第6話 兄・福助、見世物小屋の人気者となる

 床助の話に耳を傾けていた俊介は、床助がキャラメル・マキアートを飲み干している機会をとらえて、質問した。

「床助さんのお子さんは、私と同じ俊介という名前だったとおっしゃったように思いますが、本当ですか?」

「もちろん本当でございます。ですから、森田様の名前を知った時に、何か不思議な心持ちがいたしました。やはり、森田様とは何か前世におけるえにしがあるのではないか、と愚考いたしております」

「僕は、単なる偶然だと思いますよ。それより、床助さんはなぜ、幽霊となってこのぼろアパートに巣くっている、いえ、住んでいるのか。肝心なことが、なかなか出てきませんね」

「これは失礼いたしました! つい調子に乗って、ベラベラと下らない話をしてしまいましたね。でも、私がここにいるのは、色々な因縁が積み重なった結果なのでございます。ご迷惑とは存じますが、もう少しお付き合い下さいませ。それに、江戸時代のあれやこれやを、当時生きていた者から聴く機会なぞ、滅多にあるものではございませんよ」



 お峰、俊介と暮らし始めて、一年ほど経ったころのことでございます。

 福助は見世物で人気者になり、成功を収めました。一方、私も日本橋芳町で、ひっそりと人気者になっておりました。まずは、福助や見世物の話をいたしましょう。あとあと、私の境遇にも大きく関わってまいりますので。


 そのころ、見世物はたいへん盛んで、大勢の人達が見にやってまいりました。ある演目がひとたび大当たりすると、評判が評判を呼び、押すな押すなの大盛況となったのでございます。

 見世物といえば、庶民のものと思われるかもしれません。しかし実際には、御公儀ごこうぎのお偉方や大名、そうした方々の奥様や従者、職人や商人あきんど丁稚でっち小僧、隠居など、身分・歳・男女の区別なく押しかけました。

興行は江戸の各地で行われましたが、福助や私がもっぱら関わりましたのは、浅草寺裏の奥山でございました。

 見世物の演目は、とても変化に富んでおりました。軽業や手品などの曲芸や演芸だけではございません。見上げるほど巨大な弁慶像など、かごや瀬戸物などでできた細工物、体じゅう毛だらけの男など珍しい体の持ち主、それに、駱駝らくだぞう孔雀くじゃくや鸚鵡といった珍獣・珍鳥、いちいち挙げだしたら切りがございません。

 奇天烈きてれつな芸としては、「花咲男はなさきおとこ」といって、を自在に吹き鳴らし、しまいには「下総しもうさの水車」などと称して、ブゥブゥと屁をひりながら、宙返りを繰り返す芸もございました。

 見世物には、人を引き付けワクワクさせる、ありとあらゆるものが詰まっていたのでございます。

 ある時、両国橋の東にある回向院えこういんというお寺で、信州の善光寺から運んでまいりました阿弥陀如来あみだにょらい様のご開帳―—これを出開帳でかいちょうと申します―—が行われました。こうした寺社の行事や祭礼に合わせて、見世物の興行がたびたび行われ、参詣人さんけいにん達のお楽しみとなっていたのでございます。

 そして、両国に負けてはならじと、浅草・奥山でも様々な興行が行われ、大道芸人なども大勢集まっておりました。

 兄・福助が出演するというので、私はお峰と俊介を連れて、奥山に見物に出掛けました。実は、私は一座を離れてから自分の仕事が忙しく、福助の芸を見たことはほとんどございませんでした。

 奥山は、人で溢れかえっておりました。

「ひぇー! この人出ひとでは尋常じゃないよ。お前さんは背が低いから、踏み潰されるかもしれないね。あたしから離れず後に付いてきなよ」

 お峰が一言多いのは、相変わらずでございました。とはいえ、夫婦めおととなりましてからは、私は「お前」から「お前さん」へと「出世」しておりました。

「俺の心配はいいから、俊介を抱っこする手を放すんじゃねぇぞ」

 お峰は俊介を抱っこし、私は大きな風呂敷包みを背負っておりました。

 市之丞様の計らいで、お峰は福富座で使われている衣装や、布でできた小道具のつくろいを内職としておりました。お峰は針仕事が得意だったのでございます。風呂敷包みの中には、繕いが済んだ衣装が入っておりました。

 福富座の裏口で衣装を渡すと、そのまま中に入れてもらいました。この日はすでに満員札止めとなっていたからでございます。簡易な小屋掛けのため、観客席は平土間だけでしたが、すでに観客がひしめいております。私達は、何とか端っこの方に座ることが出来ました。

 曲独楽や手品などの後、いよいよ福助の登場です。

 舞台の下手しもてから出てきた福助は、きちんとまげを結い、かみしもを着ておりました。裃は、肩が一直線に見える肩衣かたぎぬと、下に穿はかまからなっておりますが、ともに藍色小紋あいいろこもん染めでございます。それに、黒色の小袖を着ております。肩衣の胸の所や背中、小袖の袖には、「丸に福」の紋が見えました。手には扇子せんすを持っております。

 福助の姿を見て、観客は大騒ぎです。

「いよっ、待ってました!」

「福助さまー」

 掛け声も、たくさん掛ります。

 ちょこちょこと舞台を上手かみてまで歩いた福助は、置いてあった赤い座布団にちょこんと座ります。それから深々とお辞儀をして、おもむろに語り始めます。

「いつもご贔屓ひいきにあずかりまして、誠に有難うございます。本日も精一杯務めさせていただきますので、よろしくお願い申しあげまする」

 福助の声が朗々と小屋に響くと、また大歓声が巻き起こりますが、福助が手で合図すると、ピタリと止みます。

「さて、本日皆々様にお目にかけまするは、世にも珍しい鬼娘おにむすめでございまする」

 今回福助が受け持つのは、口上こうじょうのようでございます。口上と申しますのは、舞台で出し物の説明をすることですが、とても重要な役でございました。と申しますのは、時には笑いを誘い、また時には迫力をもって、しかも分かりやすい説明をしなければなりません。出し物自体はそれほどたいしたものでなくても、口上が巧みだと、大当たりすることも珍しくございませんでした。福助は弁が立ちましたので、口上にはうってつけでございました。

 すると下手から、藤の花模様の振袖に、緋色ひいろ(濃い赤色)の袴を穿き、頭からうろこ文様の打掛うちかけを被った「鬼娘」が出てまいりまして、舞台中央の床几しょうぎに腰掛けました。顔は打掛の陰に隠れていて、よく見えません。

 そういえば、福富座の小屋に掛けられた大看板や、小屋前ののぼりには、「おにむすめ」と書いてありました。どうやら、鬼娘が本日の呼び物のようでございます。

「皆々様の前に進み出でましたるは、ご当地に初めてお目見えいたします、正真正銘の鬼娘でございます」

 福助の口上が始まると、場内は静まりました。もっとも、俊介だけは何やら口走っておりましたが。

「見るは一時の恥、見ないは末代の恥! 可哀そうなはこの娘にございまする。はるか西方、伯耆ほうきの国にある霊峰・大山だいせんの麓、小里こさと村の百姓・伝右衛門でんえもんが娘・おゆきの子で、生まれた時から頭につのが生えておりました。口は耳の付け根まで裂け、二本の牙さえ生えておりましたが、産婆さんばに嚙み付いたため、牙を抜き口を縫い縮めたのでございます」

 すると、鬼娘は被っていた打掛を後に脱ぎ捨て、口を開けて立ち上がりました。

「うぉー」

 場内を、割れんばかりの歎声たんせいが満たします。

 福助は鬼娘に近付きますと、扇子で鬼娘の口の辺りを指し示して申します。

「もともと耳の付け根まで裂けておりました大きな口は、親の慈悲によりまして縫い縮めました。これがそのあとでございます。歯は生え替わりの牙と乱杭歯らんぐいばで、頭上のこぶの如き物は、袋角ふくろづのと申す角でございます」

「うぉー」

「さて、奇怪な姿に生まれついた鬼娘。さらに哀れな境遇が待ち構えておりました。父は伝八でんはちと申し、いずこからともなく小里村に現れ、お雪と夫婦となった男でございました。ところが、伝八はとんだ悪党でございました。幼い鬼娘を連れ出して、姿をくらませたのでございます。大方、鬼娘を人買いに売り飛ばしたのでございましょう。その後鬼娘は、大坂ほか上方のあちらこちらにて見世物にされ、ついに江戸にまいった次第でございます。

母のお雪にとりましては、いくら奇怪な姿とはいえ、己が腹を痛めた愛娘まなむすめでございます。娘が攫われたと知ったお雪は、悲しみのあまり狂女と化して雪深い大山に姿を消し、二度と戻ることはなかったと伝わっております――」

 観客の声はますます高まり、銭が鬼娘に向かって投げられるので、場内はまるで大嵐のような騒ぎでございます。

「お前さん、もう出ようよ。俊介が怖がってる。今夜寝付けなくなったら困るよ」

 お峰が袖を引っ張るので、私たちは福富座をあとにしました。

「見世物にされて不憫だね、鬼娘って子は。それに、あたしにはとても鬼には見えなかったがね」

 お峰は、鬼娘に同情しきりでございました。


 さてその後、私自身が見世物に出るよう頼まれるという珍事がございました。まったくの余談でして、また、いささか長くはなりますが、ことのついでに、お付き合下さいますようお願いいたします。

 私達が住んでおりました馬喰町の裏長屋からほど近い宿屋に、目の不自由な按摩あんま光悦こうえつという男が泊まっておりました。いつしか、光悦の陽物ようぶつ(陰茎)は人並外れて大きく、引き伸ばせば顎まで届き、勃起すれば2尺近くになるとの噂が流れたのでございます。今の単位に直しますと、60cm近くになります。

 かくの如き長物ながものには、いにしえから語り継がれております弓削ゆげの道鏡どうきょうも降参するに違いないとの評判が広まり、物見高い江戸っ子たちは、これが見世物になる日を、今か今かと待っておりました。

 弥太郎さんから聞いた話によりますと、光悦は本名を茂松しげまつと申し、下野しもつけ都賀つが池森いけもり村の百姓・四郎兵衛しろべえせがれでございました。幼い時分に病気に罹って視力を失い、そのうえ早くに両親が死んでしまいました。そのため、叔父の五郎兵衛ごろべえが引き取って育てました。

 長ずるに及んで座頭ざとう(頭を剃った盲人)の仲間となり、名を光悦と改めて、按摩をして生計を立てておりました。が、いつしか光悦の陽物は馬にも勝るとの噂が広まり、池森村ばかりか近隣の村々でも知らぬ者はいないというありさまとなったのでございます。

 ところが、五郎兵衛が家を空けていたある日、光悦の姿が忽然こつぜんと消えたのでございます。五郎兵衛は必死に探し回りましたが、一向に見つかりませんでした。

 だいぶ経ったころ、五郎兵衛が栃木町を通りかかりますと、町はずれに見世物小屋がございました。五郎兵衛の視線は、小屋に掲げられた大看板に釘付けになりました。そこには、長大な一物を持った男の絵が、生々しく描かれていたのでございます。

 折しも、その見世物小屋から三味線や太鼓の賑々にぎにぎしく響いてまいりました。今まさに、出し物が佳境に入ったようでございました。

 五郎兵衛は胸騒ぎを覚えました。もしかして、看板の男は光悦ではないか? 木戸銭を払って、場内に入ってみました。

 するとどうでしょう。五郎兵衛が睨んだとおり、舞台の上にいる男は光悦に間違いございません。光悦は下半身丸出しで、下座げざのお囃子はやしに合わせて、踊りともつかない卑猥な仕草をしております。

 立ったまま自分の一物を伸ばして、口に咥えます。少し前かがみになるだけで、余裕をもって咥えるので、観客は盛んに喝采かっさいを送っております。

 光悦が一物の先端部を嘗め回すと、一物はみるみる太くなり、天に向かってそそり立ってまいります。すると、お囃子の調子がガラリと変わり、一段と小気味よい調子を刻み始めました。

 光悦は、長く太くて堅そうな一物に手をかけて、ぐっと前に倒してじゅうぶんにめますと、パッと手を放します。すると一物は勢いよく腹を弾いて、「ポン」という音を発します。光悦はだいぶ腹が出ておりますので、ばち代わりの一物が当たると、音が響くのでございましょう。光悦は、お囃子に合わせて、

ボンボン、ボボン、ボンボン……

などと、調子よく「腹つづみ」を打っております。

 口上の男が、口から泡を飛ばしながら叫びます。

「世にも珍奇なこの大魔羅おおまらは、文字どおりの珍宝でございます! この珍宝に一度二度と手を触れますと、あら不思議! 精力絶倫、夫婦和合、子授け、子孫繁栄など、御利益ごりやくは間違いなしでございます。一回たった二十もん、二十文で、この有難い珍宝に触れることができるのでございます。皆様、御足おあし(おカネ)をご用意のうえ、一列にお並びくださいませ!」

 こうした様子を見た五郎兵衛の顔は、みるみるうちに地獄の獄卒を勤める赤鬼と化しました。

 座員に興行主の所在を問いますと、それは香具師やし銀次ぎんじで、近くの宿屋におるとのことでございました。五郎兵衛は、ただちにその宿屋に乗り込み、銀次と対面いたしました。

「おい、これはいったいどういうことか! 見世物小屋で恥ずかしい真似をさせられているのは、甥の光悦に間違いねえ。お前がかどわかしたんだな? すぐに返してもらおう!」

「おいおい、妙な言い掛かりはよしてくれよ。ありゃぁ、栃木町の忠次郎ちゅうじろうの世話で、池森村の朔太郎さくたろうから買い取ったんだぜ。何か文句があるか」

「あるから来ておる。光悦を返さないと言うなら、代官所に訴え出るぞ」

「ああ、お前さんの好きにしてくれ。こっちにゃ、やましいことなど一つもないからなぁ」

 五郎兵衛は、いったん引き下がるよりほか、ございませんでした。

 翌日、五郎兵衛は代官所に訴え出ました。ところが、代官所はまったく取り合ってくれません。おそらく、銀次が先回りをして、カネの力で代官所を抱き込んだのに違いございません。

 窮した五郎兵衛は、親族と相談いたしました。そして、親族中の長老格・弥十郎やじゅうろうを代理人に立て、御公儀の勘定奉行かんじょうぶぎょうに訴え出ました。吟味の結果、銀次ほか数名が召し取られ、光悦は五郎兵衛のもとに戻ることが許されたのでございます。

 その後光悦は、もっぱら按摩を生業なりわいとし、二度と見世物に出ようとはしませんでした。このため、江戸の人々はすっかり落胆してしまいました。

 さて、つい話が長くなりましたが、私が関わってまいりますのは、ここからでございます。

 今申しあげた江戸っ子の落胆に目を付けた者がおりました。香具師の源太げんたという男でございます。源太も小さいながら見世物一座を率いておりました。しかし、根が怠惰で荒っぽい男でございましたので、興行の結果もはかばかしくございません。

 そこで、今話題の大魔羅男で一発逆転を狙ったのでございましょう。芳町に私を訪ねてまいりました。

「床助さんよ、芳町じゃあ、ちょっとした人気者だそうでござんすね。だが、もっとしこたま儲けるやり方がありますぜ」

「ほう、何でございましょうか?」

 私は会った瞬間、こいつは胡散うさん臭い男だと直感いたしました。

「あんたは立派なモノをお持ちだと、もっぱらの評判ですぜ。今、江戸中の人々が、くだんの光悦が見世物に出ないと知って、すっかり落胆していることは、あんたもご承知のはず。あっしと組んで、あんたの立派なモノを見世物にすりゃ、大儲け間違いなしだ。儲けの三割、いや四割をあんたの取り分にしてもようがす」

「何だと思ったら、そんなことですか。いえいえ、私のモノなど、神棚に供える灯明の蝋燭ろうそくほどもありませんや。とても人様にお見せできる代物しろものでは……」

「いや、芳町じゃ、あんたの巨根に魅せられてやって来る腰元や後家が、引きも切らないというじゃありませんか。ところで、あんたの芳町勤めについて、お内儀は承知で?」

「おやおや、今度は私を脅かそうというのかい? そりゃ、無駄だよ。さ、帰っておくんなさい」

 源太は不満顔で帰っていきました。

 私は、このいきさつを福富座の弥太郎さんに話しました。どう手をまわしたのか分かりませんが、源太は二度と私に近付きませんでした。

 ところが、源太のしぶとさは、予想以上でございました。どこからか、長大な陰核を持つ、おこんという娘を探し出してまいりました。お紺には今でいう知的障害があり、両親の死後、山師やましに騙されて江戸に連れてこられたといいます。源太は、男が駄目なら女だと、お紺を手に入れて見世物にいたしました。これが予想外の大当たりでして、源太は大儲けしたようでございます。

 しかし、源太の栄華も長くは続きませんでした。

 この見世物の評判が町奉行にまで達し、源太らは風紀紊乱びんらんかどでお縄になりました。よく分からないまま恥ずかしいことをさせられていたお紺は、越後えちごの親戚に無事引き取られたそうでございます。


 さて、話を福助に戻しましょう。福助が見世物小屋の人気者になったことは、先ほどお話ししたとおりでございます。

 ところがさらに、福助を己の眼で直に見たり、福助の声を聞いたり、福助と話したりすると、必ず良いことが起こる、家に福が訪れる、商家ならば千客万来となる、といった評判まで立つようになったのでございます。福助の福々しい容貌や常に絶やさない笑顔、りんとした立ち居振る舞いが、そのような評判の基にあったのでございましょう。

 そうした、福助の招福話しょうふくばなしを載せた瓦版が、飛ぶように売れたそうでございます。

 そのため、見世物そのものよりも、福助を一目見ようと来る客も増えました。しまいには、福助人気にあやかろうと、「福助人形」なるものを考案・製造し、売り出す者まで現れたのでございます。

 最初のうち、人形は素朴で稚拙なもので、あまり出来が良くございませんでした。しかし、徐々に工夫が進んで、信楽焼しがらきやきなどの陶磁器や木彫りなど、材料や作り方にも様々なものが現れました。中には、驚くほど高級なものもございました。

 と同時に、色々な姿をした福助人形が出回るようになりました。一番多いのは、裃姿で正座し、両手をついているものでございます。しかし他に、両手を膝の上に載せているもの、頭を深く下げているので前からは髷しか見えないものなど、形も大きさも様々、といった具合でございました。

 福助人形は飛ぶように売れ、店先に福助人形を飾る商家も普通に見られるようになったのでございます。

 なお、またぞろ蛇足で恐縮でございますが、私・床助の人形も作られて売り出され、密かにもてはやされたことにつきましても、是非お話しさせていただきたいと存じます。

 これは、正確に申しますと、人形ではなく、張形でございました。張形が何であるかにつきましては、もうお分かりでございましょう。新月村で私がお峰の僕となったお話の中に出てまいりましたね。

 ある日、一人の小間物屋が鼈甲べっこう細工の職人を伴って、私が住んでおります裏長屋を訪ねてまいりました。私の一物を見分して紙に書き写し、それを基に張形を作りたい。そして、お小間物の店や行商で売り出したい。ついては、然るべき額の金子を支払うとの話でございました。

 ちょうどお峰が不在にしておりましたので、私は快く引き受けました。二人の前で一物を出して撫でさすりますと、たちまち隆々たる雄姿を現しました。

「こ、これは驚きました! きっと、後家や奥女中が、随喜の涙をこぼすに違いございません」

 二人は讃嘆するとともに、職人が素早く紙に書き写します。

 後日、出来上がったものを見る機会がございました。一物はほぼ実物大でございましたが、私の頭や胴体は実物よりずっと小さく作られ、張形を使う際に把手とっての役割を果たすような塩梅あんばいになっておりました。一物の太さと長さには数種類ございまして、また、形につきましても、真っすぐなもの、上向きに反りを加えたもの、右や左に曲がったものなど、いろいろな種類のものが用意されており、使い手が自分の好み合ったものを選ぶことができました。

 材質について申し上げますと、高級なものは鼈甲でございます。鼈甲と申しますのは、タイマイと呼ばれる海亀の甲羅から採れるもので、高級なくしこうがい(女の髪飾りの一種)の材料にされます。一方、あまり高級でないものは、水牛の角で作りました。さらに、同じ鼈甲でもピンからキリまでございまして、最高級品は、はんと呼ばれる模様がまったく入っておらず、鼈甲飴のように透き通ったものでございます。そのような最高級品ともなりますと、高貴なご身分のお方ですとか、あるいは、よほどの大金持ちでなければ、手に入れることはできませんでした。しかも、そのような最高級品につきましては、長年修練を積んで名人の域に達した鼈甲職人が、精魂込めて作ったそうでございます。

 そのような最高級品を、一度だけ手に取ったことがございます。俗に申します「かり」や、竿さおの部分に浮き出した青筋などが、本物と見紛うほど精巧に彫られておりました。表面は丹念に磨き上げられて、絹の如く滑らかでございます。こうした逸品に、通和散をたっぷりと絡めてお使いいただければ、独り身をかこつお方も、羽化登仙の境地に達すること、間違いございません。

こうして、私の一物を模して作られた張形は、「床助もの」などと称されて好評を博し、大いに売れたのでございます。

 また、あくまでも噂を聞いただけでございますが、床助ものが夫婦の不和に繋がったこともあったようでございます。ちまたでは、旦那のナニよりはるかに具合が良いと、女房がこっそり使っていたところを旦那に見咎められ、ひと悶着起きた、などということもございました。

 ただ、残念なことに、この種の品は、福助人形のように店先に飾られることはなく、文箱ふばこの中や箪笥たんすの引出しの奥などに、秘蔵されるのが常でございました。そして、何らかの事情により不要となった時は、人目を憚って掘割に投じられたり、燃やされたりしたのでございます。したがって、職人が精魂込めて作り、孤閨で呻吟されておられたご婦人方をお慰めした、珍宝とも呼ぶべき逸品は、今ではほとんど残っていないと推察いたします。誠に残念なことでございます。


 お話しがすっかり脇道に入ってしまい、大変失礼いたしました。あちら方面のこととなりますと、つい熱が入り饒舌となる悪い癖が出てしまいました。

 さて、福助やその芸を見物するために福富座を訪れた大勢の中に、ある旗本のお殿様と若君様がおられました。このことが、その後福助と私の運命を大きく左右しようとは、その時は知るよしもございませんでした。

 しかし、話をそちらに進める前に、私の芳町勤めについて、お話ししなければなりません。私が芳町で陰間かげまとならなければ、今このように、私が森田様の前にいることもなかったのでございますから。


《続く》

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