第8話 大山(だいせん)の雪女

  翌朝、俊介は大学に出かけた。出掛ける前に、押し入れの襖を少し開けて床助を見ると、まだ眠っているようだった。

 キャンパスは学生が行き交い、活気にあふれていた。コロナ前と違うのは、みなマスクをしているのと、部外者の立ち入りが制限されている点くらいだろう。

 俊介は、自分が属している法学部の棟ではなく、文学部棟に向かって、足早あしばやに歩いていった。文学部棟に入ると、教員の研究室が並んでいる区域に行き、ドアに「石川勘太郎」という名札が掲げられた部屋の前で立ち止まった。

 ドアをノックしたが、応答がない。何回か繰り返しても同じなので、諦めて戻ることにした。ドアから10mくらい離れた時だ。

「そこの方! ノックしましたか?」

 振り返ると、石川研究室のドアを半分開けて、石川教授らしき人が顔を出している。俊介は、急いでドアの前に戻った。

「あの、私は、法学部2年の森田と申します。石川先生ですね?」

 男は、俊介の問いには答えず、

「立ち話ではなんだから、中に入って」

と、俊介を招き入れた。

 壁一面の書籍に囲まれた部屋の真ん中に、テーブルと椅子がある。

「まあ、そこに掛けて」

「はい」

「石川先生はいないよ」

「え?」

「学会に出席するため、福岡に出張してる。学会の後、九州でフィールドワークをする予定だから、1か月近くは戻らない。君は、大学のポータルサイト、見てないの?」

「見ていません。僕は法学部なもので……」

「あ、そう。先生の授業をとっているわけじゃないんだ」

「とってません。あの。失礼ですが、あなたは、どなたですか?」

「あ、これは失礼。私は石川先生の研究室に所属している、院生の深山みやまです。博士課程にいます」

 深山は頭を丸刈りにしているが、刈ってからだいぶ経っているらしく、生臭なまぐさ坊主のように毛が伸びている。それに、頬や顎には不精髭があり、全体的にむさ苦しい印象だ。着ている茶色のジャケットも、だいぶ草臥くたびれている。

「私は、先生が不在のあいだ研究室にいて、学生からの質問や相談にのっている。まあ、師範代しはんだいといったところかな。自称だけどね」

 俊介があとで知ったことだが、大学院生の深山時次郎ときじろうは、修士課程を4年かけて修了した後、博士課程に進み、今年度で4年目だ。それぞれの所要最低在籍年数は、修士課程が2年、博士課程が3年だから、相当回り道をしている。

「ところで、君は法学部で、石川先生の授業は履修していないと言ったね。先生には、どういう用件で来たの? もしかして、個人的なお知り合いか?」

「いえ。先生にお会いしたことは、まだありません……」

 俊介は、大学のウェブサイトを見て色々検討した結果、民俗学が専門の石川教授に相談してみようと思い至った。石川教授のプロフィールページに、著書の一つとして『怪異に関する実証的研究』という本が掲載されているのに目が留まったのだ。俊介は、民俗学に関する知識は皆無だし、まして、その本を読んだことはない。しかし、床助について相談するのには、その先生が適しているのではないかと思った。

 だが、石川教授がいないからといって、院生の深山に床助のことを話すべきか、俊介は迷った。床助のことが世間に広まったら、どんな事態に発展するか、想像がつかないからだ。

「あの。先生が帰って来られたら、また来ます」

「あ、そう。先生は、来月中旬ごろ帰る予定だよ。その頃、また来ればいい。今度は、事前に大学ポータルサイトで、先生が休講でないかどうか確かめた方がいいよ」

「ありがとうございます」

 俊介は、立ち上がろうとした。

「あ、ちょっと待って。森田うじ、時間ある? せっかくだから、先生の現在の研究テーマとかを話してあげるけど。ここへ来たということは、君も民俗学に興味があるんでしょ?」

「はあ。まあ……。ではお願いします」

 実は、もうすぐ「民法概論」という授業が始まる時刻なのだが、大教室で行われる授業で、出欠を取るわけでもないから、今日はサボることにした。

「よかった。実はね、ちょっと暇を持て余していたところなんだ。緑茶とホットコーヒー、どっちがいい?」

「コーヒー、お願いします」

 しばらくして、深山がコーヒーカップを二つ持ってきた。俊介が口を付けると、インスタントコーヒーのようだ。しかも砂糖をたくさん入れたらしく、ガムシロップのような甘さだ。

「あの、質問なんですが、石川先生の著書に『怪異の実証的研究』というのがありますね。怪異というのは、お化けや妖怪のことですか?」

「まあ、そうだね。あと、いわゆる都市伝説と呼ばれるような、最近の事象も含んでいる」

「実証的というのは、どういう意味ですか?」

「実証的といっても、別に妖怪や幽霊を探し回ったり、捕まえたりしようというのではないよ。そうだな、分かりやすい例を挙げると、河童かっぱという妖怪がいるでしょ?」

「はい。川や沼なんかにいて、頭の上に皿があるという、架空の動物ですね」

「現在我々が知っている河童像が、どのような経過をたどって形成されたのかを解明しようとするわけだ。その際に手掛かりとするのは、古文書もあるけれど、各地方の言い伝えや風習が重要な位置を占めている。具体的には、村の古老ころうからの聞き取りや、その土地に伝わる多種多様な風習や祭礼の取材記録が、有力な資料となる」

 深山の話は、徐々に熱を帯びていった。

「まあ、こういった考え方や手法自体は、そう目新しいものではないんだ。森田氏も、柳田邦男先生の名前を聞いたことがあるでしょ?」

「はい。名前くらいは」

「柳田先生の『遠野とおの物語』は、読んだことある?」

「いえ、ありません」

「あ、そう。一度読むといいよ。それで、石川先生は、各地域の言い伝えや風習を隈なく拾い集め、データベース化しようとなさっている。そして、蓄積された膨大な情報を、AIを駆使して解析し、妖怪や化け物の成立や変遷の過程を立証しようとしているんだ。この手法を使えば、各種妖怪の相互関係や系統だとか、といった都市伝説のルーツも、立証できるかもしれない。これは、民俗学の発展に、大いに寄与するだろうね――」

 深山は、まるで自分は石川教授の高弟こうていであるかのような口ぶりで、教授の理論と方法を賞賛する。

 俊介は、深山の話を聞きながら、何とはなしに深山の顔を観察した。黒色の太いフレームの眼鏡を掛けているが、あまり手入れをしないのか、レンズがひどく曇っている。マスクは掛けていないので、口の動きに合わせて、右の鼻孔から出ている太い鼻毛が、甲虫の触角のように動いているのが見える。

 深山は、人の名に「うじ」を付けて呼ぶ癖があるらしい。

<この人、変人とまではいかなけど、一風変わっているらしい>

「そればかりではないよ。今言った民俗学データベースに取り込むデータの範囲を、日本だけでなく、海外にも広げていこうというのが、石川先生の構想だ。なかなか雄大な構想だと思わないか、森田氏。そうすることによって、怪異の来歴を世界的な規模で解明・比較できるし、日本のそれの独自性と共通性が炙り出されてくる――」

「なるほど。そうすると、怪異が本当に、つまり現実に存在する可能性は、否定されているわけですね?」

 俊介は、延々と続く深山の話の、ちょっとした隙を見計らって尋ねた。

「いや、否定も肯定もしないというべきだろう。実在するか否かの究明は、民俗学の主要テーマではないからね。どちらかといえば、それを扱うのは生物学じゃないかな。僕は生物学については門外漢だけど、人間は、地球上に生息するあらゆる生物を把握しているわけではないはずだ。その証拠に、新種の生物が、毎年いくつも発見されている。

 それは措くとしても、まあ、河童が現実に生息しているわけがないことは、中学生でも分かるよね。テレビなんかで時々、正体不明生物を取り上げたりしているけど、あんなものは、みなヤラセだよ」

「まあ、そうでしょうね……」

 俊介は、石川教授に床助のことを相談しても、あまり実りはなさそうだと感じて、少し落胆した。

「おや? ガッカリしたような顔だね。森田氏は、妖怪や化け物は、実際に存在すると思う?」

「いえ、そんなものの存在は、まったく信じていません。というか、……信じていませんでした」

「ということは、今では、多少なりとも信じているということ?」

 その時、曇った眼鏡の奥にある深山の眼が一瞬だが大きく見開かれて、俊介の眼を凝視したことに、俊介は気が付かなかった。

「あの、なんてお答えしたらいいのか、正直迷ってます」

「あ、そう。どうやら森田氏は、とても素直な人らしいね。これは褒めて言っているんだよ。俺が見たところ、君の相談事というのは、怪異に関係がありそうだ。ところが、君は俺のことを胡散うさん臭いと感じている。だから、話していいものか、迷っている。まあ、そんなところじゃないかな?」

「いえ。胡散臭いだなんて、そんな風には思っていませんよ」

 深山が俊介の感じていることを言い当てたので、俊介は少し狼狽した。

「実はねぇ、俺の研究テーマも、怪異の実証的研究なんだけど、先生のとは考え方や方向性がまったく違うんだ。俺の方が、君の相談相手にふさわしいかもしれんよ」

「深山さんの研究テーマは、どのようなものなんですか?」

 俊介は、何気なく尋ねた。その質問が、床助にまつわるちょっとした事件に繋がるとは、今の俊介に予測できるはずもなかった。深山は、待っていましたとばかり、自分の研究テーマについて説明し始めた。それは、概略、次のようなものだった。

 深山の研究テーマは、ズバリ、怪異、つまり妖怪や化け物の実在を立証しようというものだ。

 彼の仮説によると、現在伝えられている妖怪や化け物話の基には、実在の動植物や自然現象、あるいは人間の異常な心理状態がある。そのほとんどは、現在の科学で説明出来るものだ。しかし、中には、そうではないものも含まれているという。

 例えば、海坊主とか海和尚おしょうなどと呼ばれる妖怪が登場する言い伝えがある。昔から、各地にその言い伝えが残っているが、そのほとんどは、自然現象や海洋生物が、妖怪に見間違えられたものと考えられている。しかし、そうでないものも、少数ながら存在するというのだ。例えば、1970年代末に、東北地方のある漁港に所属する遠洋漁業船が、インド洋で巨大な海坊主に遭遇した記録が残っている。海上に現れた部分だけでも、漁船に匹敵するくらいの大さで、海面下にある部分も含めた全体が、いったいどれくらいの大きさなのか、想像もつかなかったという。そればかりでなく、言葉では到底表せない奇妙奇天烈な姿をしていた。だから、鯨・海亀・鮫などの海洋生物と見間違えた可能性は、限りなく低いと乗組員が証言している。彼らがその怪物と遭遇した時、波高1~1.5m程度と、付近の海は比較的穏やかであり、大きな波やを化け物と誤認した可能性も低いともいう。

「俺はいち時期、海坊主なら実在の可能性がわずかながらあると考え、研究テーマに選んで調査を始めたんだが、海はあまりに広い。それに、調査には船を使わざるを得ないから、研究費用も高くつく。目撃した乗組員の中でご存命の何人かに聞き取り調査するところまでは進んだ。が、船でインド洋まで行くわけにもいかず、研究は行き詰ってしまった。海坊主探しじゃ、大学の研究助成金も無理だった」

「確かに、広大な海で海坊主に遭遇する確率は、街を歩いていて隕石に頭を直撃される可能性と、どっこいどっこいでしょうね」

「あ、そう。森田氏、ずいぶんハッキリ言ってくれるね。時と場合によっては、素直過ぎるのもちょっとどうかな」

「すみません。それにしても、深山さんがそこまで怪異の実在にこだわり続けるのは、どうしてですか? 海坊主の目撃談だけですか?」

「おー、よくぞ聞いてくれたね、森田氏!」

<しまった。また、話が長くなりそうだ>

「俺が怪異の実在性にこだわるのは、他ならぬ俺自身が、怪異との遭遇を実際に体験したからなんだ! ちょっと長くなるけど、その話を聴くかい?」

「は、はい。もしもお忙しくなければ、お願いします」

 俊介は、これまで幽霊や化け物にはまったく関心がなかった。しかし、床助という相当現実離れした存在を知った今では、深山の体験談に興味が湧いた。

「あ、そう。嬉しいね。忙しいどころか、さっきも言ったように今暇なんだ。だから、気にすることはないよ。コーヒーのお代わりは?」

「いえ、結構です」

 深山は、自分の分だけコーヒーを作ってきて、一口すすってから話し始めた。



 俺は登山が趣味だ。しかも、もっぱら単独登山。麓や山間やまあいの集落で、言い伝えや祭礼などの取材もするから、研究にも役立っている。

 俺が学部の2年生の時、冬の大山だいせんに登った。

 ダイセンという山の名、聞いたことがあるの? あ、そう。

 大きな山と書いてダイセンと読み、鳥取県にある。標高1,729mながら、中国地方の最高峰だ。「伯耆富士ほうきふじ」という別名があるとおり、姿が美しい独立峰なんだ。

 大山は、冬山登山でも人気があるが、天候次第で様相が一変することがあり、決して侮れない山だ。

 俺は、中学、高校と山岳部に所属して、冬山の経験も結構豊富だった。「氷の殿堂」と呼ばれている冬の剱岳つるぎだけ(富山県、標高2,999m)を踏破した経験もある。しかし、今振り返ると、冬山登山について自分の技量を過信していたな。

 その日、朝早く麓の宿を出発した俺は、駐在所に登山届を出してから、頂上の弥山みせん(標高1,709m)を目指した。大山はいくつかの峰が連なって構成されている。そのうちの弥山が登山ルートの頂上とされているが、最高峰は1,729mの剣ヶ峰けんがみねだ。しかし、弥山から剣ヶ峰までは「ラクダの背」と呼ばれる切り立った尾根で、弥山から先は立ち入りが禁止されていた。

 まずは、ブナの樹林帯を進んだ。空は晴れていたが、天気予報によると、西から低気圧が接近中だった。だが俺は、天気は下り坂になるだろうが、悪化する前に下山できると考えていた。

 5合目を過ぎてしばらく登ると、樹林帯から出て、急に視界が開けた。晴れた日ならば、眼下に日本海を一望でき、弓ヶ浜や米子よなごの市街も見えるはずだ。しかし、風がだいぶ強まり、雲の量が急速に増えていた。とはいっても、辺りには他の登山客も多く、不安な気持ちは、まるでなかった。

 昼ごろ弥山の頂上に到着し、一階部分まで雪に埋もれた避難小屋の陰で、持参した握り飯を食べた。計画では、この後すぐに下山するはずだった。低気圧接近中という気象情報のためか、頂上にいた他の登山客も、続々と下山し始めている。

 俺も下山しようと立ち上がった。下山前に最高峰・剣ヶ峰をもう一度拝んでおこうと思って、そちらに目を向けた。絡み合いながら飛んでいく雲の間から見える剣ヶ峰は、鋭利な刃物に似た切っ先を、天に向けて突き上げている。

 その姿を見た途端、剣ヶ峰が、あらがいがたい力で、俺を引き寄せているのを感じた。峰は目と鼻の先にある……、ように思えた。今から往復しても、日没までに下山することは、じゅうぶん可能なはずだ。

 俺は、剣ヶ峰に向かって歩き始めた。ギリシャ神話に登場する、美女の姿をした海の怪物、セイレーンに魅せられ、引き寄せられていく船乗りのような状態だった。

 近くでそれを見ていた人が、俺に向かって叫んだ。

「おーい。剣ヶ峰に行くのか? 止めろ。命取りだぞ!」

 しかし、俺は聞く耳を持たなかった。

 ラクダの背は、両側が絶壁のように切り立った尾根で、人ひとりが通れるくらいの幅しかない。斜面を滑落すれば、ひとたまりもなく死ぬだろう。俺は強風の中をうように進んだ。しかし、歩みは亀のようであり、なかなか先に進めない。その間にも、風と雪は激しさを増していき、ついに暴風雪となった。

 すると、体ががたがた震えてきた。軽度の低体温症の症状だと思った。

 俺は、ラクダの背の途中で、引き返すことにした。だが、体が思ったように動かない。亀の歩みが、カタツムリの歩みになってしまった。そればかりか、思考が緩慢になり、次に行うべき動作を考え出すのに、ひどく時間がかかるようになった。

 あたりは、暴風雪で真っ白になり、視界はほとんどゼロだった。ホワイトアウトという現象だ。

 俺はついに尾根の上で進退窮まり、その場に仰向けに倒れてしまった。背負っていたリュックは、斜面を滑り落ちたのか、見当たらない。頭の働きは鈍っても、自分がここで死ぬことだけは、明瞭に感じ取れた。

 と、その時、俺の顔を覗き込んでいる者に気が付いた。ヘルメットと目出し帽を被り、ゴーグルをしているので、顔はよく見えない。

 その者が俺にし掛かったのか、急に体が重くなり、耐えられないほどの息苦しさを感じた。手か肘を使って、俺の首を絞め上げているのではないかと、回転がひどく緩慢になった頭で考えた。相変わらず相手の顔は俺の顔のすぐ上にあったが、何を考え何をしようとしているのか、窺い知ることはできない。

 もう最期だと悟った俺は、思わず呟いた。

美雪みゆき……」

 すると急に、俺に圧し掛かっていたものが軽くなり、息苦しさも遠のいていった。

 美雪は、俺の一人娘の名だ。

 俺に娘がいると言っても、信じてもらえないかもしれない。高校3年生の時、バイト先で知り合った女の子といい仲になった。間もなく、女は妊娠した。俺の大学進学と同時に結婚し、子供が生まれた。俺は雪山が好きだったから、妻を説得して「美雪」と名付けた。

 しかし、二人ともまだ若く、俺は学費を稼ぐだけで精一杯だったから、結婚生活が上手くいくはずもなかった。間もなく妻は、美雪を連れて実家に帰り、俺たちは協議離婚した。それでも、元妻は時々俺を美雪に会わせてくれた。無心に笑う美雪の顔を見て、とても愛おしく感じた。

 親らしいことは何一つしてやれないうちに美雪と別れることだけが、ひどく心残りだった。俺は倒れたまま、気を失った。


 ふと気が付くと、自分が横たわっているのは、暴風雪が吹き荒れるラクダの背ではない。どうやら、雪の穴の中らしい。足の方向に、俺が携帯していたツェルト(簡易テント)が広げて吊り下げてあり、狂ったように風に揺すられている。そこが、出入り口らしい。俺は、ここは雪の斜面に造られた雪洞せつどうの中ではないかと思った。顔を横に向けると、ピッケルやヘルメット、リュックなど、俺の持ち物が目に入った。

<ここはどこだ? 俺はなぜ、ここにいる?>

 俺は、ここに来るまでのことを思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。

「目が覚めた?」

 その声を聞いて、俺はぎょっとした。雪洞の中は薄暗く、人の気配も皆無だったから、すぐそばに人がいることには、まったく気付かなかったからだ。

「は、はい……」

 俺は、リュックとは反対側の方に顔を向けた。そこには、若い女が座っていた。服装は普通の登山用の上下だが、なぜか両方とも色は純白だ。雪山では、万一の場合に備えて、白一色のウェアを着ることはまずない。それと、女の長い髪が銀色であることも目を引いた。まあ、女性が思い思いの色で髪を染める時代だから、銀色の人がいても不思議ではないが。顔の辺りが特に暗くなっているので、女の容貌や表情は分からない。

「あの、ここはどこですか?」

「弥山の、剣ヶ峰側斜面」

「あなたが、私を助けてくれたんですか?」

 女は黙って頷いた。

「ありがとうございます。なんてお礼を言ったらよいか……。私は、深山時次郎といいます。失礼ですが、あなたのお名前は?」

「名乗るほどでもないよ」

「いえ、あなたは命の恩人です。是非、名前をお聞かせください」

「それじゃあ、雪子ゆきことでも呼んで」

「はあ……」

 俺は、雪子というのは本名ではないだろうと思ったが、それ以上詮索するのは止めた。何か、本名を名乗れない事情があるのかもしれない。

「雪子さんは、どこから来られました? 私は、東京からですけど」

「あたし、この辺りに住んでるの。ところで深山さん、非常食料は持っていないの?」

「はい。日帰りで下山するつもりだったもので」

「それじゃあ、エネルギー不足で、また動けなくなるわよ。外はまだひどい吹雪だから、今夜はここでビバークするしかない。明日あすには天気が回復しそうだけど、それまで体が持つかしら?」

「失礼ですが、雪子さんは食料を持っていませんか?」

「ないわよ」

 周囲を見回したが、雪子の装備品らしきものは何も見当たらない。

「冬の大山を甘く見る人が多のよ。さっきも、すぐこの近くで一人、8合目で一人、登山客が死んでるのを見かけた」

「え! 雪子さんは、その人たちを見たんですか?」

「ええ、そうよ。二人ともツェルトを張ってビバークしようとしたらしいけど、風で吹き飛ばされたみたい。この暴風じゃ、ツェルトなんて何の役にも立たない。こうして、雪洞を造らなきゃ、助からないわ」

 俺の頭の中で、疑念が水の上に垂らした墨汁のように広がっていった。

<この人はいったい、何者なんだ?>

「あなた、馬の背で美雪という名前を呟いていたわね。美雪さんて、どなたなの?」

「私の一人娘です。こんど中学生になります」

「あら、そうなの。いいお名前ね」

「私が、雪山が好きなもので。でも、妻と離婚したので、時々しか会えないんですよ」

「残念ね。でも、大切にしてあげなさいね」

「もちろんです。一人娘ですから」

「実はね、あたしの娘も美雪というの」

「そうなんですか! お嬢さんはおいくつですか?」

「うーん。もし美雪が今も生きていたとしたら何歳になるのか、見当もつかないわ。まだほんの小さい時に、連れ去られたの」

「連れ去られた……。犯人は分かっているんですか?」

「ある時、若い男がどこからか村に流れてきた。ちょっといい男だったんで、あたしは恋に落ち、所帯を持ったの。それで、美雪が生まれた。でも、あたしが浅はかだったわ。その男は、とんだ悪党だった。まだ幼い美雪を連れて、姿をくらませたのよ」

「え! それは酷いですね。警察は捜索したんですか?」

「警察? そんなものなかったわよ」

<警察がない? いったいどういうことだ?>

 疑念は、猛烈な勢いで伸びていくくずのように、俺の心の中で繁茂していった。

「小さな子供は可愛いですよね。美雪ちゃんも、さぞかし可愛かったんでしょう」

「美雪? 可愛いもんですか。すごく醜かったわよ。生まれてすぐに、産婆に嚙み付いたしね」

「嚙み付いた? ……」

「あたし、若い男を見ると夫を思い出して、この手で殺したくなっちゃうの」

「悲しい目に会ったんだから、無理もありません」

 そう答えたものの、自分も若者だからゾッとした。

「あなた、震えているようだけど、体は大丈夫?」

「低体温症が、ぶり返したのかもしれません」

「仕方がないわね。じゃぁ、あたしが温めてあげる」

 雪子の顔が近づいてきた。暗闇に隠れていた雪子の顔が、初めてはっきりと見えるようになった。年の頃は二十歳はたち前後で、目の覚めるような美人だった。だが同時に、理由は分からないが、背筋がゾクッとする冷たさを感じた。銀色に輝く長い髪の先が、さらさらと俺の顔に触れた。俺の手を握った雪子の手は、氷のように冷たい。

「いえ、私は大丈夫ですから、ご心配なく」

「震えてるわね。あたしが怖い? ふふふ。でも、あなたは大丈夫よ。美雪ちゃんのお陰ね」

 その後のことは、記憶がひどく断片的だ。雪子と凍るように冷たい口付けした後、彼女と交わったような気がする。素っ裸で仰臥している僕の腰の上に、同じく全裸の雪子が跨った姿は、はっきり覚えている。その肌は、文字どおり雪のように白い。しかも、雪洞の中は薄暗いのに、雪子の体はあたかも内側からほのかな光を発しているように見えた。

 雪子が腰を前後にくねらせたり、上下させたりするたびに揺れる乳房は、小振りだったが俺にはとても挑発的に見えた。目をつぶりながら、上半身をのけ反らしたり、あるいはうつむいたりするたびに、銀色の光を放つ長い髪が、奔馬の尻尾さながらに暴れていた。

 やがて、雪子の耳や首、胸にかけて、桜色に染まっていくのが見えた。それにつれて、それまで冷え切っていた俺の体は、しっとりと汗をかくくらい温まっていった。

二人とも終始無言で、雪洞の中は外で吹き荒れる暴風の音に満たされていた。俺は堪らず頂点に達し、そのまま眠りに落ちた。

 今から思うと、雪子との交わりが、現実のものだったのか、まるで心許ない。第一、暴風雪を凌いでいたとはいえ、雪の中だ。互いに全裸になることなど、できるものだろうか?

 翌日、俺は地元警察・消防の救助隊に救助された。登山届を出していたのと、最後に俺を目撃した人が、警察に通報してくれたことが奏功した。俺が入っていた雪洞の脇には、先端に俺の赤いバンダナを結び付けたピッケルが刺さっていたそうだ。だから、近くまで来た救助隊が、すぐに発見出来たという。

 俺は、救助隊に付き添われて歩いて下山した。医師の診察では、凍傷などはなく、身体の状態に特段の問題はないとのことだった。俺は医師に昨日体験したことを話した。

「私は雪洞でビバークしましたが、自分で雪洞を作ったわけではないんです。ラクダの背で身動きできなくなった時、若い女性が助けてくれました。そればかりか、雪洞を作って、私を収容してくれたんです。でも、翌朝、その女性はいなくなっていました」

「ほう。なるほどね。それは恐らく、重度の低体温症に見られる幻覚・錯乱でしょう。自分で雪洞を作って避難したが、そのことを覚えていないのでしょうな」

 しかし、俺は釈然としなかった。

 駐在所では、警察官から事情聴取を受けた。昨日の暴風雪により、弥山頂上付近で一人、8合目付近で一人、計二人が死亡したと聞かされた。いずれも、死因は低体温症だという。雪子が俺に言ったことと一致している。

「私の判断の甘さから、皆様にご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 俺は頭を下げた。

「今回のことを教訓にして、今後に生かしてもらえばいいですよ。しかし、雪洞を作ってビバークした判断は的確でしたね。深山さん」

 警察官が褒めてくれた。

「有難うございます。でも、私がラクダの背で動けなくなっていた時、女性登山者が助けてくれたんです。雪洞も、その人が作り、私を運んでくれました。名前を聞いたら、雪子と答えました。その人は、頂上や8合目付近で登山者が遭難して亡くなっているのを知っていましたよ」

「女性の登山者ですか? 雪子ね」

 警察官は、登山届と下山届をつづったファイルを開いて確認した。

「届けを見る限り、そういう人は来ていませんね」

「え? 地元の方だとおっしゃっていました。シルバーのロングヘアの若い女性です」

「妙だな。おい、山田。この辺りに、そんな髪をした雪子という人、いたっけな?」

 警察官は、近くにいた同僚に尋ねた。

「俺は聞いたことないな。この辺りには、そんな人はおらんよ。ひょっとして、雪女だったんじゃないのか?」

「雪女? ハハハハハ。そうかもしれんなー。この辺りにも、雪女伝説があるからなぁ」

 俺もその時は、医師や警察官が言うように、雪子の存在は、重度の低体温症に陥った俺の幻覚だったと思わざるを得なかった。

 しかし、その後俺は、雪子が実際にいたことを示す決定的な証拠を手に入れたのだ。

 帰宅して、大山登山中の衣類を洗濯しようと、リュックから取り出して洗濯機に入れていた時だった。下着のパンツを摘まみ上げた時、何やら光る細いものが付着しているのに気が付いた。よく見ると、白髪のようだ。指で摘まんで引っ張ると、意外に長い。長さ約50cm。白髪ではなく銀色に輝く直毛だった。俺は、雪子の髪の毛であると直感した。なぜなら、雪洞の中で俺の顔に触れた雪子の髪の毛と酷似しているし、それ以外の可能性は考えられないからだ。

 そうすると、俺が雪子と出会ったのは、幻覚などではなく、やはり現実だったことになる。だが、あの暴風雪の中で俺を救助した働きぶりは、とても人間わざとは思えない。だから、「雪女」と呼ぶのが適切かどうかは別として、雪子は人間以外の何者かであるに違いないと確信した。

 それまで俺は、妖怪や化け物の類にはまるで関心がなかったが、大山での出来事をきっかけに、俄然怪異に興味を持つようになった。文献を調べると、日本に限っても、非常に多くの種類の妖怪が、言い伝えられていることが分かった。

 そのほとんどは、動植物や自然現象が擬人化されたり、人間の想像力によってデフォルメされたりして、各地域の習俗と絡み合いながら言い伝えられてきたものだろう。しかし、ごく少数かもしれないが、現在の自然科学では説明できない怪異も存在するに違いない。現に、俺は雪子と名乗る怪異と遭遇したのだ。

 文学部史学コースの学生だった俺は、民俗学が学べる文化人類学コースにコース変更して、石川研究室に入った。それ以来、日本全国の辺鄙な場所や、最近では都会も含めて、怪異を探して歩き回っている。

 冬の大山にも、毎年登っている。もしかして、もう一度雪子と会えるかもしれないと思うからだ。しかし、あの時から一度も会えない。

 しかも、悔やんでも悔やみきれないのは、プラスチックケースに入れて大切に保管していた雪子の毛髪が、いつの間にかケースの中から消えてなくなっていたことだ。



「俺の研究の前提や方法論は、もちろん、学界では異端視されている。というか、鼻で笑われている。相手にすらされていないということだ。毎年度、学位請求論文を大学に提出しているが、いつも受理審査で落とされてきた。つまり門前払いだ。やり方を根本的に見直さなければ、本来は博士課程に在籍すらできないはずだ。しかし、石川先生は実に度量の広い方で、そんな俺を研究室に置いてくれているんだ。そして、俺の好きなようにやらせてくれている。だがね、森田氏。大発見というものは、往々にして凡人には理解が及ばないものなんだよ。コロンブスの卵というやつだね」

「あの。深山さんが出会ったとおっしゃった雪女ですが、ある人からそれに関連がありそうな話を聞いたことがあります」

「あ、そう! それはどういう話? 誰から聞いたの? 僕の研究に直結しそうだから、是非教えてほしい。なぁ、森田氏」

「はあ……。分かりました。実は、それは僕が石川先生に相談したいと思っていたこととも関係しているんです」

 俊介は、床助のことを、鬼娘の経緯も含めて、かいつまんで話した。

「なるほど。実に興味深いね。話してくれてありがとう。俺が考えるに、その床助なるモノは、恐らく座敷童ざしきわらしだろう。もちろん、現段階では断定できんがね」

「座敷童ですか! 漫画かアニメで、見たことがあるような気がします。座敷童は、妖怪の一種ですよね?」

「妖怪とも、神様とも言われている。柳田先生の『遠野物語』にも出てくるが、座敷童が住んでいる家は運が向いてきて金持ちになり、座敷童が去ると没落するといわれているね」

「すると、人に危害を加えることはないんですね?」

「基本的にはね。ただ、『遠野物語』には、座敷童に去られた家の者が、毒キノコを食べてみな死んだという話が載っているな」

「毒キノコですか。ちょっと怖いですね」

「一説によると、座敷童が最後に目撃されたのは、明治時代末期だそうだ」

「え! そうすると、座敷童は実在していたのですか?」

「そうだ。そればかりか、今も存在している可能性は大いにあると、俺は考えている。床助が座敷童である確率はかなり高いぞ。ところで、君は石川先生に床助について相談しようと思って来たと言ったけど、石川先生から何が聞きたかったの?」

「床助が何者かということと、これから床助とどう接していけばいいかということです」

「あ、そう。ならば、相談相手はやはり、先生より俺の方がずっと適している。石川先生は、妖怪や化け物が実在するとは考えておられないからね。相談しても、取り合ってくれないと思うよ」

「分かりました。深山さん、よろしくお願いします」

「最初にすべきは、床助が本当に座敷童なのか確かめることだ。それによって、その後取るべき対応が違ってくる。だから、一度、俺を床助に会わせてくれないか?」

「了解です。いつ、若竹荘に来られますか?」

「善は急げというから、さっそく明日行くよ」

「では、午前10時ごろ101号室に来て下さい。それまでに、深山さんが来ることを、床助に話しておきます。万一床助が、深山さんに会うのを拒んだら、無理しないで下さい。その場合は、携帯でご連絡しますから」

「もちろんだ。いやー、床助に会うのが待ち遠しいよ、森田氏。僕の研究にも、やっと光が差してきたな」

 俊介は研究室をあとにした。民法概論の授業はとっくに終わっていたので、そのまま帰宅した。

 帰宅すると床助を呼んで、深山のことを話した。床助は、特段こだわる風もなく、深山との面会を承諾した。ただし、深山が床助を座敷童だと推定していることについては、まだ確定したわけではないから、床助には話さなかった。


《続く》

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