第5話 床助、大暴れ
福助と私が江戸に来てから1年ほど経ち、一座の生活にもだいぶ慣れたある日のことでございました。
言い付かった用事を済ませ、福富座の見世物小屋に戻る途中、人影がまばらな道にさしかかりました。だいぶ日が暮れていて、辺りは夕闇に覆われようとしております。すると、前方の横道から、浪人風の身なりをした大柄の男がふいに現れて、こちらに歩いてまいります。編み笠を
「アッ!」
すんでのところで切っ先をかわした私は、身を翻して横の路地に逃げ込みました。男は無言のまま、物凄い速さで追ってまいります。すでに申し上げましたとおり私の一物は長くて大きいため、とっさのことで足が
この時すでに、私は浅草の辺りにはすっかり詳しくなっておりました。長屋や町屋の間の入り組んだ路地を、それこそ
<いったい、あいつは何者だ? 俺は、命を狙われるようなことはしていないはずだが……>
激しく息を弾ませながらいくら考えても、思い当たることはございません。しばらく辺りを窺った後、夜陰に紛れて、兄と住んでいる長屋に戻りました。すでに兄が戻っておりましたので。ことの次第を小声で話しました。
「お前、また女か? どうも懲りないようだな」
実は、新月村での私の悪事—―「改心」した後の悪事―—は、すっかり兄に知られていたのでございます。
「兄貴、それはないよ。江戸に来てからは、大人しいものだ。そろそろ我慢ができなくなってきたけど」
「駄目だろ。一人前の芸を身に付けるまで、辛抱するんだ」
ところが、謎の男の正体が知れるのに、それほどの時は要しませんでした。ある日、福富座で掃除仕事をしていると、弥太郎さんが私を呼びました。
「お前に、女のお客だ。驚くなよ」
「へぇ?」
「裏口にいるから、すぐに行け」
裏口に立っている人物を見た途端、幽霊の冷たい手で、顔を下から撫で上げられたような心持ちがいたしました。何と、新月村のお峰が立っているではありませんか。髪は乱れ、着ているものが
「お峰さんじゃありませんか! もしや、見世物見物ですか?」
「馬鹿をお言いでないよ! みんなお前のせいだ。お前に何とかしてもらわないと、あたしもこの子も、死ななきゃならないよ。
お峰は、涙声になっております。気の強いお峰がこれほど取り乱した姿は、村ではついぞ見たことがございませんでした。
「まあまあ、お峰さん、まずは気を静めて。……こっちへどうぞ」
一座の人達に、
「さあ、いきさつを話して下さい」
「全部バレたんだよ。洗いざらい、全部ね」
「何がでございますか?」
「分からないか? 新月村にいた時のお前の悪行さ」
「悪行? 女房の皆様には、喜ばれこそすれ、怒られるようなことはしておりません。それに、お峰さん。それをお命じになったのは、他ならぬあなた様ではございませんか」
「いい歳になっても、相変わらずおめでたいねぇ、お前というヒョットコは。旦那衆にバレたんだよ!」
「えっ! ど、どうしてです?」
「いいかい、驚くんじゃないよ。あたしにこの子が生まれて喜んでいたら、その後、次々に、村の女房たちが子を産んだんだよ」
「それは別に珍しいことでもないでしょう。律義者の子沢山、てやつですかねぇ」
「何を呑気なことを言ってやがるんだ。次々に生まれた子が皆、この子によく似ているのさ。つまり、お前にね。さすがに、旦那衆がおかしいと感付いたんだ」
「……」
「あたし達は口が堅いから、いくら旦那に問い
「そりゃ、大ごとだ」
「そうだろ。でも、お定は偉かったよ」
「どういうことです?」
「お定は、旦那からどんなに痛めつけられても、あたしの名はいっさい口に出さなかったそうだよ」
「え! 私を陰で操っていた張本人、黒幕であるお峰さんのことは吐かなかったんですかぃ?」
「黒幕とは何だ、黒幕とは。人聞きが悪いじゃないか。ああ、そうだよ。夜這いはすべて、お前が自分の一存で、度し難いスケベ心から、しでかしたことになっているのさ」
「そ、そんな馬鹿な……」
「話はすぐに、旦那衆に広まったよ。女房を寝取られ、あろうことか、
「クワバラクワバラ! でも、ここは江戸ですからねぇ。へへへ。いくら何でも、ここまでは追いかけて来られないでしょう?」
「そうは問屋が卸さないんだよ。旦那衆はね、百姓の自分達が、お前を討ちに行けないことくらい知っているさ」
「討つ? 何だか体が震えてきました」
「太田宿のお
「へえ。お峰さんに言われて、お慰めに伺いましたね。白くてスベスベした餅肌だったなぁ」
「何を
「まさか……」
「その、まさかだよ。村の旦那衆が
「でも、お侍がそんなこと、承知しますかね」
「初めのうち、孫兵衛は断ったそうだ。『
「多分……来ました」
「ほう、そうかい。なのにお前、まだ首と胴が繋がっているようじゃないか」
「先日この界隈を歩いていたら、怪しい浪人者に斬りつけられました。でも、すんでのところで、逃げ切りました。ところで、お峰様はわざわざそのことを知らせに来て下すったのですか?」
「馬鹿をお言いでないよ! 昔と変わらず鈍いね。茂助に離縁されたんだよ。そればかりか、こっぴどく殴られちまった。見ておくれよ」
と言って、お峰は
「普段大人しい奴は怒ると怖いというが、茂助がそうだね。命からがら逃げてきたのさ。だから、何も持っちゃいないよ。今日からお前の世話になるからね」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい。私なんかより、
「あたしゃ、
「な、何ですって⁉ それはご勘弁を……。分かりました! この幸助が何とかいたしましょう。一度は、お峰様に一生尽くすとお誓いした私です。ここで逃げたら、男が廃るというもの。お任せください。ところで、この子の名は何というんです?」
「
お峰と赤子には、しばらく茶店で
「お前が俺より先に子をなすとはなぁ。それはともかく、お峰さんと子の面倒は、お前がしっかり見なきゃいけないぜ。俺も一緒に行くから、市之丞様に相談してみよう」
二人で市之丞様と弥太郎さんの前に行くと、弁舌巧みな福助が、ことの次第を分かりやすく説明してくれました。
「ふーん、そうかい。こんなことを言うと気を悪くするかもしれねぇが、ちょっとばかり面白れぇ話だな。お前の倅の異母兄弟やそのおっ
市之丞様も、思案に暮れている様子でございます。
「市之丞様、
しばらくして、弥太郎さんが、ニヤニヤしながら言います。
「ん? 芳町? ……。芳町ねぇ。そりゃいいかもしれねぇな。さすが遊び人の弥太郎だ」
「人聞きの悪いことを、言わねぇでおくんなさい」
「いや、人間、遊ぶことも大事だぜ。よし、それじゃあ、弥太郎。まずお前が芳町に行って、当たりを付けてきてくれ。もし首尾が良さそうなら、今度は幸助を連れて行って、先方に引き合わせてくれよ」
「へい、分かりやした。あっしにお任せ下さい」
「それから、幸助。お前、陰では床助と呼ばれていたそうだな。ならいっそ、今日から床助と名乗れ。幸助のままじゃあ、孫兵衛とやらに嗅ぎ付けられるかもしれねぇからな」
「へい、分かりやした。市之丞様、何から何まで、有難うございます」
「いいってことよ。それより床助、くれぐれも福助に迷惑を掛けるようなことはするなよ。いいな?」
「へい。肝に銘じます」
こうして私は一座の長屋を出て、
孫兵衛とは、その後一度だけ、浅草でばったり出くわしました。福富座の辺りを見張っていれば、私を見つけられると考えて、網を張っていたのでございましょう。出会った途端、大刀を抜いて叫びました。
「ヤァ、ヤァ! ワ、ワレは上州浪人、田宮孫兵衛なり。……ナ、ナンジは一昨年、我が妻……ならびに上州新月村在住の女房……三百人と不義密通を重ねて立ち退いたる大悪人、上州新月村の幸助よな? 汝、……姿形は
侍同士の仇討ちと勘違いしているようですし、いかにも芝居がかっております。もちろん三百人というのは、まったくの誇張でございます。構えた刀は、どうも
それに、様子がいささか変なのでございます。視線が定まらず、体もふらついております。真っ昼間から、したたか酒を飲んでいるのに違いございません。私はすぐに逃げ出しました。
「おのれ、逃げるか、卑怯者!」
孫兵衛は、ふらつきながらも追っかけてまいります。私は何の造作もなく、孫兵衛を撒きました。ところが、それでは何となく物足りなくなってまいりました。そして、新月村を出て以来長らく忘れていた、悪ふざけがしたい、暴れたいという抑えがたい心持ちが、夏の蚊柱の如くむらむらと湧き上がってきたのでございます。
素早く孫兵衛の後ろに回り込むと、叫びました。
「ほらほら、後ろだよ。
振り返った孫兵衛は、憤怒の形相で追いかけてまいります。そんなことを何回か繰り返しましたが、その程度では、飽き足らなくなってまいりました。私は、懐にあったボロ布を使って、道端に落ちていた犬の
「おーい、探し物か?
孫兵衛めがけて投げた犬の糞が、孫兵衛の頭や肩に降りかかります。
「貴様! 武士を愚弄する気か! 叩っ斬ってやるから、降りてまいれ!」
「どうせ武光だろ? 斬れるもんなら斬ってみな。唐変木!」
「おのれ!」
孫兵衛が刀を振り回しましたから、周りにいた野次馬が、「わっ!」と叫びながら、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出します。騒ぎがさらに野次馬を集め、雪
「おい、騒いでるぜ。喧嘩かな」
「仇討ちでも始まったんじゃねぇか?」
騒ぎから少し離れた所にいた二人組が話しております。すると、ご丁寧にも「喧嘩だ、喧嘩だ!」と大声で触れながら、男が傍らを走っていきます。
二人組の一人が、騒ぎの方角から歩いてきた年寄りに尋ねます。
「そこのご老人。ちと、ものを伺いますが、喧嘩してる野郎は、誰と誰ですかね?」
「知らんのか?」
「知りません。俺ら、今来たばかりなんで」
「浪人者が刀を抜いて、怪童を追いかけ回しておる」
「カイドウって、何ですかぃ?」
「知らんのか? 人並外れた力を持った
「へー」
「哀れじゃのう」
「その怪童とやらが、浪人に斬られたんですかぃ?」
「違うな」
「じゃあ、何ですか?」
「怪童を見られない前さんたちが、哀れじゃと言っておる」
「ちっ! 何だよ爺さん。余計なお世話だい!」
「怪童はな、江戸中を騒がせたあの
老人は、元来た方に駆け出しました。
「何だって! こりゃぁ、まごまごしていられねぇぜ。おい、相棒。行こうぜ!」
二人組も、老人の後を追いかけるように、走り出しました。
そんな風にして、物見高い江戸っ子が次から次へと集まってきて、押すな押すなの大騒ぎとなりました。
ある者は、ぎりぎりまで孫兵衛に近付いて、
「ヘボ侍!」
「帰れ、
「武光野郎!」
などと
一方、私が町屋の庇の上から孫兵衛に小便を振りかけた時には、大きなどよめきが辺りを包みました。何しろ、自慢の一物を、皆様の前でご披露に及んだのですから。
「待ってました!」
「いよっ、日本一!」
そのような掛け声も、あちこちから聞こえてきました。
ですが、そのうちに私はすっかり飽きてしまい、孫兵衛の相手は町の衆に任せて、そっと姿をくらましました。どのようにして騒ぎが収まったのか、私は存じません。
その後お峰が村の女房から伝え聞いた話では、孫兵衛はほどなく路銀を使い果たして江戸にいられなくなり、太田宿に舞い戻ったそうでございます。しかし、孫兵衛から折檻されることを恐れた女房のお菊は、すでに姿をくらましておりました。あるいは、里に戻ったのかもしれません。
しばらくして孫兵衛も、いずこともなく立ち去ったとのことでございます。もちろん、村の旦那衆が渡した金子は戻ってまいりませんでした。
私の前で一芝居打ったのは、せめて形だけでも使命を果そうとしたところを見せたかったからかもしれません。村の旦那衆は、とんだ見当違いの男に依頼したものでございます。
孫兵衛を相手にした私の大立ち回りは、
事件の翌日お峰が、一枚の瓦版を持って長屋に戻ってまいりました。
「これ、お前さんだろ?」
「え? どれ、見せてみろ」
瓦版は、初めに「怪童、浅草で大暴れ」とあり、概略次のように記されておりました。言葉遣いは、現代風に改めてございます。
――昨日の昼過ぎ、浅草は
一人の浪人風の侍が刀を抜き放ち、何やら訳の分からぬことを喚くと、近くにいた
しかしこの小童、そんじょそこらの小童とは、わけが違った。その昔、京は五条大橋の上で
それを聞いた侍は怒り心頭に発し、今度は討ち漏らすまいとその怪童に襲いかかったが、怪童は
騒ぎは騒ぎを呼び、辺りは野次馬でごった返す始末であった。
近くある
仙吉の話によれば、
やがて怪童は、
すく近くで成り行きを見物していた小間物行商人・
さて、この大騒動の極めつけと言うべきは、怪童が庇の上で己の
思いもかけぬ偉観に接した町衆からは、「日本一!」などと讃嘆の掛け声が引きも切らなかった。一方、侍はただただ、歯噛みし地団太を踏むことしか出来なかったのである。
しばらくして、騒ぎを聞きつけた町奉行所の同心らがやってきたので、野次馬はたちまち四散した。怪童の姿も、いつの間にかなくなっていたという――
「これ、お前さんなんだろ?」
「まあな」
「何やってるんだよ! これ以上、孫兵衛を怒らせてどうするんだ。ますます根に持って、草の根分けても、あたしたちを探し出そうとするだろう。餓鬼みたいな真似は、よしとくれよ」
「分かった、分かった。つい、昔の
この騒ぎ以降、私が孫兵衛に出会うことはございませんでした。
いえ、正しく申しますと、街で出くわしたことはないという意味でございまして、孫兵衛との因縁が、まったく切れたわけではございませんでした。そのことは、後ほど申し上げたいと思います。
《続く》
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