第11話 恐ろしい罠

 夜四ツの少し前、私は長屋の部屋をそっと抜け出しました。お峰と俊介は、寝息を立てて眠っております。

 奥御殿に入り、秋川様に教えられたとおりに、奥様の寝所に向かいます。

 普段は夜勤めの奥女中が控えているはずですが、なぜか今夜は誰もおりません。御殿は静まり返っております。ところどころに行灯あんどんがあって、うっすらと周囲を照らしております。

 音を立てないよう用心しながら、暗く人気のない廊下を進みます。

 すると、なぜか新月村で夜這よばいをしていたころの光景が、脳裏をぎりました。好きな道とはいえ、いつまでこそこそと、このようなことを続けるのだろう? 自問いたしましたが、答えは見出せません。


 何事もなく、奥様の部屋の前まで来ることができました。正座し無言で一礼した後、静かにふすまを開けます。室内は暗く、よく見えません。

 私は、音もなく部屋に入ると、静かに襖を閉めました。

「だれですか?」

 奥様の声です。床に就いたものの、まだ眠ってはおられないようでございます。

「床助でございます」

「このような夜更けに、どうしました?」

「奥様が私を所望されているから行くようにと、秋川様がお命じになりました」

「はて面妖めんような。妾は所望などしておりませぬ。床助、ここに来てはなりません。早く戻りなさい」

 私は素直に奥様の言葉に従うべきでした。冷静に考えれば、状況は極めて不自然です。しかし、手の届くような近さに奥様がいらっしゃる、そのことが私を盲目にいたしました。痛恨の極みとしか言いようがございません。

「承知いたしました。でも、少しだけ奥様のおそばにいさせてはいただけませんか?」

「だめです。すぐに出ていきなさい」

「間近に奥様のお顔を拝見いたしましたら、すぐに退散いたしますので、なにとぞお許し下さい」

 自分でも驚くほど強引です。

 同じやり取りを何回か繰り返し、ついに奥様が根負けしました。

「仕方ありませんね。では、ここへ来てお布団に入りなさい」

 私は、暗闇の中を這っていって奥様の布団にもぐり込みました。そして、奥様を強く抱きしめました。

「奥様とお会いできなくなって、床助は淋しゅうございました!」

「妾も……」

 奥様が言い終わるのを待たずに、自分の口で奥様の口を塞ぎ、貪りました。互いの舌と舌とが、交尾する二匹の蛇のように絡み合います……。


 私が布団に入ってから5分と経っていなかったでしょう。突如として、三方の襖が大きな音を立てて開くと同時に、辺りが真昼のように明るくなりました。私は、一瞬明るさに幻惑されてよく見えませんでしたが、すぐに目が慣れました。

 何と、お殿様、小野田様、孫兵衛、当家の若党達が、私達を取り囲んで、見下ろしているではありませんか。若党3三人が龕灯がんとう(前を照らす提灯ちょうちん)で私たちを照らします。また、他の数人は、部屋や廊下の鴨井かもいに、蝋燭ろうそくを点した金具を引っ掛けています。

 奥様を見ると、顔が恐怖に歪んでおられます。

「牧、床助両名は、それぞれ夫や妻を持つ身であるにもかかわらず、長きにわたり各地のいかがわしき茶屋にて、不義密通を重ねたり! そして今夜、あろうことか当屋敷内にて淫行に及ぶ。これ、人倫を踏み外し、犬畜生にも劣る行いであることは申すまでもなく、てて加えて、神君家康公以来の祖法を踏みにじる大罪なり。今ここに、獣行に及ぶ両名を、みずから成敗するものなり。両名、神妙にせよ!」

 お殿様は大音声だいおんじょうで告げると、腰の大刀を抜き放ちました。それと同時に他の人々も、いっせいに刀を抜きました。槍を構える若党もおります。並んだやいばが、蝋燭の光を受けてギラギラと輝いております。

「お、お待ちください! これは何者かが仕組んだに相違ございません。牧の申し上げることをお聴き下さい。どうか、刀をお収め下さい!」

 奥様が、震える声で訴えます。

「この期に及んでなお、詭弁を弄するか。今まさに、床助めと同衾しておるではないか。これまでの悪行も、すべて調べが付いておる。さ、覚悟せよ」

 お殿様が若党に合図を送ると、若党は私達から布団を剥ぎ取りました。

「地獄へ落ちよ!」

 叫びながら、お殿様が刀を振り下ろしました。

 私はとっさに、仰向けに寝ている奥様の上に被さりました。肩から背中にかけて、激痛が走りました。

「奥様、お逃げください」

 私が奥様に囁くと、奥様は頷いて、這うようにして部屋の端に進もうとします。

「逃げられはせぬぞ!」

 お殿様は、髷が解かれて長く伸びた奥様の黒髪を無造作に掴むと、そのまま奥様を部屋の中央まで、ずるずると引きずってまいります。

売女ばいため!」

 奥様の左肩から袈裟懸けさがけに切りつけましたが、胸の下で刀が畳に刺さってしまいました。

 しかし、奥様がお召しになっていた白色の寝間着の前が、たちまちあけに染まってまいります。

「おい孫兵衛、突っ立っておらんで、床助を成敗せよ」

 そう命じたお殿様は、畳から刀を抜いて、奥様の胸を突きました。奥様は、「ぎゃっ!」と一声上げて、動かなくなってしまわれました。

「床助! よもや拙者を忘れておるまいな! 拙者は一瞬たりともお前を忘れたことはなかったぞ。我が妻を寝取ったばかりか、街中においてさんざん愚弄しおって。ここで逢うたからには、お前をなますの如く切り刻んでやる。間男、覚悟!」

 一声叫んだ孫兵衛は、刀で私の背中を突きました。私の口から、ごぼごぼと血が流れました。

「両名をそこに並べろ」

 殿様が命じると、若党が奥様と私を部屋の中央に並べます。

 私はまだ意識がございました。

 奥様の口からも、低いうめき声が聞こえております。殿様の突きは、おそらく急所を外れていたのでございましょう。

 私達は、血溜まりの中に、二人並んで横たえられました。

「殿、両名ともまだ息がございます。止めを刺しましょう」

 孫兵衛が、悔しそうに申します。

「いや。今は止めを刺すでない。余に考えがある」

「首尾は上々でございますね」

 いつの間にか、秋川様—―いえ、もはや「様」を付けるには及びますまい―—秋川が来ているようでございます。私は目を閉じておりましたが、背中の激痛に耐えながらも、誰がどのように話すのか聞き耳を立てました。

「これで、田川様の一件も、よもや露見しますまい。喜三郎もこれで安心じゃな」

「はい、母上」

 答えたのは、小野田です。ということは、小野田は秋川の子であり、田川様殺しの下手人だったということになります。姓が異なるのは、恐らく喜三郎が他家の養子に入ったからでございましょう。

 そうすると、秋川の、自分はずっと独り身だったとの言は、嘘ということになります。

「それにしても、秋川はずいぶん手の込んだことを考えたものよ。牧に出会茶屋遊びを吹き込み、床助のとりこにさせた。福助を召し抱えたのも、床助を屋敷内に取り込む方便。今夜こうして牧を討ち取ったのは、余に乱暴を働いた不届き者の成敗と、田川の一件を葬り去る、まさに一石二鳥の妙手であったな」

「すべてお殿様のためでございます。だからと申しては恐れ多いことでございますが、向島におります田鶴たづを、一刻も早くお屋敷に呼んでやって下さいませ」

「分かっておる。いつまでも妾宅暮らしでは不憫じゃからな。すぐに正妻というわけにはまいらぬが、奥御殿に住まわせてやろう。親子3人、仲良く暮らせ」

 向島の妾というのは、秋川の娘だったようでございます。

「田鶴も、死人が出た御殿に住むのは嫌であろう。この両名は、息のあるうちに戸板に載せて、屋敷裏の竹林に運べ。そこにある古井戸がこの者たちの死に場所じゃ」

「あそこには、お小夜も眠っておりますから、奥様もさぞお喜びでございましょう」

 秋川が話すのを聞いて、哀れなお小夜の末路が知れたのでございます。

「それもあるが、この両名はお似合いの夫婦めおとじゃ。古井戸の底で苦しみ藻掻きながら、祝言しゅうげんでも挙げるであろう。三々九度のさかずきは、赤い血で満たされるであろうよ」


 広いお屋敷の一画に、鬱蒼とした竹林がございました。出入口は竹矢来で塞いであり、たとえたけのこの季節であっても、足を踏み入れることは禁じられておりました。その竹林の中に、使われなくなって長い年月を経た古井戸がございました。

若党が奥様と私をそれぞれ戸板に載せて、小野田の差配のもと、竹林に運んでまいります。

 辺りでは、肌寒くて強い風が吹き荒れております。竹のこずえはごうごうと物凄い音を立て、まるで魔物のよう猛り狂います。竹の幹どうしがぶつかる「カーン、カーン」という音がしきりにこだまし、竹の葉は天まで届かんばかりに吹き上げられております。

 夜空では、満天の星がさんざめきながら、運ばれていく奥様と私を見下ろしております。

 井戸のほとりに到着いたしますと、若党はまず奥様を、次いで私を、無造作に古井戸に放り込みました。私は、井戸の内壁にぶつかりながら落下していきました。

「蓋を閉めろ。上に石を載せるのを忘れるな」

 小野田の声でございました。

 しばらくすると、風の音以外何も聞こえなくなりました。彼らは屋敷に引きあげたのでございましょう。

 私は、背中の刀創かたなきずから出血しておりましたが、意識はありました。真っ暗な井戸の底を、手を伸ばして探ります。

 水は溜まっておりませんでしたが、枯れて腐った竹の葉が積み重なり、じめじめとしておりました。耐え難いほど強烈な異臭が、井戸の底に充満しております。私の手は、何か骨のようなものに当たりました。おそらく、お小夜の遺骸だろうと思いました。

 次いで私の手は、奥様に触れました。体をくの字にして横たわっているようでございます。私が奥様の上に落下することが避けられましたのは、不幸中の幸いでございました。

「奥様、お陸様……」

 お陸様の体をゆすりました。

「う、う、う……」

「お陸様、しっかりなさってください」

「床助か? ……。 大変な目に、……遭わせて、……しまい、……許して、……下さい」

 虫の息となったお陸様は、やっとの思いで声を絞り出します。

「何をおっしゃいますか。私こそ、お陸様のお言葉に素直に従って、すぐに帰るべきでした。それに、己がお陸様を陥れるはかりごとの道具にされていたとは……。もっと早くそれに気付いて、奥様をお助けすべきでございました。自分の愚かしさを、悔やんでも悔やみきれません。誠に申し訳ございませんでした」

「これは、……お小夜の骨、……ですか?」

「そのようでございます」

「お小夜にも、……申し訳ないことを、……しました。なれど、……そなたと過ごした時は、……この上なく楽しかった。……しかし、妾は……淫らな女……」

 お陸様は、ご自分を責めるような口調でおっしゃいます。

「何をおっしゃいますか。それは違います。陰間茶屋にお越しのお客様は、それぞれ事情をお持ちですが、ご自分の内なる声に素直に従っておられるだけでございます。何ら恥ずべきことではございません。お陸様とお逢いできた私は、本当に幸せ者でございます」

「それを聞いて、……安堵しました。心から礼を申します。……。妾はもうあの世に行きます……。ゴボゴボ――」

「お陸様、お気を確かにお持ち下さい!」

 お陸様は血反吐ちへどを吐きながらも、最後の力を振り絞って話されます。

「あの者たちの悪行は、……お天道様が見ておられます。……相応の報いを受けるに、……違いありません。そなたは……、あの者たちの行く末を、……見届けるのです。妾が骨となった後も、ここにある限り……、そなたは死なぬ……。頼みましたよ」

 私は虫の息になっているお陸様を抱きしめました。

「そなたは、……妾の、……い、の、ち」

 その言葉を最後に、お陸様は息絶えました。


 私は井戸の底で、お陸様を抱きしめ続けました。意外にも、涙は出ません。私には、お陸様が本当に亡くなったとは思えなかったからでございましょう。

 やがて日が昇ると、井戸の蓋の隙間から陽が差して、井戸の底が多少見えるようになりました。お陸様を見ると、口から吐いた血糊が乾いて、こびり付いております。

 かたわらにある骨は、奥女中風の髪型をしており、お小夜に間違いございません。しかし、毛髪と骨だけで、着衣が見当たりません。おそらく衣服を全部剥ぎ取られて投げ込まれたのでございましょう。むごいことをするものでございます。

 私は、何日も何日もお陸様を抱き続けました。お陸様のお姿は、日が昇るたびに変わっていかれました。

 顔の色はどす黒くなり、目や鼻、耳といった穴から、嫌な臭いのする汁が垂れてまいりました。やがて、腹が膨れ上がりました。体全体が強烈な異臭を放っております。様々な蠅や、名も知れぬ虫達が、お陸様のご遺体にびっしりと群がってまいりました。たくさんの蛆虫うじむしは、思いがけず有り付いたご馳走を全部平らげようと、嬉々としてお陸様の口や耳、眼窩などを出入りしております。

 不思議なことに、深手を負っていて、しかも水や食べ物がないのに、私は生き永らえておりました。まるで、お陸様の魂が私を守って下さっているかのようでございました。


 やがて、お陸様はついに、ほとんど骨ばかりとなりました。私は、お陸様のを両手で挟み、自分の顔を近づけました。

<お美しい……>

 しゃれこうべとなられても、お陸様の美しさはいささかも変わりがございませんでした。少なくとも、私にとっては。現に、二つの眼窩は、優しく私を見詰めて下さっております。私は、お陸様の頬に、そっと口付けいたしました。すると、意識が朦朧もうろうとしてまいりましたので、これで私も死ぬのだと思いました。私は、静かに瞑目いたしました。


 どれくらいの時間が経ったのでございましょう。

 ふと気が付くと、私は投げ込まれた古井戸の近くにある、小さなほこらの前に横たわっておりました。どのようにして井戸から出られたのかは、分かりません。体に受けた傷は、すでに傷跡となっております。

 古井戸の蓋を少し持ち上げて、中を覗いてみました。陽の光は直接井戸の底に届かないので、はっきりとは見えませんが、お陸様のしゃれこうべが、私に微笑みかけているように思いました。

 それから私は、この鬱蒼とした竹林に隠れ住みました。お陸様が眠っている古井戸から離れたくございませんでした。幸い、この竹林には誰も入ってまいりませんでした。

 夜になると、夜陰に乗じて屋敷内を徘徊し、様子を窺いました。御殿に忍び入っては、天井裏や床下に潜み、盗み聞きや盗み見をいたしました。すでにお分かりのように、私はそういうことには長けておりましたので。

 お陸様を弔う気持ちを表すため、僧侶に似せて頭を丸め、墨染すみぞめの衣を纏うようになりました。


 その後の成りゆきでございますが、まず、福助、お峰と俊介が暇を出され、屋敷を去りました。彼らに声を掛けようとも思いましたが、自分はすでに鬼籍に入っているものと思われているはずでございます。いえ、実際、私はすでにこの世のものではないようでございました。彼らに声を掛けても、死霊しりょうと思われ恐れられるのが関の山だと思い、幸多かれと念じながら見送ったのでございます。

 後から知ったのでございますが、彼らは浅草の福富座に再び拾われました。

 福助は、その数年後に亡くなりました。まだ、二十歳そこそこという若さでございました。どうも、福助のような真っ正直な者が早くに亡くなり、私のような曲者くせものがしぶとく生き残る、というのが、世の中ではよくあることのようでございます。もっとも、福助人形は今でも見かけますので、私と同じくらい長命でございます。

 お峰は、福富座の座員・又八またはちという男と再婚し、小伝馬町こてんまちょうの裏長屋に所帯を持ったそうでございます。俊介はお峰の連れ子という立場ですが、とても利発で、又八からも可愛がられました。

 お峰が再婚したと聞いて、私は安堵あんどいたしました。お峰に対して私は、愛憎半ばする、いささか複雑な思いを抱いております。しかし、お峰との出会いがなければ、私がお陸様と出会うこともなかったのでございます。それに、我が子・俊介を立派に育ててくれたことにつきましては、いくら感謝しても足りるものではございません。

 私も、その後のお峰が気になって、時々夜陰に紛れて、小伝馬町の長屋まで様子を見にまいりました。もちろん、ナニを覗きに行ったのではございませんよ。暮らしに困っているような時は、金持ちの蔵からくすねたカネを、紙に包んでお峰の家に投げ込んできたこともございました。もしかすると、お峰も私がまだこの世に居残っていることに、薄々気が付いていたかもしれません。


 さて、憎らしい稲葉の殿様や秋川らは、その後どうなったのでございましょうか? そう、孫兵衛も忘れるわけにはまいりません。

 稲葉泰明は、その後お城(江戸城)のお役に付きました。しかし、怠惰な暮らしがたたって、将軍御成おなりの大切な行事に無断で欠席いたしました。放蕩ぶりに関する悪評も加味されて、お役罷免のうえ、五千石から千石に石高を減らされたのでございます。

 屋敷も明け渡しを命ぜられ、小日向こひなたという、当時は辺鄙な場所にございます屋敷に移転させられました。

 それでも、放蕩は収まることはなく、札差ふださし(金融業を営む町人)への借金などがかさみ、窮乏していきました。そうすると、カネの切れ目は縁の切れ目。秋川と二人の子供は、稲葉を見限って、姿をくらましたのでございます。残念ながら、私は彼らのその後の消息を知りません。特に、お陸様を苦しめた謀を差配した張本人・秋川がどうなったのか分からず、悔しい思いがいたします。とはいえ、秋川の謀がなければ、私がお陸様と出会うことも、逢瀬を重ねることもございませんでした。いささか悩ましい心持ちがいたします。

 首魁しゅかい・稲葉は荒淫がたたって、花柳病かりゅうびょう(性病)が高じて死んだと聞きます。当然の報いといえましょう。

 最後に、孫兵衛でございます。もともと孫兵衛が稲葉家に召し抱えられたのは、剣術指南役というのは表向きで、女敵討ちの助太刀をさせることが真の目的でございました。そのため、目的が達せられた後、間もなく罷免されました。その後の消息は不明でございます。孫兵衛はいちおう本懐を遂げましたので、満足だったでしょう。しかし、実は私が現世を徘徊していると知ったら、さぞ悔しがったことでございましょう。またもや私をつけ狙ったかもしれません。


 稲葉家の屋敷跡は長い間、空地となっておりました。やがて分筆されて、いくつかの御家人屋敷となり、ご一新いっしん(明治維新)を迎えたのでございます。

 お陸様が眠る古井戸のある辺りは、住宅地になりました。古井戸は埋め立てられ、その上に住宅が建ちました。しかし、古井戸が地下に埋もれようとも、私には常にその場所が分かります。いまだに、お陸様と心が繋がっているからでございます。私は、古井戸の上に建つ住宅の床下や屋根裏に住み続けました。

 その間、周囲で起こった様々な出来事を見てまいりました。幾多の困難もございましたが、格別大きな災厄に、二度ほど見舞われました。

 一つは、大地震でございます。ちょうど昼時でございましたので、あちらこちらで火事が起き、折からの強風に煽られて、たちまち大火になったのでございます。火の手は、お陸様の古井戸の周りにも迫ってまいりました。

 しかし私は、古井戸から離れるわけにはまいりません。なぜなら、私がこの世におられますのも、古井戸の底にいらっしゃるお陸様の怨念があるからでございます。私は古井戸の近くに穴を掘り、そこに身を潜めて、上をトタン板で覆いました。私には常人にはない力があって、相当な高温にも耐えられるのでございます。辺りは焼け尽くされ、大勢の方が逃げ遅れて、お亡くなりになりました。

 もう一つは、空襲でございます。中でも酸鼻を極めましたのは、3月夜の空襲でございました。夜空を圧する巨大飛行機の編隊が、繰り返し襲ってまいりました。それはまさしく、地獄から飛び来った怪鳥けちょうの大群に他なりませんでした。赤く照らされた大きな腹から、バラバラと爆弾を投下しますと、地上はたちまち業火に包まれるのでございます。その中を大勢の人々が逃げ惑い、その様は地獄絵図そのものでございました。激しい炎は恐ろしい旋風つむじかぜを巻き起こし、その旋風がますます業火を煽りました。数え切れない無辜むこの民が、業火に焼かれたのでございます。

この時も私は、井戸跡の近くに穴を掘り、そこに逃げ込みました。ですが、もしも爆弾の直撃を受けていたら、助からなかったことでしょう。しかし幸いにも、直撃は受けずに済みました。地の下におられるお陸様が、お守り下さったのに相違ございません。

 翌日、穴から出てみますと、辺りは一面の焼け野原で、街の様子がすっかり変わっておりました。あちらこちらに、真っ黒な丸太のような物が転がっておりましたが、よく見ますと、亡くなった人々の遺骸でございました。私はいちおう僧形をしておりますので、限られた範囲ではございましたが、亡くなられた方々の菩提を弔って回りました。

 その後、古井戸の上には、何回か住宅が建てられては壊されました。そして、50年前に、この若竹荘が建てられたのでございます。この101号室の真下が、ちょうど古井戸のあった場所なのです。それ以来、私はこの部屋に隠れ住んでおります。

 建てられたころは、若竹荘には独身の勤め人などが入居しておりました。しかし、時が経って老朽化すると、学生しか入らなくなりました。

 この部屋に入った学生は、間もなく私の気配に気付きます。どんなに静かにしていても、このとおり狭い部屋ですから。私が少しでも姿を現すと、ほとんどの学生さんは怖がります。そして、1か月ほどで契約解除し、退去していきました。

 ただ、一人だけ、森田様のように、私の話に耳を傾けて下さった学生がおられました。私が元陰間だとお聞きになると、この部屋に住まわせてやる代わりに、ロハ(タダ)でやらせろ、などとおっしゃいます。遊んで差し上げると、大変気に入られました。その学生さんだけは、4年間この部屋におられました。

 就職先が九州だったので、転居していかれました。別れ際、夏休みなどには戻ってくるなどとおっしゃっておりました。しかし、その後は一度もお見えになりません。おそらく、九州でもっと良い相手を見つけたのでございましょう。

 さて、ずいぶん長々と話し続けまして、誠に失礼いたしました。けれどもこれで、なぜ私がこの部屋に住んでいるのか、いえ、住まなくてはならないのか、幾分かはお分かりいただけたのではないかと存じます。


 *


 床助の身の上話は、ようやく終わった。彼が辿ってきた道は、とても数奇なものであった。ただ、俊介が抱いていた疑問は、解決されないままだ。

「床助さんのお話は、よく分かりました。こう言っては失礼かもしれませんが、手の付けられないワルだった床助さんが、お陸様と出会って、大人になったんですね。でも、床助さんと会った時から感じていた疑問は、まだ解けていません」

「何でございましょう」

「それは……、あなたは、いったい何なのですか? 妖怪なのか、それとも死霊や亡霊のたぐいなのか。そもそも、あなたは今この瞬間、生きているのか、それとも死んでいるのか? いったいどうなんですか?」

「森田様は、人の魂は不滅だと、お思いになりますか? つまり、人は死した後も、その霊魂は残るのでしょうか?」

 いつもは穏やかな床助の眼が、鋭い眼光を放って見開かれた。

「そうですね……。人が死んだら、何も残らないような気がしますが、正直、よく分かりません」

「そうでございましょう? それと同じで、私も私が何者なのか、よく分からないのでございます。それに、そんなことは知りたいとも思いません。私は、怨念に縛られて呻吟しんぎんしておられるお陸様を、一日も早く、お楽にして差し上げたいだけなのです。私が何者かは、深山さんが突き止めて下さるのではないでしょうか」

「深山さんですか? あまり頼りになりそうもありませんよ。でも、お前は何者か、などと不躾な質問をして、失礼しました。今後そういう質問は、二度としませんから」

「いえ、気になさらないでください。それより、気が付いたら、夕食の時間はとっくに過ぎておりますね。話し続けてだいぶ腹が減りましたので、森田様が買って来られたカップ麺をいただけないでしょうか」

「もちろんです。シーフード、豚骨とんこつ、カレー味、タンタンメン、ワンタン入り、これはベトナム風のフォーかな? 色々ありますけど、床助さんはどれにします?」

「迷いますなぁ。では、無難なところで、シーフードを頂戴いたします。お湯は私が沸かしましょうか? すくに湧きますよ」

「それは駄目です」

「やはり駄目でございますか。では、森田様にお任せいたします」

 二人は、夕食のカップ麺をすすった。

 あのように答えたものの、俊介の疑問は、喉に引っかかった魚の小骨のように、残ったままだった。


《続く》

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