第9話 運命の再会

 翌日午前10時に深山が訪ねてきたので、床助に引き合わせた。

「床助さん、私はあなたと会えて大変光栄ですし、とても嬉しい。今、とても興奮しとります!」

「はあ、そうでございますか。私なぞ、特段取るに足らない者でございますがね」

「いえいえ。座敷童ざしきわらしにお会いできるとは、想像だにしませんでした。これが感激せずにおられましょうか!」

「は? 座敷童ですと? 何ですか、それは」

「いえ、あの。私が研究している学問で、そう呼んでいるというだけのことです。気になさらないでください。座敷童は、神様に分類されることもあるんですよ」

「私が神様? ご冗談がお上手ですな。私は神様どころか、地べたを這いずり回るように生きてきた、でございますよ」

「あの、床助さんに、いろいろお伺いしたいのですが、よろしいですか?」

「はい。しかしながら、私がなぜ、ここにいるのかという話を、森田様にしておりまして、まだ終わっていないのです。ですから、まず話の続きをさせていただきたいと存じます。途中からお聴きになっても、よくお分かりにならないかもしれませんが、それでもよろしければ、深山様も一緒にお聴き下さい」

 床助は、お茶を一口飲み下すと、話し始めた。



 江戸の本所ほんじょに、稲葉いなば山城守やましろのかみ泰明やすあき様というお旗本がおられました。石高こくだかは5,000ごくでしたので、お旗本の中でも大身たいしんの部類と申せましょう。先年、御父上の右膳うぜん様が亡くなられ、家督を継がれたのでございます。

 お城でのお役は「寄合よりあい」でございました。このお役は、寄合金を負担するものの、日頃のお勤めはございませんでした。

 ここで、稲葉様のお屋敷においでになる主だった方々をご紹介しておきましょう。

 お子様は、死別した前の奥様との間にお生まれになった二人の若君様で、松寿丸しょうじゅまる様は九つ、松王丸まつおうまる様は七つになられます。

 昨年後添のちぞいとして、さる御家人の家から、おまき様が輿入れなさいました。

 それから、お殿様の補佐役として用人ようにん小野田おのだ様がおられました。

 最後に、奥向きのいっさいを取り仕切っておられるのが奥女中の秋川あきかわ様で、泰明様ご幼少のころは、泰明様の乳母うばを務められた方でございます。


 さて、春もたけなわのある日、泰明様は二人の若君様と、供の者一人を連れて浅草・猿若町さるわかちょうで芝居見物をなさいました。その後、奥山の見世物小屋を回られて、福富座に立ち寄られました。以下は、私が後日知った話でございます。

 若君様方には、芝居はあまり面白くなかったようですが、見世物には大喜びでございました。なかでも福助の芸や口上が、ことのほか気に入られたようでございます。

 お屋敷に戻られてから、稲葉様は二人の若君様をお呼びになって、おっしゃいました。

「お前たちは、いたく福助が気に入ったようであるな。どうじゃ、福助をお前たちの遊び相手に召し抱えるか?」

「父上、それはまことでございますか? そうなれば嬉しゅうございます」

 お二人は思ってもみなかった話に、目を輝かせました。

「ただし、そのためには父と約束をせねばならんぞ。どうも近頃、お前たちは剣術の稽古けいこに身が入っておらんようだ。まあ、屋敷の者の中に剣の使い手がおらんから、一概にお前たちを責めるわけにはいかんがな。それでじゃ。お前たちが剣術の稽古にこれまでの倍くらい励むと約束するなら、当家で福助を召し抱えてもよいぞ」

「え? もちろんお約束いたします。松王丸も同じだな?」

「はい!」

「そうか、そうか。二人とも、良い心掛けじゃ。しからば、福助を当家に迎えるとしよう」


 翌日、稲葉家用人・小野田様が福富座を訪ねられ、泰明様ご所望の件を市之丞様にお伝えになりました。しかし、今や福助は福富座の大看板でございますし、その人気は高まりこそすれ、衰えをみせておりませんでした。市之丞様は、丁重にお断りいたしました。

 ところが翌日、泰明様ご自身が供も連れずに、ふらりと福富座を訪れたのでございます。市之丞様が応対いたしました。

「昨日、小野田が申したとおりじゃ。カネに糸目は付けぬから、そちの言い値でよい。福助の人気は重々承知しておる。しかし福助とて、いつまでも見世物小屋勤めというわけにもまいるまい。余が召し抱えれば、福助のためにもなろう。どうじゃ?」

「へえ、お殿様にそこまでおっしゃられては、いいも悪いもございません。承知いたしました。ただ、本人にも尋ねてみませんと……」

「おお、もっともである。さっそく、ここに連れてまいれ」

 すぐに福助がやってきて、ご挨拶したうえで申し上げます。

「身に余る有難いお話で、大変恐縮しております。市之丞様さえ承知なされば、もちろん私に異存ございません。どうぞ、よしなにお取り計らいのほど、お願いいたします」

「うむ。ところで、お前には弟がおったな。確か床助とか申して、芳町の陰間茶屋におるのだろう?」

「そのとおりでございます。よくご存じでございますね」

 市之丞様が驚きの声を上げます。

「わしは花街かがいのことにも、いささか通じておるのでな」

「床助は私の弟に間違いございません。床助がどうかいたしましたか?」

「お前だけでなく、床助もともに召し抱えるぞ」

「え! そうでございますか。ただ、床助には妻子がございますが」

「妻女には、台所働きでもしてもらおう。屋敷内には長屋もあるのでな。妻子ともども、住まわせてやる」

「ますますもって結構なお話でございます。しかしながら、床助は容貌魁偉と申しても過言ではございません。若君様のお相手を務めさせるのは、なかなかに難しいと存じます。何か、他のお仕事はございませぬか?」

「仕事などいくらでもある。善は急げじゃ。明日あすでも明後日あさってでも、できるだけ早くまいれ」

 そうおっしゃると、泰明様は疾風はやてのように去っていかれました。

 入れ違うように、弥太郎さんが部屋に入ってきます。

「話は隣で聞いておりました。福助、良かったな」

「有難うございます。市之丞様、弥太郎様には、新月村以来、本当にご厄介をお掛けいたしました。何とお礼を申し上げればよいのやら……」

「お屋敷勤めも色々と気苦労が多かろうが、こんな見世物小屋にいるより、ずっといいだろうよ。お前を失うのは福富座にとって相当に痛いが、弥太郎と力を合わせて、何とかするさ」

「ただ、おめでたい話に水を差すつもりは毛頭ありませんが、ちっと気になることもありますぜ」

 弥太郎さんが、心持ち声の調子を下げておっしゃいます。

「何だい弥太郎。言ってみろ」

「稲葉様は確かに大身のお旗本です。ただ、あまり芳しくないお噂もあるようで」

「どんな噂だ?」

「遊びの度が少々過ぎている、という噂で。先代が亡くなられた後、先代にお仕えしていた用人・田川たがわ様がご健在なうちは、稲葉様も大人しくしておられたようです。ところが、田川様が昨年お亡くなりになった途端、稲葉様の遊びが派手になったと聞きます」

「カネと暇のある大名や旗本なら、遊びが豪勢でもおかしくはないだろうよ」

「お大尽だいじんの遊びならよいのでしょうが、どうもそうではないらしいんですよ。ご自分がこうだと思われると、何が何でも押し通さないとご納得いただけず、店や遊女との揉め事も少なくないそうで。そのため、吉原の大見世おおみせ(最も格の高い妓楼)や中見世ちゅうみせでは、迷惑がられていて、体よく断られることも少なくないとの噂があります。だからというわけでもないのでしょうが、稲葉様は、吉原だけでなく、あちこちの岡場所にも、足繁く通っておられるようですぜ。たとえば、品川や内藤新宿といった宿場の飯盛女めしもりおんなや、寺や神社の近くにある水茶屋の茶汲女ちゃくみおんな。果ては場末の夜鷹よたか舟饅頭ふなまんじゅう蹴転けころ(いずれも最下層の遊女)といった、大身のお旗本にはてんで似つかわしくないやす女郎まで、手当たり次第だとか」

「へーぇ、そりゃ、ずいぶん変わったお殿様だなぁ。まあ、天下太平が続いているもんで、自堕落なお旗本や御家人も少なくない、とは聞いてるがな。それで福助よ、どうする? 止めるか?」

「いえ、一度承ったことを覆すとなると、差し障りも大きいでしょう。それに、私は若君様方の遊び相手ですので、お殿様とはあまり関わらないで済むのではないでしょうか」

「そうか、福助らしいな。だが、あまり無理するなよ。困ったことがあったら、俺や弥太郎に相談しろ。お前には、だいぶ儲けさせてもらったからな。遠慮はいらねぇぜ」


 福助や私達がお屋敷に移ったのは、それから1週間後でございました。

 稲葉様のお屋敷は、およそ2000坪もあろうかという豪壮なものでございます。

 お殿様つまり泰明様は、ふだん表御殿おもてごてんにおられ、別棟の奥御殿おくごてんには、奥様のお牧様が暮らしておられました。

 元服前の若君様方のお部屋は、普通は奥御殿にあることが多いようですが、稲葉様の場合、お二人のお部屋は表御殿にございました。お二人が先妻のお子様だからかもしれません。

 私達は身支度をしてから、表御殿前のお庭に行き、福助を真ん中にして、私やお峰、そして俊介が、かしこまって平伏いたしました。

 しばらくして、お殿様やご家族がお出ましになりました。

 御殿のえんに、お殿様を真ん中にして、奥様、二人の若君様が居並び、斜め後ろに奥女中・秋川様、用人・小野田様が控えておられます。

 私達のような町人を召し抱えるに際して、お殿様直々にお出ましになるというのは、あまりないことでございます。これも、福助の人気と、若君様方の遊び相手というお役のためでございましょう。

おもてを上げよ」

 お殿様に命ぜられ、私たちはお殿様やご家族の方に顔を向けました。

 その時です、奥様の表情がさっと変わりました。心中の激しい動揺を隠しきれず、お顔に現れているように見えました。

 そればかりではございません。私も、心の中で「あっ!」と叫びました。

 目の前におられる奥様は、私が出会い茶屋で逢瀬を重ねたお陸様に生き写しだったのでございます。いえ、お陸様その人に間違いございません。

 奥様の驚きは、察するに余りありました。しかしここで、それをお殿様に気取けどられるわけにはまいりません。必死に動揺を隠そうとなさっているに違いありません。

 お殿様と奥様はほぼ並んで座っておられましたので、お殿様から奥様の表情は見えないはずでございます。ところが、もしかすると奥様の動揺を察知されたのかもしれません。奥様の方に顔を向けて話しかけられました。

「ん? 奥、どうした? 気分でも悪いか? 顔色が良くないぞ。奥は見世物小屋に行ったことはないだろうから、この者達は初めてだな? 真ん中におる福相ふくそうの者が福助じゃ。奥山では人気第一でのぅ。福助人形なるものまで売り出され、飛ぶように売れておるそうじゃぞ」

「ご心配いただき有り難うございます、お殿様。なれど、気分はいたってよろしゅうございます」

 そうおっしゃってはおられますが、奥様の動揺は、まだ収まらないようでございます。

「そうか。さて、福助の隣に控えておる、炭団たどんの如き者は、福助の弟で床助と申す者じゃ。芳町で陰間……と言っても、奥には分かるはずもないな。芳町で客商売をしておった。床助の後ろにおるのは、妻女と子じゃ」

「……」

 頷く奥様の視線は、私を飛ばしてお峰と俊介に注がれました。

 と、お殿様が出し抜けに大きな声でおっしゃいました。

「奥、良いことを思い付いたぞ! 床助を奥御殿の御庭番にいたそう。奥が育てておる草花の世話でもさせたらどうか」

「有難いお言葉ではございますが、それは、もったいのうございます。ぜひお殿様がお使い下さい」

「いや、遠慮はいらん。それに、信心深い奥は、あちらこちらの寺や神社に詣でておるな。その際には、床助を供にしてまいれ。近ごろ、江戸の町も物騒になってきたからのぅ。女中ではいささか心許こころもとない」

「ですが……」

 その時、秋川様が口を開きました。

「奥様、せっかくのお殿様の思し召しでございます。是非、仰せのとおりになさりませ」

 少しの間、沈黙が続きました。

「それでは、お殿様のお言葉に甘えまして、そのようにさせていただきます。お心遣い、誠に有難うございます」

「おお、それがよい。ただ、今宵はわしが床助を借りる。さて、松寿丸、松王丸よ。父との約束をゆめ忘れるでないぞ」

「もちろんでございます。なれど、本日は早く福助と遊びとうございます」

「そうか。今、当家で召し抱える剣術指南役を探しておる。指南役がまいれば、剣術の稽古で手一杯になるかもしれぬからな。今のうちに、たんと遊んでおけ」


 その夜、私はお殿様のお相手を命ぜられました。夜伽よとぎが済んで、私達に割り当てられた長屋の一室に戻った時には、すっかり夜も更けておりました。

 お峰は、まだ起きておりました。

「お前さんが、やっと陰間茶屋勤めから足を洗えたと喜んだが、今度はお殿様のお相手かよ。ずいぶん好色なお殿様だ。お前さんも大変だねぇ」

「おい、滅多なことを口にするんじゃないぞ。長屋の壁は薄いんだ。誰が聞いているか分かりゃしない。たぶん、お殿様のお相手は今夜だけだろう。あまりお気に召さないご様子だったからな」

「ならいいんだけど。ところで、奥様はずいぶんお美しいお方だね。まだ、あどけない感じもする。ただ、ちょっと気になったことがあるんだよ。あたし達がご挨拶した時、奥様のご様子がおかしくなかったかい? ひどく慌てたご様子に見えたんだけど」

 秀菊で働いていた時分、私が陰間勤めしていることは、包み隠さずお峰に話しており、お峰も承知しておりました。しかし、お陸様のことはいっさい話しておりませんでした。

「そうか? 俺には、そうは見えなかったがな」


 翌日から私は、奥御殿の御庭番として勤めました。御庭番といっても、江戸のお城で上様にお仕えする用人のような重いお役ではなく、文字どおりの単なる庭番でした。

 御庭番は、御殿に上がることはできません。奥様の身の回りのお世話は、奥様付き女中が勤めるのでございます。

 後日知ったのですが、奥様はお輿入れの際、ご実家からお小夜さよという女中を伴って来られたそうでございます。奥様と同じくらいの歳で、幼少のころから奥様に仕えておりました。そのため、奥様は誰よりもお小夜を信頼し、実の妹のように思っておられたようでございます。

 ところが、半年くらい前、お屋敷内でちょっとした騒動がございました。

 奥御殿には、秋川様が住まわれている部屋がございました。その部屋の箪笥にしまってあった秋川様の金子きんすが、突然なくなったのでございます。奥御殿中を隈なく探しますと、お小夜が住み込んでいる小部屋から、その金子が出てまいったのでございます。お小夜は、まったく身に覚えがないと訴えました。しかし、お殿様はたいそうお怒りになり、小野田様に厳しく詮議するようお命じになりました。

 今と違って、拷問や過酷な折檻がまかり通っていたころでございます。お小夜は逆さ釣りにされ、木刀で何度も打ち据えられました。気を失えば冷や水を浴びせられました。耐え切れなくなって罪を「白状」したお小夜は、ただちに女中を罷免され、屋敷から追放されたのでございます。

 奥様には、お小夜が盗みをするとは、到底信じられません。しかし、どうすることもできませんでした。そればかりか、その後のお小夜の行方さえ、奥様には知らされなかったのでございます。

 今では、奥様の周りに気心の知れる者は一人もいないようでございます。

 奥御殿のお庭は、表御殿のお庭に比べれば、こぢんまりとしておりました。その一角が耕されていて、菊や桔梗ききょうといった草花が植えられておりました。おそらく、奥様とお小夜が、楽しそうに語らいながら植え育てたのでございましょう。


 数日後、私は秋川様に呼ばれ、お部屋にお伺いいたしました。そこで秋川様から、驚くべきことを聞かされたのでございます。

「おお、床助か。そこにお座り。奥様のご様子はどうじゃな?」

「奥様はお部屋から出てこられず、いまだお会いしておりませんので、ご様子は分かりかねます」

「やはりそうか。奥様の身が案じられるのぅ」

「何かご事情がおありなのでございますか?」

「お前には話しておこう。くれぐれも口外無用じゃぞ。実はな、お殿様が奥御殿へお渡りなさらなくなって久しいのじゃ。奥様がご当家に来られた当座は、お殿様のご寵愛、一方ひとかたならぬものがあった。しかし、ほどなく絶えてしまったのじゃ。奥様は知ってのとおり、まだまだお若い。それなのに、お殿様から一顧だにされぬというのは、あまりにお気の毒なことじゃ」

「奥様は誰が見てもお美しいお方なのに、なぜお殿様はお渡りなさらないのでしょう?」

「奥様のご実家は30石取りの御家人で、本来稲葉家と釣り合う家格かかくではない。ところがお殿様は、猿若町の芝居小屋でたまたま奥様を見染めて、半ば強引に輿入れさせたのじゃ。わらわはお殿様が赤子の時からお世話しておるが、お殿様はこうと決めたら梃子てこでも動かぬご気性きしょうでな。しかし、お飽きになるのも早いのじゃ。それに、花街がことのほかお好きときておる。じゃが、お殿様が奥様を嫌われるようになったのには、それ相応の訳がある」

「それは、何でございますか?」

「これも、他言無用じゃぞ。ある晩、奥様がお殿様に、とんでもない無礼なお振る舞いをされたのじゃ」

「どんなお振る舞いでございますか?」

「驚くべきことに、閨房けいぼうにて、お殿様の急所を膝蹴りなさったのじゃ」

「何ですって! 奥様に限ってそのような乱暴を働くとは、とても信じられませぬ」

「お前、妾が嘘をついておるとでも申すのか?」

 秋川の眼が、鷹の目になって床助を射竦いすくめた。

「いえ、とんでもないことでございます。あの、それで、私をお呼びになった訳は、いかなるものでございましょう?」

「ふふふ。今お前は図らずも、奥様はそのようなことが出来る方ではないと申したな。それは、お前が以前から、奥様をよく存じているからであろう?」

「そ、そのようなことが、あるわけがございません」

「隠さずともよい。実はな、出会茶屋で奥様をお前に逢わせるように差配したのは、他ならぬ妾なのじゃ」

「何ですと! それはいったい、どういうことでございますか!」

 私の心は、夏の盛りに吹雪にでも遭ったかのように、千々に乱れました。

「若い身空で空閨くうけいかこつ奥様が不憫でならなかった妾は、一計を案じたのじゃ。妾は、将軍家に仕える御殿女中と同じく、ずっと独り身で当家にお仕えしておる。若い時には、陰間茶屋を使ったこともあってな。少しでも奥様をお慰めできればと考えたのじゃ」

「ではなぜ、私をご指名なさったのでございますか?」

「妾の配下で、信頼のおける女中に、良さそうな陰間を調べさせたのじゃ。お前は、男客からの評判はあまり芳しくないが、女客の間では、一番人気であったそうな」

「そこまでご存じでございましたか……」

「奥様にお話したが、そのようななことはできぬと、首肯なされなかった。しかも、万が一お殿様のお耳にでも入ったら、大変なことになる。そのような恐ろしいことはできぬと、きっぱりおっしゃられたのじゃ」

「そうでございましょう」

「妾は、後家という触れ込みにすること、寺や神社に詣でるていにすること、大きな寺社の近くには、密会に適した出会茶屋というものがあること、道中は頭巾ずきんを被っていただくこと、妾の配下の口の堅い女中をお供に付けること、お殿様に知られぬよう妾が万全の目配りをすること、などを縷々るるご説明申し上げた。すると奥様はついに、試みに一度だけお出掛けいただくことを承知なされたのじゃ」

「そうだったのでございますか! どうりで、初めてお会いした際、奥様はどこかおびえたようなご様子でした」

「しかし、お前は妾が見込んだだけのことはあったな。奥様は、一度きりでお止めになるかと思ったが、その後もお出かけになったからのぅ。よほど、お前を気に入られたのであろう」

「陰間冥利に尽きます」

「そこでじゃ。お殿様がお前に奥様のお供をお命じになったであろう。お供する際には、陰間の時と同様、奥様をお慰め申し上げよ。茶屋代などは妾が出すゆえ、お前はお供をして、お慰めするだけでよい。そればかりか、お前には給金とは別に、妾から特別に手当てを出そう」

「お、お待ちくださいませ。万が一そのことがお殿様に知れましたら、私ばかりか奥様も死を覚悟せねばならないでしょう。そのような危ない橋を渡るのは……」

「安心なさい。このことは、奥様、妾、そしてお前の3人だけの秘密じゃ。お殿様は吉原通いに夢中になっておられるゆえ、お気付きになることは万に一つもない。お峰にも言ってはならぬぞ。すでに奥様にはお話しして、お許しを得ておる。というより、強くお前をご所望じゃ。さっそく明日は、根津権現までお供せよ。朝五ツ半に駕籠かごが一ちょうお屋敷に来るから、奥様をお乗せするように。この金子を使いなさい。多めに入れてあるから、余りはお前が取っておけ」

 秋川様は、袱紗ふくさの包みを私の前に置きました。

 こうなった以上、もはや後には引けません。それに、奥様と再び情を通じることができると思うと、私は嬉しくて仕方ございませんでした。



 そこまで話し終えた時、深山が声を発した。

「あのぅ、お話し中、恐縮ですが、私はこれからアルバイトがあって、失礼しなければなりません。お話も佳境に入ってきたところのようで、大変残念なのですが。床助さん、是非また機会を見て、お話を聞かせて下さい」

「もちろんですよ。アルバイトは何をなさっているのですか?」

「コンビニ店です。それから、夜は学習塾の講師です。何しろ、学費と生活費を稼がなければなりませんので。ところで、床助さん。何か欲しいものはありませんか? 話を聞かせてもらうお礼に、何か差し上げたいのです」

「いえ、お気遣いいただかなくて結構でございますよ。ただ、しいて申し上げるなら、自分用の布団でございますかな。夜寝る時、森田様の布団に入るわけにはまいりません。森田様が嫌がられますので。仕方がございませんので、押し入れの中に、畳んだ段ボールを敷いて寝ております」

「それはお気の毒に。私に任せて下さい」

 深山が帰ると、床助は再び話し始めた。


《続く》

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