」
「僕も」
二人は再び抱き合って、しばらくの間、そのままで余韻を味わった。
しばらくして、俊介は未来の体に浮かんだ赤い点を思い出した。
「あのね。アレしている時、未来の左のオッパイの下に、赤い点があるのを見たよ」
「え! 本当?」
未来は掛物を除けて、胸を出した。
「僕が見るよ。未来はオッパイが大きいから、すぐ下は見えないだろう。左の方を上げてみて」
俊介が目を凝らすと、さっきは赤く鮮やかに見えた赤い点は、だいぶ色が褪せてきている。しかし、まだじゅうぶん判別はできる。
「ホクロではないけど、確かに二つの点がある。左の方がやや大きい。スマホで撮ってみようか?」
「それより、化粧台にある手鏡を持ってきて」
俊介は、手鏡を未来に渡した。
「本当だ! うっすらと見えるね。もしかして、私がお陸様の生まれ変わりだというのは、本当かもしれない!」
「早く床助に知らせなきゃ」
「そうしよう。でも、オッパイを床助さんに見せるのはナシだよ」
「うん。僕が、見たことを話すよ。床助、若竹荘に戻っているかな」
「とにかく、行こうよ」
チェックアウト後、二人は速足で若竹荘に向かい、20分くらいで到着した。
部屋に入ると、床助が座布団の上に、ちょこなんと座っていた。
「お帰りなさいませ。お待ちしておりました」
「あれ? 昨日から姿が見えなかったけど、どこに行っていたんです?」
「いやはや。
「いったい何があったんです? 教えて下さい」
「昨日、ここを訪ねて来られた深山様に、寝袋とかいう袋に無理やり押し込められて、深山様の住処に連れて行かれたんです」
「何だって! あいつめ。最初から怪しい感じがしてたんだ。それで、何か酷いことをされたんですか?」
「いえ。でも、犬を入れる檻に閉じ込められました」
「ひどーい!」
未来が、憤った。
「未来様。ご心配下さって、有難うございます」
「深山め! 今度会ったら、ワンツーパンチを食らわしてやる。いや、それとも、僕が得意とする左フックか? それで、どうやって檻や深山の部屋から脱出したんですか?」
「深山様は、若竹荘から徒歩で2時間も離れた場所にいるとおっしゃいました。なので、私は、もはやこれまでと観念いたしました。でも、それは嘘で、歩いてせいぜい10分くらいの所でした。そのため、お陸様の怨念はほとんど弱まらずに私に届いており、それが私を守って下さったのです。檻や部屋から抜け出すなんて、私にとっては何の造作もないことでございますよ」
「それにしても、危ないところでしたね」
「はい。でも、もう大丈夫です。それより、お二人はいかがでしたか?」
「ええ。それを早く伝えたくて、走ってきました。あの、僕たち……、えー……」
「分かっております。上首尾だったのでしょう?」
「まあ、そういうことです」
未来は何も言わず、恥ずかしそうに
「ホクロ、ちゃんとあったでしょう?」
「え! なぜ分かるのですか?」
「実は、先ほどから、お陸様の怨念が薄らいできて、その代わりに、心が
「ホクロではありませんでしたが、赤い点が確かに二つ、仲良く並んでいました。左の方がやや大きい感じでした」
「これで、未来様がお陸様の生まれ変わりであることがはっきりしましたね。そして、俊介様は倅・俊介の生まれ変わり……。今日お二人は、男女の仲になられました。地面の下におられるお陸様も、さぞやお喜びでしょう」
床助は、二人に向かって正座し、畳に両手を突いた。それは、俊介が初めて床助と会った時と同じ
「お陸様は、筆舌に尽くしがたいほどの喜びを感じておられます。それに伴い、いとも長きにわたって続いてきた怨念が、急速に晴れていくのを感じます」
「そうですか! それはよかった。僕たちも、とても幸せです」
「お陸様も、お二人を祝福されておられますよ。さて、そろそろおいとまする時が来たようです」
「行ってしまうんですね。床助さんと会ってから、まだ2年しか経っていないのに、長年一緒に過ごしたような気がして、別れるのが寂しいです。でも、いよいよ床助さんがお陸様と会えるんですから、僕も嬉しいです」
二人の前に正座している床助の姿が、実際に存在する物体というより、ホログラム(立体映像)のような、どこか現実離れした感じに変化してきた。
「200年待った甲斐がありました。これも、俊介様と未来様のお陰でございます。本当に有難うございました。お二人も、末永くお幸せに……」
床助の姿は、一段と薄くなっていった。
「床助さん、いろいろありがとう!」
俊介は、薄れていく床助に届くように、声を強めた。
「あの世で、お陸様とお幸せにね!」
未来が、少し声を震わせて呼びかけた。
やがて床助の姿は、高原の朝霧のように、跡形もなく消えてしまった。
ちょうどその時、部屋のチャイムが鳴った。
「深山です、開けて下さい!」
チャイムだけでは足りないのか、ドアをドンドン叩いている。
「何事ですか? そんなに慌てて」
俊介は、ドアを開けた。部屋に入るなり、深山は顔に防毒マスクを装着した。顔を左右に動かして、部屋の中を見渡しているようだ。奥の六畳間に座っている未来を見てしゃべったが、防毒マスク越しのためか、くぐもったような声で聴き取りにくい。
「ソコニイルノハ、モシカシテ、トコスケサン?」
「は? 何言ってるんですか。この人は、若竹荘を管理している不動産会社の人です。それに何ですか、顔に着けているのは。防毒マスクのようですけど、ここには毒ガスなんてありませんよ」
深山は、防毒マスクを外した。
「プハー。おお、森田氏。実は、昨日ここに来たんだ。床助さんに、僕のマンションで詳しく話を聞きたいと言ったら、来てくれて。ところが、今日になって、いなくなっちゃった。もしかして、ここに戻っていないかと……」
「その防毒マスクは?」
「床助さんが、自分が消える時には、有毒ガスに変わるかもしれないと言うので、念のため持ってきたんだよ」
「ハハハ。床助に一杯食わされましたね。彼を無理やり連れて行くからですよ。さっき床助がすべて話してくれました。いくら研究のためでも、無理やり連れて行くなんて、酷いですよ。ハッキリ言って、僕はあなたが信用できなくなりました」
「まぁまぁ。そんなこと言わないでよ、森田氏。ちょっと手荒だったことは、反省してる。しかし、彼はどうやって俺のマンションから出られたんだろう? ケージに入れておいたんだけど」
「犬用のケージでしょ? ひどいよ!」
未来は深山の前に来て、怖い顔をして叫んだ。
「とにかく、床助はもう、この世にいません。ですから、深山さんもお引き取り下さい」
「床助さんについて、もっと教えてくださいよ、森田氏。床助さんをテーマにすれば、今度こそ学位論文が審査を通るかもしれないんだから」
「ダメです。床助を邪険にしたような人は、お断りです。それに、床助を無理やり連れて行って檻に閉じ込めるなんて、逮捕・監禁の罪ですよ」
「逮捕? 俺は刑事じゃないよ。それに、床助は人ではないから、監禁には当たらんでしょ」
「ならば、住居侵入と窃盗ですね。石川先生にも、ご報告しないといけませんね」
「あ、分かった! 床助のことは諦める。でも、石川先生には関係のないことだ。報告しなくていい。君は素直な人だと思ったけどな。人を脅すのはよくない。じゃあ、失敬」
深山は、尻に帆を掛けたように去っていった。
「何なの? あの人」
「僕にも分からん」
「もしかして、孫兵衛とかいう浪人の生まれ変わり?
「ハハハ。それじゃあ、いかにも話が出来過ぎだろう。でも、未来と僕、そして深山には、ある共通点があるね」
「あんな奴と共通点? 何?」
「3人とも、実際に怪異に出会ったことがある点。深山は雪女、未来は市松人形みたいな少女、僕は……、床助かな。そして、どれも床助と結びついている」
俊介たちは六畳間に戻った。
床助がずっと身に付けていた黒色の着物が、畳の上にある。まるで、無造作に脱ぎ棄てたかのように。僧服ともつかないその粗末な着物は、床助の存在は決して幻などではなかったとでも言いたげだ。
未来は、その服を手に取って、広げたり、前と後ろを
「あれ。
「どれ、見せて」
襟の左前寄りの部分が、右に比べて少し膨らんでいる。何かが縫い込まれているようだ。
「何か入っているのかもしれない」
俊介は、カッターナイフを使って、襟の縫い目を慎重に
――とこさまいのち りく
美しい女文字だ。
「達筆すぎて、僕にはよく読めないな」
「私に見せて。……『床様 命 陸』じゃない?」
「どれ……。うん、きっとそうだ。お陸様が、床助に贈ったものだろう。床助は、それを肌身離さず持っていたんだね。二人は、本当に深く愛し合っていたんだなぁ」
「そうね。……私、涙が出てきちゃった」
お陸様の筆跡は、流麗でありながら、どこか慎ましやかだ。
未来の眼には、その文字がひどく
《完》
床助(とこすけ) あそうぎ零(阿僧祇 零) @asougi_0
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