第13話 床助、危うし!

 私が高校生の時だった。私がいた高校には、「お城同好会」というクラブがあり、私も部員だった。

 2年生の夏休みに、親友の同級生で、同じ同好会のメンバーだった優菜ゆうなと二人で、鹿児島県を旅行した。主目的は城の見学だった。鹿児島県にはそれほど有名な城はないけれど、知覧ちらん志布志しぶし横川よこがわ頴娃えいといった、城好きにとってはなかなか興味深い城があった。

 東京に帰る前日は、ハイライトともいえる鹿児島城址を見て回った。鹿児島城は、鶴丸城つるまるじょうとも呼ばれ、城山しろやまふもとに築かれた城だ。大阪城のような天守閣はない。森田さんも知っていると思うけど、城山は西南戦争で、西郷隆盛が自刃じじんした場所だ。

 城山から雄大な桜島を眺めたりしているうちに、陽が傾いてきたので、市内の宿に歩いて戻ることにした。山から下りて、甲突川こうつきがわという川に沿った遊歩道を、その日の感想などを話しながら、そぞろ歩いていた。すると、遊歩道の少し先、川のふちに沿った柵のそばに、子供がしゃがんでいるのが見えた。近付くと、小豆あずき色をしたジャージの上下を着て、髪が肩まである女の子だ。こちらに背を向けているのではっきりしないが、小学校3年生くらいだろう。下を向いている少女の肩は、小刻みに上下している。どうやら、声を押し殺すようにして泣いているらしい。私たちは、少女のすぐ後ろまで近寄っていった。

「どうしたの? 迷子になっちゃった?」

 私は、少女の背中に向けて声をかけた。

「おうちは近いの? 送っていこうか?」

 優菜も、心配そうに呼びかけた。

 しかし、少女は返事をせず、すすり泣くばかりだ。時々肩を大きく上下させて、水っぱなすすり上げている。

「困ったね」

「交番に届けるしかないね。ちょっと待って」

 優菜は、スマホを使って近くの警察署・交番を検索した。

天文館てんもんかんの辺りに、交番があるね。すぐ近くのようだから、私、行ってくるよ」

「お願い」

 優菜は交番に向かった。すでに、辺りには夜のとばりが下りている。

「今、お巡りさんが来るからね。心配しなくていいよー」

 私は女の子の隣にしゃがんで、背中を撫で摩った。すると、女の子はピタリと泣くのを止めた。

「おとう、殺された」

 女の子は下を向いたまま、小声だが、はっきりとした声で話した。

 「殺された」という言葉に、私はドキリとした。

「え? 殺されたの? 誰が?」

「おとう、殺された」

「いつ、どこで?」

「ゆうべ。国境くにざかいで」

「国境? それはどこ?」

「……。おとう、お城に橋こしらえた。じゃから、殺された」

 私は、女の子が言っていることがまったく理解できず、頭が混乱してきた。優菜が一刻も早く警察官を連れてくるよう念じながら、待つしかなかった。

 それまでチラホラ見えていた周囲の人通りも、なぜか今は途絶えている。

「ねえ、お嬢ちゃんのお名前は?」

「おとう、石の橋拵えて、殺された」

 同じことを繰り返す少女の姿を見て、私は背筋に冷たいものを感じた。

「お嬢ちゃん。お顔見せて」

 私は、少女の両肩に手を掛けて、顔をこちらに向けさせようとした。ところが、小柄な少女なのに、びくともしない。何か尋常でないものを感じた。

「ねえ、怖くないから、お姉さんにお顔を見せて」

 そう言いながら、両手に少し力を込めた。すると、ようやく少女は私の方に顔を向けた。

「アッ!」

 私は思わず手を放し、尻餅をついてしまった。少女の顔は、日本人形の一つで、童女をかたどった市松人形そっくりなのだ。白塗りの顔はとても愛らしい。だが、能面のように表情がまったくない。ガラス細工のような黒目ばかりの眼で、瞬きせず私を凝視している。次の瞬間、おちょぼ口の口角こうかくがわずかに持ち上がり、かすかに微笑んだように見えた。

 私は尻餅をついたままの体勢で、思わず後退あとずさりしていった。

 すると突然、少女が立ち上がった。そして、物凄い速さで掛け出したかと思うと、たちまち闇に紛れて見えなくなってしまった。

 少女と入れ替わるように、ヘッドライトを点けた一台のパトカーが、ゆっくりとしたスピードでやってきて、近くで停まった。中から、優菜と警察官が出てきた。

 私と優菜は、警察署で事情を聞かれた後、ホテルに戻った。翌日、予定どおりの飛行機で東京に帰った。

 いったい、あの出来事は何だったのだろう?

 後日掛かってきた鹿児島県警からの電話連絡によると、市内で子供の捜索願は出ていなかったし、事件性が疑われる出来事もなかったそうだ。警察としては、お面を被った子供の悪戯いたずらであると判断しているとのことだった。

 しかし、私には到底、子供の悪戯とは思えなかった。あれはどう考えてもお面などではない。

 確かに能面のように無表情だったが、口角が持ち上がるのがはっきり見えた。それに、走り去る速さは、ひどく人間離れしていた。

 優菜も、私が言うことを信じてくれた。私と優菜は、少女が語った言葉を手掛かりに、少女の正体を探り始めた。その結果、私たちが到達した結論はこうだ。

 鹿児島城は17世紀初頭、島津氏によって築かれた。城の西側には甲突川が南北に流れており、天然の防壁となっていた。島津氏はそこに、石造りの橋を7本架けた。それらの橋には、敵が攻め寄せた時のために、城側のたもとにある要石かなめいしを引き抜くと、たちまち落ちる仕掛けが施されていたという。

 このような仕掛けの橋を造るために、隣の肥後(今の熊本県)から、秘伝の技を持つ石工いしくの集団が密かに招かれた。大金をもって島津家に雇われて、秘密の仕掛けを備えた石橋を造った。橋が完成し、石工たちが肥後に戻る途中のことだった。薩摩から肥後へ通じる国境のすぐ手前に来た時、彼らは島津家の手の者によって、一人残らず討ち取られたという。橋の秘密が漏れることを防ぐためだった。

 石工たちには、親も妻子もいただろう。あの少女は、殺された石工の娘だったのではないだろうか。父の死後、幼くして自分も亡くなったのかもしれない。とがなくして惨殺された父親の恨みを晴らせないまま、いまだに橋の近くを彷徨さまよっているのに違いない。

 私たちは少女の亡霊に、不気味さより憐れみを覚えた。ネットに甲突川の画像があったので、二人で手を合わせて、ささやかながら、少女の霊を供養した。もちろん、私たちの結論が科学的でないことは、百も承知だ。しかし、他に納得できる説明を思い付かない。

 私は、その後鹿児島に足を運んだことはない。もし再び行く機会があったら、夕暮れ時を選んで、甲突川のほとりを歩いてみようと思っている。


 *


「うーん。不思議だ」

「少女の正体は何だったんだろうね」

「もちろんそれもあるけど、今、藤井がしてくれたのとよく似た話を、床助から聞いたことがあるんだ。昔、といっても江戸時代だけど、福富座という見世物の一座に床助がいたことは話したよね」

「ええ、聞いたね」

「その時、細かいことは省いたのでまだ話していなかったんだけど、福富座が鹿児島に巡業した時、野菊という身寄りのない女の子が、座員になったんだ。その子は、市松人形になりきって全く動かず、瞬きさえしないという芸を見せていた。ある時、一座の巡業慰労会の席で、座員の一人が鹿児島であったという石工殺害の言い伝えについて話したんだ。すると、野菊は叫び声をあげて飛び出していき、二度と戻らなかったそうだ」

「私と優菜が鹿児島で出会ったのは、その野菊だったのかな?」

「かもしれない。でも、石工殺害があったのが17世紀初め、野菊が福富座に入ったのでさえ、200年くらい前だ。藤井が出会ったのが野菊だったとしても、普通の人じゃないな。死霊としか考えられないね」

「死霊か。女の子の白塗りの顔は、今でも目に焼き付いている」

「それで思い出したんだけど、大学院の博士課程で民俗学を専攻している深山さんという院生のこと、話したことあるよね」

「ええ。実在する妖怪もいるはずだと唱えて、日本のあちこち探し回っている、ちょっと変わった人でしょ?」

「そう。深山さんは、真冬に鳥取県の大山だいせんに登った時、遭難寸前のところを女性登山者に救助されたそうなんだけど、その女性は、間違いなく雪女だったというんだ。雪女の髪の毛も、持っていたらしい。で、不思議なのは、その雪女も床助の身の上話に出てくるんだ」

「床助さんが、雪女といい仲になるとか? 床助さんて、ずいぶん女好きなんでしょ。座敷童なのに変だね」

「いや。床助は雪女と直接会ったわけじゃない。雪女は、もともと大山の麓の村に住む普通の女性だったけど、自分の夫に娘を攫われてしまった。悲しみのあまり、雪女になって大山に住み着いたというんだ。その、父に攫われて売られた娘が鬼娘で、姿に普通の人と違う点があったため、方々で見世物にされた。上方から江戸に流れて来て、福富座に出たそうだ」

「へー。なんだか悲しい話だね」

「そうだね。ただ、福富座では邪険にされることもなく、めとる男もいたそうだから、ちょっとホッとするな。あと、床助が座敷童かどうかは、まだはっきりしないんだ」

 俊介と未来は、怪異という共通の関心事ができて、ますます意気投合した。互いに惹かれ合い、さらに頻繁に会うようになっていった。


 ある晩、俊介が部屋で夕食のコンビニ弁当を食べていると、床助が現れた。

「未来さんとは、上手くいっておりますか?」

「ええ、お化け談議で盛り上がってます。これも、床助さんのお陰ですよ」

「素晴らしい! それで、どこまで行きました?」

「そうですね。遠い所は……、房総のファーザー牧場ですかね」

「プッ! 何をおっしゃっておるのですか。違いますよ。男女の仲についてお尋ねしたのです」

「男女の仲? 恥ずかしいな。言わなきゃいけませんか? ……。あの、まだキスまでです」

「おう、順調ですな。実は、折り入って森田様にお願いがございます」

「改まって、何でしょう?」

「怒らないで、最後まで聞いて下さいよ。前にも申し上げましたが、未来様はお陸様に生き写しでございます。ですから、未来様は、実はお陸様の生まれ変わりに違いないと、私は確信しております」

「生まれ変わりですか。果たして、そういうことが本当にあるんでしょうか?」

「ありますとも。現に森田様は、私のせがんれ・俊介の生まれ変わりですからね」

「まだ、そんなことを言っているんですか。まあ、否定するに足る明らかな証拠があるわけでもありませんから、そういうことにしておいても、僕は構いませんけど」

「やっとお認めになりましたね」

「いえ、認めたわけでは……。それより、私への頼み事というのは?」

「未来様が、お陸様の生まれ変わりか否か、確実に知る方法を考え付いたのです」

「へぇー、どうするんです?」

「森田様。私が何を言っても、決して怒らないで下さいよ。いいですね? 実は、お陸様には、左の乳のすぐ下に、ホクロが二つ並んでおりました。やや大きいのと、小さいのです。詳しく言うと、対面して見た場合、左のホクロが大きく、右の方が小さい。まるで寄り添うように並んでいたのです。お陸様と会った際など、私はそのホクロを撫でながら、まるでお陸様と私みたいですね、なんて申し上げました。ふふふ……。お、いかん、いかん。目の前にお陸様の美しいお胸が浮かんできました。倅が起き出してしまう」

「つまり、未来さんにも同じようなホクロがあるか、見てくれというのですか?」

「ご名答でございます!」

「お断りします。未来さんに、胸を見せて下さい、なんて言ったら、いっぺんに嫌われてしまいますよ。そのようなホクロがあるか尋ねるのも同じです。ダメ、ダメ」

「そうおっしゃると思っておりましたよ。森田様は生真面目きまじめなお方ですからな。しかし、互いに好き合っているのなら、結ばれたいとお思いでしょう? 身も心も」

「それはそうですが……」

「実は、これにはとても大切なことが含まれているのです。未来様がお陸様の生まれ変わりだったとしましょう。そして、森田様は私の倅の生まれ変わり。この二人が結ばれたとすると、何が起こるでしょうか?」

「まったく分かりません」

「私は、お陸様が非業の死を遂げて以来、お陸様の強い怨念が籠っているこの場所に、縛り付けられているのです。ずっとお陸様の菩提ぼだいを弔ってまいりましたが、お陸様の怨念の力は極めて強い。私は永遠にこの場所を離れられず、あの世にも行けません。しかし、私もさすがに、だいぶ弱ってまいりました。お陸様とて、このままでは、未来永劫怨念にさいなまれ続けます。それでは、あまりにお可愛そうです」

「床助さんは、未来さんと僕が結ばれれば、お陸様の怨念が消えて、床助さんへの呪縛も解けるというのですか?」

「はい。私はそのように考えております。ただ、必ずそうなるとは申せません。やってみなければ、はっきりしたことは分からないのでございます」

「もし成功したら、床助さんはどうなりますか?」

「あの世へ行くことができるでしょう。そこでお陸様と結ばれると信じております」

「なるほど、そういうことですか……。分かりました。やってみます。というより、是非やらせて下さい!」

「おお! やはり森田様。倅だけのことはありますな」

「ただ、具体的にどうしたらいいのか、分かりません。知恵を貸してくれますよね?」

「もちろんですとも」

「場所は、ここですか? ここに未来さんを連れてきますか?」

「いえいえ。間違っても、ここはいけませんぞ。古くて狭くて風呂もない。とても女性を呼べるような場所ではありませんな。当世にも、出会茶屋があるでしょ? ラブホテルとかいうようですね」

「よく知ってますね」

「時々、森田様のパソコンやスマホをお借りして、今の世の出来事について調べておりますからね。錦糸町きんしちょう駅の向こう側に、何軒かあるようですよ。近さを重視するなら、その辺りが良いでしょうな」

「分かりました。調べてみます。の指南もお願いします」

「もちろんです。肝腎なのは、ホクロの有無をご自分の眼で確認することと、未来さんと結ばれること、この二つです」

「未来さんに振られないか、心配だな」

「いえ、大丈夫! 未来様も森田様を好いておられます。めでたく結ばれたら、お二人そろって、この部屋に戻ってきて下さい。吉報をお待ちしております」

 俊介は、その後しばらくの間、床助による「特訓」を受け、多少自信が付いた。


 数日後に未来と会った俊介は、内心ドキドキしながらも、さりげなく未来に話した。

「いいよ。私、俊君が大好きだから。誘ってくれてありがとう」

 あっけなく承諾してくれた。床助が話したことも伝えた。

「左のオッパイの下にホクロ? ないなぁ。私はお陸様の生まれ変わりじゃないと思う。でも、行こうね」

 数日後、駅で待ち合わせることにした。床助を落胆させないよう、未来がホクロの存在を否定していることは、床助に言わなかった。


 約束の日、駅の改札口で未来と落ち合って、あらかじめ目星を付けておいたラブホテルに向かった。

「床助さん、ガッカリするだろうな」

「でも、仕方がないさ。あ、ここかな?」

 俊介は、こういうホテルに入るのは初めてだった。ロビーにある液晶パネルで客室を選ぶのだが、半分以上の客室が使用中の表示になっている。

真昼間まっぴるまから、結構入っているんだな>

 俊介は、妙なことに感心しながら、空室の中では最も値段が高い部屋を選んだ。

<記念すべき未来との初エッチだし、童貞卒業だ。ここはケチらずにいこう>

 フロントで代金と引き換えにカギを受け取り、客室に向かった。客室ドアの横に付いている赤いランプが、点滅している。

「ここだね」

 開錠して部屋に入る。期待と不安で、胸の鼓動が早くなってきたように思う。

「あー、おしゃれ!」

 室内は広く、デザインや調度品はセンス良く纏められていた。

 ハグしてキスしてから、とりあえず二人でソファに座っておしゃべりする。

「あれから、祖父に先祖のことを聞いてみたんだ。文献などが残っているわけじゃないけど、祖父が小さい頃、親戚から御徒町という地名を聞いたことがあると言ってたよ」

「その点は、床助の話と一致しているね」

「あ、お風呂にお湯を入れてくるね」

 未来はバスルームに向かった。どうやら、こういうホテルは初めてではないらしい。

 すぐに戻ってきた。

「俊君は、本当に床助さんの息子の生まれ変わりなのかな?」

「前に話したように、僕の実家は福島県なんだ。床助は、自分が知っている範囲で最後に息子が住んだのは、江戸の小伝馬町だと言っている。繋がりはなさそうだよ。もちろん、床助の息子の子孫のうち、誰かが江戸から福島県に移転した可能性は捨てきれないけどね。だけど、僕はもうどうでもいいと思ってる。床助がそうだと思うなら、そういうことにしておくよ」

「そうだね、科学では説明ができないことも、この世にはたくさんあるはずだよ。鹿児島の少女のようにね」

 二人は、しばらく雑談した。

 俊介は、そろそろ雑談を切り上げる頃合いだと思った。

「もう、お風呂のお湯入ったかな?」

「うん。お風呂入ろうか」

「脱がし合いっこしようよ」

「いいよー」

 たちまち二人は、生まれたままの姿になった。

「行こう」

 俊介は、未来に手を引っ張られてバスルームに行った。大きなバスタブは、縁までお湯に満たされていた。

 初めて目の当たりにする未来の裸身は、俊介には眩し過ぎる。

 小柄なのに均整がとれていて、お腹が引き締まっている。思ったより胸が大きい。俊介は思わず見とれてしまった。

「だめ。ジロジロ見ちゃ」

「ごめん。床助との約束なんだ。左胸を見せてくれる?」

「仕方ないね」

 未来は、胸に当てていた右手を下した。

「ふーむ」

 俊介が少し前かがみになって、未来の美しくて大きな乳房に顔を近付けると、未来が乳房を持ち上げた。

「やはり、左のオッパイの下に、ホクロなんてないな」

「でしょ?」

「じゃあ、代わりに……」

 俊介は、未来の左の乳首をペロリと舐めた。

「キャッ! ダメでしょ、そんなことしちゃ」

 二人はバスタブに入って、しばらく戯れた。

 のぼせそうになってきたので、バスから出て体を拭いた。先にベッドに入ったのは、未来の方だった。

<ずいぶん大きなベッドだな。俺の部屋の煎餅布団とは大違いだ。やはり、俺の部屋にしなくてよかった……>

 体を拭きながら、俊介は思った。

「何しているの? 早く来なよ。優しくしてね」

「うん」

 ベッド上では、多少ぎこちなかったかもしれないが、床助の指南が役に立った。俊介の口は、未来の口、胸、そして秘所へと、徐々に下がっていった。

 未来は、耳から胸にかけて桃色に染めている。未来の口から漏れる悩まし気な声が、徐々に高まっていった。

 ところが、俊介の心に、何やら焦りと緊張感のようなものが生まれ、それが徐々に大きくなっていった。さっきまで自分でも驚くほど元気だったジュニアが、「大事な勤め」を前にして、急に項垂うなだれてきてしまったのだ。

「あれ? おかしいな」

「どうしたの?」

「うん……」

 未来は俊介のジュニアに手を伸ばした。

「大丈夫。口でしてあげる」

 未来は下がっていき、俊介のジュニアを口に含んだ。そして、ひとしきりジュニアを奮い立たせようと、頑張っていた。

「ありがとう。でも、もういいよ。今日は駄目みたい。ごめんね」

「うん。謝ることないよ」

「実は僕、童貞なんだ」

「そう。男の人のアレって、意外にデリケートらしいね。だから、そういうことも時々あるらしいよ。気にしないでね。今度、リベンジすればいいよ」


 ホテルを出ると、俊介は一人で若竹荘に戻って、ことの次第を床助に報告した。

「そうでしたか。そういうことは、ままあることでございますよ。まったく気にする必要はありません。で、次はいつです?」

明後日あさってです」

「おお、素晴らしい! 自然体でいくことですな。上手くやろうなどと気負い過ぎると、かえっていけませんぞ。なんなら、私の尻で、模擬訓練いたしますか?」

「いや。それは遠慮しときます」


 翌日、俊介が授業を受けるために大学に行っている間に、101号室のチャイムが鳴った。普段は、人が訪ねてきても床助は居留守を使うことにしている。しかし、今回は違った。

「北南大学大学院の深山です。床助さんはおいでですか?」

 床助は、ドアを開錠して開けた。

「こんにちは。今よろしいですか? 床助さん」

「散らかっておりますが、どうぞお入りください」

 深山は、円筒形で紺色の布袋のような物を持っている。

「今日、お伺いしたのは、床助さんにちょっとお尋ねしたいことがあるのと、これをお渡ししたかったからです」

 深山は、布袋を床助の前に置いた。

「これは、シュラフです」

「シュラフ? 何でございますか?」

「寝袋と言った方が分かりやすいですかね。山登りの道具なんですが、こうやって広げると、中に入って寝ることができるんです」

 深山は寝袋を袋から出して広げると、チャックを下げて中を見せた。

「これを、床助さんに差し上げます。新品でなくて、申し訳ありません。以前床助さんから欲しいものはフトンだと聞いてから、随分時間が経ってしまいました。気にはなっていたんですが……。済みません」

「いえ、気になさらないでください。いただいて、よろしいんですか?」

 床助は、寝袋に触って、チャックを上げ下げした。

「これは、暖かそうですね」

「僕は、研究のため頻繁に山や海に行くのですが、宿代を浮かすために、野宿することもよくあるんです。だから、シュラフもいくつか持っています。その中から、洗濯してあるものを持ってきました。試しに中に入って寝てみて下さい」

「深山様。ご配慮、痛み入ります」

 床助は、寝袋の中に入って、仰向けになった。

「ほう。これはいいですね。特に冬場には重宝しそうです」

「床助さんには、サイズがだいぶ大きいですかね。子供用は持っていないので、我慢してください。もう少し、下の方に入ってくれますか?」

「こうですか?」

 床助は、体を寝袋の足の方にずらした。床助の顔が、すっかり中に隠れた。

「居心地が良くて、このまま眠ってしまいそうですな」

 その瞬間、深山は寝袋のジッパーを全部閉めてしまった。そして、寝袋の頭の部分をくるくる巻いたかと思うと、ズボンのポケットからロープを取り出し、寝袋の上から床助を縛り上げた。

「深山様。これはいったい何の真似ですか? 早くここから出してください!」

「床助さん、悪く思わないで下さいよ。これも、学問の進歩のためです。危害は加えませんから、しばらく大人しくしていて下さい」

「私は故あって、この場所から離れられないんです。私を連れ去っても、無駄だと思います。それに、森田様と約束したこともありますし。ここから出してください」

「知ってますよ。森田君が彼女とエッチすると、床助さんは消えてしまうんでしょ。そうなったら、僕の研究は水の泡なんですよ。学問の進歩のためだと思って、しばらく我慢して下さい」

 すると、床助は大人しくなった。深山は床助を担いで外に出た。

 近くの道路に、オンボロの軽自動車が停めてあった。深山は素早く床助を後部のトランクに乗せて、トランクリッドを閉めた。こちらを見ている者がいないか周りを確認してから、車に乗り込んだ。車を急発進させると、いずこともなく走り去った。


《続く》



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