第7話 床助、男娼となり運命の人と逢う

 市之丞様や弥太郎さんが話していた芳町は、正式名を堀江ほりえ六軒町ろっけんちょうといい、陰間かげま茶屋が集まっている場所でございました。陰間茶屋は、男が相手をする女郎屋のようなもので、陰間とは男娼をさします。

 ある日、私は弥太郎さんに連れられて、芳町に向かいました。

「お前のことは先方に話しておいたから、あとは先方の指図さしずどおりにしてくれ。お前は女の扱いには慣れているようだが、男相手だとだいぶ勝手が違うだろう」

 道すがら、弥太郎さんが言います。私は不安になってまいりました。

「やはり、男の相手もしなければなりませんか? 女の相手だけ、というわけにはまいりませんでしょうか?」

「そんな我がままを言う奴があるか。いつまでも客が付かないと、暇を出されてしまうから、死ぬ気でやれよ」

「へい」

 芳町には、格子戸に柿色の暖簾のれんが下がった陰間茶屋が並んでおりました。

私たちが「秀菊しゅうぎく」という店を訪ねますと、店主・三津五郎みつごろう様の部屋に通されました。三津五郎様は、40歳がらみの肥った方でございます。

 弥太郎さんは、三津五郎様への挨拶を済ませると、さっさと帰ってしまいました。

「ほう、お前が床助か。兄には似ず、色黒だな。こりゃぁ、まるで炭団たどんだ」

「色の黒いのは、生まれ付きでございます。兄・福助をご存じでございますか?」

「一度、福富座で見たよ。ずいぶんな人気者だな。ところでお前、女あしらいは上手いそうだが、男の相手をしたことはあるのか?」

「ございません」

「そうか。ここの客には、男も女もいる。が、揚代あげだい(料金)は吉原の大店おおみせ(高級店)とそれほど変わらないから、貧乏人は来ない。男の客は位の高いお侍や大きな寺の坊さん、女の客は大店おおだなの後家さんや奥女中といったところだ。粗相そそうは許されないよ」

「私に勤まるでしょうか?」

「男の客の多くは、若くて華奢きゃしゃな、見た目がうるわしい陰間を好む。はっきり言って、お前は当てはまらないな。だが、遊び馴れたお客の中には、普通の陰間に飽きた、ゲテモノ食いがいるかもしれないね。まあ、案ずるよりやってみることだな。八十吉やそきちという男をマワシに付けてやるから、万事八十吉に教えてもらえ。おい、だれか八十吉を呼んどくれ!」

 すぐに、八十吉が部屋に入ってまいりました。

「何でございましょう」

「この男は、床助だ。奥山で大人気の福助を知っているだろう? こいつは福助の弟だそうだ。ウチで陰間として勤めることになったから、お前をマワシに付ける。男の相手はしたことがないそうだから、みっちり仕込んでやってくれ」

「へい、お任せ下さい」

 笑い顔でそう言いながら私を窺う八十吉さんの眼は、狐のそれのように鋭く見えました。

 マワシと申しますのは、今風の言葉で言えば、陰間の教育係兼マネージャーでございます。陰間を仕込んで一人前にし、客を取るようにさせ、その後は必要な道具などを持って、陰間に付き添って行ったりもします。マワシの中には、稼ぎの悪い陰間を厳しく折檻する者もいると聞きます。


 翌日から八十吉さんが、私の髪型や衣装を整えたり、陰間の心得や作法を教えたりして下さいました。私は、馬喰町の裏長屋から秀菊に通いました。

 陰間は、早ければ10歳ごろ修行を始めますが、私はその時18歳でしたので、もう「年増としま」の部類に入りかけておりました。ですから、勢い八十吉さんの仕込み方も厳しいものとなりました。

 翌々日だったでしょうか、いきなり八十吉さんが、私に命じました。

「尻を出して、四つん這いになれ。俺の方に尻を突き出すんだ」

 私は、いよいよ来たかと思って、すぐに応じました。

「こりゃぁ、下豚げとんだな」

 八十吉さんが、聞きなれない言葉をつぶやきました。

「何ですか? ゲトンてぇのは」

「悪い尻ということだ」

 後で知ったのでございますが、陰間の尻にも良し悪しがあって、良いのを「上豚じょうとん」、悪いのを「下豚」、その間を「中豚」と呼ぶのだそうでございます。

 上豚は、肉付きが良くて、ふっくらとしており、割れ目が深くはっきりしている尻でございます。肛門につきましては、皺が多くて柔らかいことが必要です。下豚はその逆でございます。

「まあ、これは生まれつきのことだから、仕方がない。さあ、小指を入れるからな」

「ちょ、ちょっとお待ち下さい」

 私は思わず腰を下げてしまいました。

「おいおい! 尻を下げる奴があるか。力を抜け!」

「痛てててて。やはり、しばしお待ち下さい」

 私は、痛いのと気色が悪いのとで、また尻を下げてしまいました。

「馬鹿野郎!」

 八十吉さんの拳固げんこが、私の頭頂部に飛んできました。

「力を抜けと言ってるだろ? 分からん奴だな。俺の言うとおりにすりゃぁいいんだ。さあ、もう一度尻を突き出せ」

 そのようなことを繰り返し、何回目だったか忘れましたが、ついに八十吉さんの小指が、私の肛門に入ってまいりました。脱糞しそうな変な感じはいたしましたが、ほとんど痛くはございません。

「ほら、俺が言ったとおりだろ? 力を抜けばいいんだ。それに、指に通和散つうわさんを塗ってあるからな」

 通和散というのは今でいう潤滑剤で、両国の米沢町にある「四ツ目屋」のものが有名でございました。

「ところで、お前のへのこはずいぶんデカいな。畳に達して、なお余っているじゃねぇか。これと自分のを比べて、意気阻喪そそうする客もいるかもしれねぇな。だから、巨根を誇るような素振りは禁物だぜ。それと、客に尻を向けた時、間違っても屁をひるなよ」


 その後、二日ごとに指の種類がだんだんと太いものに替わり、本数が増えていきました。つまり、小指の次は薬指、次いで、中指、親指、人差し指と中指の2本、そして、仕上げは八十吉さんの一物でございます。

 後から知ったのでございますが、八十吉さんの仕込み方は、特段乱暴なものではございませんでした。マワシの中には、いきなり一物を突き立て、有無を言わせずじ入れる者もいるとのことでございます。

 さて、陰間は、男女両方の客を取ります。

 昔、男色だんしょくは決して不自然なことではございませんでした。戦国武将の寵童ちょうどうというものを耳にされたこともおありでしょう。歌舞伎や宮芝居の役者が、陰間を兼ねることも多かったのでございます。また、坊さんは、女犯にょぼんといって女性と交わることは禁じられておりました。そこにも、陰間の出番があったのでございます。

 男に対して陰間は主に尻を使い、一物はあまり使いません。それではもったいないから、というわけでもないのでしょうが、男と接する機会がない後家、御公儀や大名に仕える御殿女中・奥女中などの相手もするようになったのでございます。やはり張形では、いくら上手く作られていたとしても、味気ないのでございましょう。


 こうして私は、秀菊で陰間として働き始めました。しかし、背が並外れて低いし、容貌も、優れていないばかりか、むしろ魁偉かいいと申し上げた方がよいくらいなので、なかなか客が付きませんでした。

 そのうち、秀菊でも売れっ子の、杜若かきつばたという陰間と親しくなったのでございます。杜若は色白の美男子であるばかりか体つきが華奢で、どこか女のような風情がございました。幼いころから修行を積み重ねており、三味線や琴などの芸事も得意でございました。

あにさんは美しくて、芸も達者だから羨ましいです」

 杜若は私より若いようですが、この道の先輩ですから、丁寧な言葉遣いをいたします。

「売れ過ぎるのも、良いことばかりじゃありませんよ」

 杜若には、売れっ子ならではの苦労もあるようでございます。

「嫌な客も多いのです。口や体が汚くて臭い客、大金を払っているからと無理難題を押し付ける客、乱暴を働く客、酔っ払い、陰間を見下す客、挙げると切がありませんよ」

「そういう嫌な客が付いた時は、どうしますか?」

「吉原の花魁おいらんでしたら、『わちきは、イヤでありんす』なんて言って断ることもできるかもしれません。が、あたしたちにはそんな我が儘は許されません。何とかうまくあしらうか、我慢するより他ありません。あまり酷い客には、あたしのマワシの喜助きすけさんが注意して下さる時もあります。それでも直そうとしない客は、お店への出入りをお断りすることもあるんです」

「ふぅ。嫌な客に当たりませんように」

「でも、一番辛いのは、お尻の病、なんですよ。使い過ぎると、お尻の穴から血がたくさん出たり、切れたりして、とても痛いんです。売薬を使っていますが、効いているんだか分かりません。相州の箱根には痔によく効く温泉があるらしいです。三津五郎様からお許しをもらって、一度行ってこようかと思いますが、忙しくてなかなか――」


 さて、ゲテモノ食いの客かどうか分かりませんが、ぼちぼち私にも客が付くようになりました。幸い、酷い客に出会うことはございませんでした。

 秀菊の2階には小部屋がいくつもあり、そこで客の相手をいたしました。

 また、店以外の、色々な場所を指定されて、そこに行って相手をすることも少なくありませんでした。江戸には、出会であい茶屋とか貸座敷とかいう、部屋を貸す店が方々にございました。特に、神社やお寺の周辺には多く、お参りのついでに、あるいはお参りを口実にして、遊ぶ人が多かったのでございます。

 ご存じのとおり、私は女の客の扱いには、いささか自信がございました。こちらの方もだんだん増えて、やがて男の客より多くなりました。そのほとんどは、30代から50代でございました。


 陰間稼業を始めて、確か1年くらい経ったころでございました。

 秀菊の陰間部屋でぼんやりしていると、八十吉さんが呼びに来られました。

「床助、お客からお呼びが掛ったから、すぐに支度しろ。お客は女だ」

 急いで身支度を終え、八十吉さんと出かけます。私は、若衆髷わかしゅまげを結い、菊柄の中振袖を着ております。とはいえ、背が低いので、まるで遊郭にいる禿かむろのようでございました。禿というのは、十歳前後の遊女の卵でございます。もっとも、顔つきは禿と似ても似つかないものでしたが。

あいにく雨がぱらついていたので、八十吉さんが傘をさし掛けてくれます。そして道々、客について話して下さいました。

「なんでも、お客はお武家様の若後家だそうだ。夫はさる旗本の三男坊だったが、数年前に病を得て亡くなったという触れ込みよ。それが真かは分からねぇが、前にも言ったとおり、この稼業じゃ客のあれこれを詮索しねぇのが仕来しきたりだぜ」


 指定の場所は、神田神社の近くにある出会茶屋でございました。

 八十吉さんは、遊ぶ時間の勘定や、揚代の受け取りといった役割がございますので、一階で終わるのを待ちます。時間の勘定には線香を使い、線香一本が燃え尽きる「一ト切ひときり」は、だいたい1時間でございました。

 お客様にもお付きの女中がいるはずですが、どこか別の場所で待っているのか、姿が見えません。

 私はお客様が待つ2階の部屋の前まで行き、名を名乗りました。

「お待たせいたしました。秀菊からまいりました、床助でございます」

「どうぞ、お入り下さい」

 蚊の鳴くような、か弱い声です。

「では失礼いたします」

 私は部屋に入ってお客の前まで進み、手をついて挨拶いたします。

 顔を上げた私は、思わず息をのみました。そこには、まだあどけなさを留めた面立ちの女性が、黒目がちな大きな目を見開いて、じっと私をご覧になっておられます。その表情は、少し強張っているようにも見えました。

「この度は、お呼び下さって誠にありがとうございます。精一杯務めさせていただきます。ところで、お客様を何とお呼びすればよろしいでしょうか?」

「え……、りくとお呼び下さい」

「お陸様、本日は一ト切でよろしゅうございますか?」

「はい……」

 お陸様は、相変わらず弱々しい声で答えつつ、頬を赤らめておられます。

「失礼ながらお陸様は、こういう遊びは初めてでいらっしゃいますか?」

「え……はい……」

 話しながら私は、チラチラとお陸様の様子を窺いました。見れば見るほど美しいお方なのです。私の拙い言葉では到底言い表せません。

 私はたちまち心を鷲摑みにされてしまいました。文字通りの一目惚れでございました。

 おそらく、後家というのは本当ではないでしょう。後家ならば切髪きりかみという髪型のはずですが、お陸様は武家の女性に一般的な島田髷しまだまげでございました。陸というのも、本当の名前ではありますまい。

「お陸様、何のご心配もいりません。すべて私にお任せ下さい」

 私は、優しく陸様を抱きしめました。お陸様は、目を閉じて身を固くしておられます。

 こういう場合、まずお客様の緊張を和らげて差し上げるのが一番ですが、今日は一ト切ということで、時間も限られております。時間配分に気を使わなければなりません。

しばらくして、お陸様も私も、生まれたままの姿となりました。

 私はもう一度、心の中で感嘆の声を上げました。お陸様の肢体は、私がそれまでに接してきた多くの女性に比べて、飛びぬけて白く美しいのです。

<お陸様には、何としてもご満足いただかなければ……>

 私は、柔らかくて厚い唇や自在に動く長い舌などを駆使し、これまでに培った技のすべて繰り出して、お陸様の喜びを引き出そうと努めました。

 手応えは感じました。お陸様の耳からうなじ、肩、胸にかけて紅葉もみじのように赤く染まっておりますし、時々腰のあたりが小刻みに震えます。秘所もすっかり濡れそぼっておりました。

 けれども、お陸様は目を閉じ、口を自分の手で覆い、ともすると動いてしまう自分の肢体を、必死に抑えているようでございました。

 そして、痛恨の極みは……。私の一物が大きすぎて、とうとう入れることが出来なかったことでございます。この時ほど、自分の巨根を呪ったことはございません。しかし、もっと時間をかければ、出来ないことはないとも思いました。

一ト切は、あっという間でございます。

「お陸様、今日は誠に相済まぬことでございました。私の未熟さのゆえでございます」

 私は平身低頭しました。しかし、お陸様はぐったりとしていて、言葉もございません。

 すると、襖の外からささやくような八十吉さんの声がしました。

「そろそろ、刻限でございます」

「はい、承知いたしました。お支度をしていただきます」

 八十吉さんに答えてから、お陸様を促します。

「では、お手伝いいたしますので、そろそろお着物をお召しください」

 お陸様と私自身の着衣が終わると、私はご挨拶をして、部屋を辞しました。

 下に降りると、八十吉さんが待っていました。

「おう、ご苦労だったな。さっきお付きの女中が来て、勘定は済ませた。店に帰ろう」

 来るときに降っていた雨は上がっておりました。

「今日の客はどうだった?」

「若くお綺麗な方なので、惚れてしまいました」

「そうかい。ただなぁ、客を繋ぎとめるための手練手管なら構わないが、本気で惚れるのはご法度はっとだぜ。それに、お前には妻子もあるしな」

「分かっております。ただ、自分の茎が太すぎて、結局入らなかったのが、とても悔しいです」

「そうか、お前のは馬並みだからなぁ。まあ、必ず入れなければならんということもない。もしも次にも呼んで下さったら、時間をかけてアソコをよくほぐして差し上げることだな。通和散も使うといい」


 私は、お陸様には二度と呼ばれることはないだろうと思っておりました。

ところが意外にも、ほぼ1か月ごとに、お陸様に呼ばれるようになったのでございます。いつもお寺や神社に近い出会茶屋を指定されましたが、場所はその都度替わりました。寛永寺かんえいじ伝通院でんづういん亀戸天神かめいどてんじん、浅草寺、富岡八幡宮とみおかはちまんぐう増上寺ぞうじょうじ――といった具合でございました。

 お陸様は、回を追うごとに、心と体を私に開いて下さるようになってまいりました。

 自分は後家ではないことも打ち明けて下さいました。しかし、ご自分がどこの誰なのか、決して明かそうとはされませんでした。

 時には、出会茶屋でお陸様と飲食を共にすることもございました。そのような折、お陸様は問わず語りに、ご自分の境遇について話されました。お話はとても断片的でしたが、暮らしには何不自由ないものの、お幸せそうには感じられませんでした。

 お陸様が後家ではないと知ってしまった以上、お会いすることは不義密通ということになるでしょう。当時、不義密通は重罪であり、見つかれば死罪に処せられる決まりでございました。                                                                                                                                                                                                                            

 いけないことと頭では分かっておりました。しかし、感極まったお陸様に強く抱き付かれると、お陸様への愛おしさがますます募っていき、もはや止める術はございませんでした。



 ここまで一気に話した床助の顔には、疲労の色が滲み出ていた。

「あの、森田様。今日はこの辺でご勘弁いただくわけにはまいりませんでしょうか?」

「もちろん、構いません。床助さんの話に夢中になっていて気が付きませんでしたが、もう夕方なんですね。話し続けて、疲れたでしょう?」

「はい。ただ、疲れだけではございません。お陸様を思い出しますと、いまだに心臓の拍動が早鐘のようになって、苦しくなるのでございます」

夕飯ゆうめし、食べますか」

「いえ。とんと食欲がございません。それに加えて、先ほどから熱っぽいようです」

「熱? じゃぁ、熱、測りますか」

 俊介は、部屋の隅にあった段ボール箱から家庭用の電子体温計を取り出し、スイッチを押して、床助に渡した。

「こっちの先を脇の下に挟んで、しばらくじっとしていてください」

 床助は頷いて、体温計を脇の下に挟んだ。

「20秒くらいで、ピピピという音が鳴ります。そうしたら、取り出して僕に見せてください」

「畏まりました」

 だが、音は鳴らない。1分くらい経ってから、俊介が言った。

「変だな。体温計を見せてください」

 俊介が見ると、体温計の表示は、「88.8」のままだった。

<おかしいな。電池不足の表示はないが……>

 計測をもう一回繰り返したが、結果は同じだった。ちなみに、俊介が自分の体温を測ったところ、正常に測ることができたから、故障ではなさそうだ。

「森田様。もう休ませていただきとうございます」

「そうですね。ゆっくり休んでください」

 床助は押し入れの中に入って、襖を閉めた。

 俊介は、銭湯に行った後、行きつけの定食屋で夕食を食べてから若竹荘に戻った。

押し入れの襖をそっと開けてみた。床助は、段ボール箱を畳んだものを二、三枚重ねた上に横たわっていた。耳を澄ますと、かすかに寝息が聞こえる。

<妖怪だか幽霊だか分からないけど、呼吸はしているようだ。ということは、体には肺があって、そこでガス交換が行われているわけだ。ほかの特徴も考え合わせると、少なくとも脊椎動物であることは、まず間違いないだろう。言葉を巧みに操るから、やはり人間か?>

 俊介は、床助に遭遇してから、ほぼ一方的に彼の話に耳を傾けてきた。しかし、こうして自分一人になってみると、床助の正体はいったい何なのかという疑問が、真夏の積乱雲のようにムクムクと、心の中で膨らんでいった。

<江戸時代に生まれたと言ってたけれど、もちろん、人間がそんなに長生きできるはずはない。すると、奴は嘘をついていることになる。嘘を嘘と認識しているか否かは、別だけど>

 しかし、床助には人間離れしている点も見受けられ、「人間以外のあるもの」の可能性も、完全に否定することはできない。

<外見的には、あの「エルフの耳」はちょっと人間離れしているな。だけど、生まれつきだったり、付け耳だったりする可能性はある。あと、誰が好き好んで、天井裏に潜り込んだり、押し入れの中に潜んだりするかな? 物盗りが目的だとしても、なんで俺みたいな貧乏学生を狙うのか?>

 さらに不審なのは、さっきの体温測定だ。俊介は、しまってあった体温計の取扱説明書を取り出して読んだ。測定可能範囲は、32°Cから42°Cまでで、これより低い場合は「L」、高い場合は「H」のマークが表示されるとある。しかし、室温からほとんど変化がない場合は、「88.8」のままだそうだ。現在、室温は22~23°Cくらいだ。そうすると、床助の体温はほぼ室温、つまり、恒温動物のような体温は「無い」ということになる。

<床助は、自分はうつつの者ではないことを臭わせていたな。ならば、ゾンビか? しかし、映画やテレビじゃあるまいし、ゾンビが現実にいるわけがない>

 床助に関する疑問を、自分一人の力で解明することは、どうも難しそうだと、俊介は思った。

<誰か、しかるべき専門家に、相談してみるか>

 住居侵入の疑いで警察に相談することも選択肢の一つだとは思ったが、床助が警察に連れていかれる姿が目に浮かび、なぜかそれはできなかった。

<そうだ。大学には、いろいろな分野の専門家が、大勢いるじゃないか!>

 俊介はパソコンを起動させ、大学のポータルサイトを調べ始めた。学問的には、床助出現という事象はどういう分野に属するのか、皆目見当が付かなかった。俊介は、大学のウェブサイトに掲載されている「学部紹介」や「教員紹介」を、丹念に見ていった。


《続く》

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