第10話 忍び逢い、そして凶兆

 五ツ半と申しますのは、午前9時ごろでございます。お殿様へのご挨拶を済ませた奥様は、秋川様が手配された駕籠に乗り込まれました。私は、駕籠のすぐ横に付くようにして、伴走いたします。

 本所のお屋敷を出た駕籠は、両国橋を渡り、神田に出ました。神田神社や湯島天神のそばを通って、根津権現の前に到着いたしました。ここで駕籠は返します。

 やっと奥様と二人きりになれたので、私は胸の高鳴りを覚えながら申し上げました。

「奥様、長い道中で、さぞお疲れのことでございましょう。お茶屋で少し休まれますか?」

「床助、本日は大儀です。後からゆっくり休むとして、早くお参りを済ませましょう」

 お参りする奥様の後ろで、私も奥様のご多幸を神様にお祈りいたしました。

 お参りもそこそこに、少し離れた所にある出会茶屋に入りました。この辺りの出会茶屋の中で、一番格式の高い店を選びました。こういう時、秀菊の陰間をしていた時に、あちこちの出会茶屋に出向いた経験が役立ちました。

 2階の部屋で二人きりになるとすぐに、固く抱擁いたしました。

「奥様! 私はひと時も、奥様を忘れたことはございませんでした」

「床助、妾もです」 

 あとは口を吸い合ったので、言葉になりません。

 店の女中が茶菓さかを持ってまいりましたので、いったん離れます。

「秋川様からお話をお伺いして、心の底から驚きました。初めて奥様とお会いしたのも、秋川様のお計らいだったとは」

「床助、せめて二人きりの間は、『奥様』はなしにしましょう。『陸』と呼んでくれませぬか?」

「もちろんでございます。『後家のお陸様』でございますね。本日お陸様には、心行くまで楽しんでいただきとう存じます」

 すでに、お陸様のお体については、隅から隅まで頭に入っております。この時は、時間を気にすることなく、じっくりとお陸様を攻めて差し上げました。お陸様も、気詰まりなお屋敷から出て心安く思われたのでしょうか、乱れに乱れたのでございます。もはや初めのころのように声を押し殺すこともなく、お感じになるままに悩まし気な声を発しておられます。幾度も絶頂を迎え、時間に限りがなければ、果てしなく続くように思われました。

 そのようなお陸様のお姿を目の当たりにして、改めて、お陸様をいとおしく思う心持ちが、私を満たしたのでございます。


 しばらくして、二人は裸のまま同衾しておりました。お陸様は恥ずかしそうに、布団で顔を隠しておられます。

「お陸様、ご満足いただけましたか?」

「床助、恥ずかしいことを尋ねないで下さい」

「失礼いたしました。それにしても、本日このようにお陸様とお会いできたのも、秋川様のご配慮があったればこそ、でございますね」

「……」

「お陸様、どうなさいましたか?」

「これから話すことは、きっと他言無用ですよ。わらわには、秋川の心底しんていがまだよく分からないのです。妾が実家から伴ってきたお小夜のことは聞きましたか?」

「はい、秋川様がお話し下さいました。秋川様の部屋から金子を盗んだため、お屋敷から出されたとか……」

「いえ、お小夜は盗みをするような者ではありません。妾は、幼いころからお小夜と一緒に過ごしたので、お小夜のことは実の妹のようによく知っています。お小夜が無実であることは、間違いありません」

「そうしますと、何者かがお小夜様を陥れたのでしょうか?」

「それは妾にも分かりません。しかし、お小夜は、大変なものを見てしまったのです」

「え? それは何でございますか?」

「妾が輿入れしてからしばらくして、用人の田川殿が亡くなりました。夜、かわやに行こうとなされた時、誤って縁側から足を滑らせて、お庭に倒れ込みました。ところが運悪く、落ちた場所に大きな庭石があり、その石に頭を打ち付けて亡くなった、とのことでした」

「だいぶお年を召した方だったようでございますね」

「その夜、たまたまお小夜が奥御殿の夜勤めをしていました。深夜、御殿見回りの途中、表御殿の方を見ると、田川殿らしき殿方が縁側を歩いておられました。すると何者かが突然、御殿の中から飛び出してきて、田川殿を庭に突き落としたというのです。しかも、その者は、庭に降りて、庭石の縁に横たわっている田川殿の頭を、数回石に打ち付けたそうです」

「恐ろしいことでございますね。下手人は誰でございますか?」

「暗くて分からなかったそうです。お小夜は、すぐに御玄関棟おげんかんとうに走り、宿直とのいの者に異変を知らせました。そのあと間もなく、田口殿の死が明らかになったのです。お小夜は、夜が明けるとすぐに、一部始終を妾に話してくれました。何者かが田口殿を襲ったことについて、お小夜は宿直の者に伝えたとのことでした。また妾から直接お殿様にお話しすると、お殿様は、分かった、詳しく詮議するとおっしゃいました。しかし結局、田川殿は暗闇で足を滑らせてお庭に落下し、頭の打ちどころが悪くて亡くなった、ということで落着したのです」

「それは妙な話でございますね」

「田川殿は、先代のお殿様に長くお仕えした、いわば当家の忠臣だったと聞いています。妾の輿入れについても、家格が違い過ぎるからご再考くださいと、繰り返しお殿様に進言されたそうです。しかしお殿様は、聞き入れようとはなさいませんでした。田川殿から直接お聞きしたのですが、お殿様は幼少のころから甘やかされてお育ちになりました。母上が早くに亡くなったので、乳母の秋川が母代わりを務めましたが、お殿様を我儘わがまま放題に育てたそうです」

「そういえば、福助と私を召し抱えた際も、お殿様は相当強引だったと聞いております」

「お殿様は、一風変わったところがおありです。よくお一人で傾城町けいせいまちや怪しげな場末の町を徘徊し、そこにたむろする良からぬ者たちと交わっているようなのです。一度など、芝居の役者、幇間ほうかん、芸者、そのほか得体のしれぬ者たち、いずれも人品骨柄じんぴんこつがらの好ましからぬ連中をお屋敷に大勢連れてこられました。そして、飲めや歌えの大騒ぎ。ご自分はというと、町火消の鳶職とびしょくが着るような派手な半纏はんてんに身を包み、どこで手に入れたのやら、大きなまといを振り回しながら、三味線が奏でる木遣きやりまがいの曲に合わせて踊り出す始末」

「え? お殿様は、御殿の屋根に登られたのですか?」

「さすがに、そこまではなさいませんでした。しかし妾には、花魁の衣装を手に入れてきたゆえ、それに着替えて出てまいれとお命じになりました」

「お陸様が、花魁のお姿に?」

「いえ、お小夜に、奥様は熱が出てせっておられますと言わせました」

安堵あんどいたしました」

「このありさまを見て、ふだんは温厚な田川殿も、ついに堪忍袋の緒が切れたようです。翌日、身を挺してお殿様を諫めました。このままお殿様のご乱行らんぎょうが続くなら、自分は本家筋・皆川みながわ家のお殿様にお伝えしたうえで、諌死かんしする覚悟でございます、と申し上げたそうです」

「お殿様はどうされましたか?」

「よくぞ諫めてくれた。おかげですっかり目が覚めた。お前はやはり当家の宝じゃ。などとおっしゃったそうです。事実、それからは、遊びを慎んでおられました」

「田川様の諫止が効いたのでございますね」

「なれど、1か月くらい後に田川殿が亡くなり、その半月後にお小夜がお役御免となりました。お小夜の一件については、秋川が絡んでいる。床助はこれをどう見ますか?」

「田川様が亡くなった後、お殿様は再び遊び歩くようになられたのでございますね。だとすると……。恐ろしくて、口に出せません。ところで秋川様は、お殿様が奥様のお部屋で夜をお過ごしになることが絶えて久しい、とおっしゃいました。お殿様はどうなさったのでしょう?」

「秋川は、そんなことまで申しましたか……。房事ぼうじについて話すのは気が引けます。なれども、お小夜がいない今、心を許せるのは床助、そなただけです。話しておきましょう」

「有難うございます」

「すでに話したように、お殿様との婚儀は、家格が違い過ぎました。当初、妾の両親もそのことを危惧して、ご縁談を辞退させていただきました。しかし、お殿様が執心され、実家の暮らし向きがよくなるよう助力もしようと仰せになりました」

「福助や私を召し抱えられた時と似ております。欲しいものが目の前にあると、金に糸目は付けないお方でございますね」

「妾の実家は、御徒町おかちまちにありました。父は徒士かち(下級武士)・30石取り。母と、弟と妹がそれぞれ二人ずつおりました。暮らし向きは苦しく、屋敷——と申しても広さは今のお屋敷の十分の一ほど—―の庭で野菜を育て、傘張りや提灯張りといった内職もしていました。そのような事情もあり、お殿様のお申し出に両親も心を動かされ、お殿様のご意向に沿うこととしました。私も、実家の暮らし向きが良くなるのなら、是非もないと思いました」

「立派なお覚悟でございます。格上の家に嫁ぐとなると、苦労されることは目に見えておりますから」

「輿入れ前夜、房事について母は、とにかくお殿様のなさるまま従っておればよいと申しました。また、お小夜はどこで手に入れたのか、枕絵まくらえなるものを密かに渡してくれて、このとおりにすればよいと申します」

「枕絵ですか。私は一度、小間物屋に頼まれまして、己の一物を描かせたことがございます。あ、余計なことでございますね。失礼いたしました。お話をお続け下さい」

「初夜は、何が何だか分からず、ただ痛いだけでした。その後も連夜お殿様のお渡りがありました。今から思うと、お殿様は酷く乱暴でしたが、妾はこらえるしかありませんでした。ある日、秋川を通じてお殿様からお指図があり、町娘風の着物が届けられました。今夜はこれを着て待っているようにとのことでした」

「花魁の衣装の前は、町娘でしたか」

「お言い付けどおり、町娘の着物を着てお待ちしていました。お渡りになったお殿様のお姿を見て、妾は驚きました。場末でとぐろを巻いている与太者のように、町人風の着流しを着崩したお姿です。部屋に入るなり、『女、手籠めにしてやる!』と叫ぶと、妾に襲い掛かってこられました。突然のことで、何が何だか分かりません。『お許しください!』と叫んでも、お殿様は聞き入れる素振りも見せません。そればかりか、『このアマ!』などと口走り、妾の上に馬乗りになります。妾の頬をてのひらで張ると、渾身の力を込めて、妾の着物を剥ぎ取ろうとします。恐怖に駆られた妾は、とっさに体が動いて、お殿様の股間を膝で力いっぱい蹴り上げてしまいました。妾も武家の女。身を守る術は心得ておりましたゆえ。お殿様は『ぎゃっ!』と叫ぶと、ご自分の股間を抑えて、ひっくり返りました」

「さすがはお陸様!」

「妾ははっと我に返り、『お許しくださいませ! お怪我はございませぬか?』と叫びながら、お殿様に駆け寄りました。しかしお殿様は、『余に触るな!』とおっしゃって、思い切り妾を払いけました。妾は、部屋の隅で、平伏する他ありませんでした」

「股間は男の急所です。あれはとても痛い」

「やがて、お殿様は立ち上がって、『本来は手打ちにいたすところであるが、今回だけは許してやる。ただし、余は二度とここへは来てやらぬ』とおっしゃいました。相変わらず股間に手を当てながら、表御殿に戻って行かれました」

「いけないと思いつつ、つい顔が笑ってしまいます」

「翌日、秋川が妾の部屋に来て、厳しい表情を浮かべて申しました。『昨夜、お殿様に乱暴をお働きになったそうでございますね。大身の旗本の奥様として、何たる下品なおふるまい。いくら小身の御家人のご出身といえども、決して許されるものではございませぬ』と、妾を叱責します。行き掛りがどうであれ、お殿様に乱暴を働いたのは真ですから、妾は何も言い返すことができませんでした」

「お陸様は何も悪くございません。お殿様のお振る舞いが、尋常でなかったのです」


 このようにして、奥様と私は、体だけでなく、心も通じ合い、何でも打ち明け合う間柄となりました。奥様と私は、月に1、2回、江戸各地の神社仏閣を訪ねては、逢瀬を重ねました。この時期こそ、私は生涯で最も幸せでございました。


 は? 何でございますか、森田様。お峰に対する罪悪感はなかったのか、でございますか?

 己に都合のよい考え方だと言われれば、そのとおりですが、私は陰間でございます。この仕事については、お峰も承知しておりました。お屋敷に移った後、奥様のご相手をするのも、陰間としてだと自分に言い聞かせておりました。もっとも、お参りの後に出会い茶屋に立ち寄ることは、お峰にも秘密にしておりました。それは、秋川様とのお約束でもありましたから。


 楽あれば苦ありと申しますが、良いことばかり続くものではございません。

 ある日、新しく召し抱えた剣術指南役を紹介するから、奉公人は表御殿前のお庭に参集するようにとのお触れがございました。福助と私を含め、手の空いている者数十人が集まりました。

 御殿の縁側に、お殿様、用人・小野田様、そして、剣術指南役と思しき大柄の侍が立っており、小野田様が紹介いたします。

「この御仁ごじんは、もと下野国しもつけのくに堀田ほった家家中、虚空一刀流こくういっとうりゅう免許皆伝――」

 私は、自分の顔から血の気が引いていくのを感じました。

「田宮孫兵衛殿である。田宮殿には、当家剣術指南役として、若君様方に剣術をご指南いただく――」

「これは、大変なことになりました」

 私は、隣に立っている福助に囁きました。

「ん? どうした?」

「あれですよ、あれ。来ちゃいました」

「田宮……、あれか!」

「そうです、あれです」

「お前、どうする?」

「どうしましょう。教えてほしいです」

「と言われてもなぁ」

 とりあえず、その場は挨拶だけで、すぐに解散となりました。

 いったいどうして、田宮孫兵衛が当家に現れたのか?

 すでにお話ししたとおり、孫兵衛は新月村の旦那衆からの依頼もあり、自分の妻を寝取った間男、すなわち私を討ち取るため、江戸にやってきたのでした。

 しかし、討ち漏らしたばかりか、浅草の町で私からさんざん愚弄されました。挙句の果てに、酒色に溺れて路銀を使い果たし、空しく太田宿の自宅に戻ったのでございます。難を恐れた妻はすでに出奔しており、孫兵衛もいつの間にか姿を消した、というところまでは分かっておりました。

 孫兵衛には、私が当家にいることは容易に知れたと考えられます。人気者の福助が、稲葉家に召し抱えられたことは、瓦版などで江戸中に知れ渡っておりました。人気者とはいえ一介の芸人が、大身の旗本に召し抱えられて異例の出世を遂げたとして、福助人形の売れゆきにも拍車が掛かったと聞きます。福助がいる所、床助がいるはずだ……、容易に推測できます。

 当家では、しばらく前から剣術指南役を探しておりました。当家に目を付けていれば、剣術指南役を探しているとの話が孫兵衛の耳に入っても、なんら不思議ではございません。そこから考えられるのは、ただ一つ。孫兵衛はまだ女敵討まがたきうちを諦めてはいない、ということでございます。いやはや、恐ろしく執念深い男でございます。

 幸い、私は奥御殿のお庭番ですし、住まいは御殿から少し離れた長屋です。一方、孫兵衛は表御殿の一室を与えられました。同御殿にいらっしゃる若君様の剣術指南は、主に同御殿前のお庭や、その一角に設けられた道場で行われます。私は、お屋敷の中で孫兵衛と鉢合わせする機会はそうそうあるものではないと、自分に言い聞かせました。とはいえ、いくら広いお屋敷だとしても、いつかは出会うでしょう。まして、孫兵衛が虎視眈々こしたんたんと私を狙っているとしたら……。


 数日してから、福助が私の部屋を訪れました。

「同じ若君様方のお相手として、孫兵衛様とは何回か会う機会があったが、お前については、今のところ何の話もないよ」

「かえって不気味です」

「そうだよ。お前さんを油断させようという魂胆かもしれないよ」

 お峰も、孫兵衛の突然の出現に、戦々恐々としております。何しろ、新月村や太田宿における間男の黒幕は、他ならぬお峰なのですから。もしそのことが孫兵衛に知れたら、お峰もどんな目に遭わされるか分かりません。

「いくら孫兵衛でも、お屋敷の中でお前を斬るなんてことはできないだろう。非番の時に、屋敷の外に出た時が危ないかもしれないな。しかし、女敵討ちはもう諦めて、忘れたのかもしれないよ。あまり心配するな」

 お人好しで、容易に人を信じるのが、福助の良い点なのですが、命が掛かっている私としては、そう簡単に安心することはできません。


 お屋敷に孫兵衛が来てから、半年ほど経ちました。その間、私が孫兵衛と出会う機会はございませんでした。秋が深まり、冬の訪れが近付くと、江戸の町では流行はややまいが広がって、死人しびとも出てまいりました。

 お殿様から、奥様の寺社もうでは当面控えるようにとのご沙汰がございました。といっても、お殿様自身は、これまでどおりお出掛けを続けておられました。おそらくあちこちの岡場所や、吉原でも河岸店かしみせ局店つぼみせといった最下級の女郎屋に入り浸っておられるのでございましょう。外泊も頻繁で、田川様との約束は、すでに反故ほご同然でございました。

 奥様の外出が禁じられたため、奥様との逢瀬もなくなってしまいました。私は奥御殿に上がることはできません。奥様にとってお小夜との思い出が残るお庭のお世話に、ひたすら丹精を込めるばかりでした。しかし季節柄、世話をする草花の種類は多くありません。お庭には、梅の木が一本だけありました。私は植木には詳しくございませんでしたので、表御殿に出入りする植木職人の老人に教えてもらって、梅の枝を剪定せんていいたしました。年が明ければ花を咲かせて、奥様に早い春の訪れを告げるはずでございます。その時は、そう信じて疑いませんでした。


 奥様と会うことができず淋しく思っていたところ、秋川様からお呼び出しがあり、お部屋に伺いました。

「来たか床助。そこにお座り」

「はい、何でございましょう?」

「お殿様からいただいた菓子があるが、ひとつどうじゃ?」

「はい、いただきます」

 秋川様は、後ろの箪笥から菓子を取り出し、私の前に置かれました。

落雁らくがんという菓子じゃ。滅多に食すことができぬ高価な菓子じゃ。……。どうじゃ?」

「これは、頬が落ちそうでございます」

「そうか。ところでな。市中の流行り病は、収まるどころか、ますます広がっているらしい。奥様がお出掛けできるようになるのも、だいぶ先だろう」

「ちかごろ奥様とお会いしておりませんが、お変わりございませんか?」

「寺社詣でが出来なくなって、塞いでおられる。このままでは、気鬱きうつの病になられるのではと、妾は気を揉んでおる」

「私に出来ることがあれば、何なりとお命じ下さい」

「さっそくじゃがな、今夜、奥様の寝所へ行き、お慰めしなさい。夜四ツに伺うのじゃ」

「え! お屋敷の中で、というのはいかがなものでしょう。万が一お殿様に知れたら、一大事でございます」

「心配無用じゃ。お殿様は今夜、向島むこうじま妾宅しょうたくにお泊りじゃ」

「お殿様には、おまかけがおいでですか?」

「お前は知らずともよい。今夜お殿様がご不在であることをお知りになった奥様が、お前をよこすよう、妾にお命じになったのじゃ。寝所までの行き方は――。今言った刻限を忘れるでないぞ。お前がお慰めすれば、奥様の心も少しは晴れるであろう」

 私は、奥様が私をお呼び下さったことが嬉しかったですし、何より久しぶりに奥様に会える喜びで一杯でした。しかし同時に、屋敷内ということで、一抹の不安を拭い去ることができませんでした。

秋川様に命じられた夜四ツは、現在の午後10時ごろです。

 それまでの時間が、ずいぶん長く感じられました。


《続く》

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